■プロフィール

桃栗

Author:桃栗
このブログでのコメントは承認制です。原則として、書き込まれた順に承認・公開していきますが、承認までお時間をいただきます。★コメントへの返事は割愛させていただく場合がありますが★、寄せられたコメントはすべて目を通しています。初めての方はカテゴリーの中の自己紹介をお読みください。記事に直接関係のないご意見・ご感想・批判・賛同などはゲストブックへお願いします。多忙時は一時的にコメントの書き込みを制限する旨をお知らせすることがありますのでご了承ください。

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
イエスは30歳になるまで何をしていたのか?
新約聖書の大きな謎の一つは、
イエスの成長記録についてほぼまったく記されていないことです。
マタイ1~2章、ルカ1~2章によれば、
イエスはベツレヘムの馬小屋で処女マリアから生まれたことになっています。
が、その後の成長についての記録がなく、
ルカ3章23節でいきなり30歳になったイエスが登場します。
唯一の例外は、ルカ3章41節に出てくる12歳の少年イエスの話ですが、
それを除けば彼が30年間どこで何をしていたかという記録は皆無です。
これは不思議なことだと思いませんか?


キリスト教の世界では、
「イエス様は神様だから罪を一つも犯していない」と信じられています。

「この方(イエス)は罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
(ペトロの手紙一 2章22節)


しかし、冷静に考えてみると、
一体どうやって罪を一つも犯さずに30年以上も生活できたのでしょうか?
乳児期はどうだったのでしょうか?
夜泣きをしたりぐずったして親の手を煩わすこともなく、
ウンコもオシッコも漏らしたりしないスーパー赤ちゃんだったのでしょうか。
少年時代はどうだったのでしょう。
当時のイスラエルに学校があったのかどうか知りませんが、
少なくとも近所の「ガキんちょ」との付き合いはあったはずです。
では、「神様」であるイエスはどうやってガキんちょと付き合ったのでしょうか。

大人になってからのイエスは、父(養父)ヨセフに倣って
大工さんをしていたそうです。
故郷に戻って伝道活動をしていたイエスに、
地元の人が驚いてこう言う場面があります。

この人は大工ではないか。(マルコ6章3節)

では、大工職人としてのイエスの腕前はどうだったのでしょうか。
イエスは神様ということになっていますから、
それこそ文字通り「ゴッド・ハンド」の持ち主だったのでしょうか。
それならそれ自体が一つの奇跡として聖書に記されていても良いはずです。
そして、いわゆるガテン系(死語?)の仕事人だった彼は
どんな言葉遣いをしていたのでしょうか。
今の日本でもそうですが、職種によって言葉遣いは結構違いますよね。
道路工事や建築現場の作業員の方々は、
良い意味でもラフな言葉遣いをするものです。
大工仲間に囲まれたイエスは
牧師さんや神父さんのような言葉遣いをしていたのでしょうか?
そんなことをしていたら確実に「浮いていた」と思います。

ともかくイエスの過去に関する記述がほぼ皆無なのは実に不思議です。
「イエス様は罪を犯したことがない」と書いたペトロだって、
イエスが生まれてからずっとそばで見ていたわけでもないでしょうに。
クリスチャンの方は、イエスは本当に罪を犯していないと信じているようですが、
常識的に聖書の記述を考えれば謎が深まるばかりです。
どうもクリスチャンの方々は、理論的に物事を考えようとせず、
教会の話を聞いただけで聖書を知ったつもりになっていませんか?
「生まれてから30年間罪を犯さない生き方」とはどういう生き方なのか、
皆さん説明できますか?
スポンサーサイト

テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

新約聖書の疑問 | 23:13:46 | トラックバック(0) | コメント(37)
コメント
昔の30って本当にいい年だよね・・・
://twitter.com/yukikkusu
2010-06-25 金 11:53:23 | URL | yukikkusu [編集]
洗礼者の弟子だったかも
おじゃまします

イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けていますので、ひょっとすると弟子入りしていた期間があるかも。

イエスの活動が、洗礼者が逮捕されて以後であったようです。
それならば洗礼のときから弟子たちがイエスと共に居たという証言は、共にヨハネの弟子であった期間を指すのかも(使徒 1:21-22、ヨハネ福 1:40)。

イエスが洗礼者をどのように観ていたかについては、ヨハネより偉大な者はいない、という発言があります(マタイ 11:11、ルカ 7:28)。
祭司から「だれが、そうする権威を与えたのか」と尋ねられた時に、洗礼者ヨハネの洗礼の権威はどこから来たものかを確認します(マルコ 11:28-30平行)。
これはヨハネから権威を与えられたのだと答えようとしているようにも見えます。
洗礼者ヨハネが復活したエリヤであると解することができる発言もあります(マルコ 9:10-13)

洗礼自体には熱心でなかったかも知れないのでヨハネとの違いもあるでしょうけど(ヨハネ福 4:2)。
いくらか厳格な生活をしていたのかも知れない。
2010-06-27 日 15:42:31 | URL | Kazist [編集]
ちょっとズレるかも知れませんが…。プロテスタント的に『罪』を解釈すると『神への反逆心』なので、なかったのではないでしょうか(ルカ2章)
カトリック的に解釈すると『自己中心』なので、『自己主張するけど自己中心ではない子供』とかになるのかも。
いずれにしても、目立たないイメージがありますね(故郷でのマリアの息子云々の下り)。
2010-06-27 日 16:57:11 | URL | るーく [編集]
ルカでは
12歳のイエスが「私が父の家に居るのを知らなかったのですか」
というエピソードがありますが、あれもよくわからない言葉ですね。
肉体的にはまだ子どもでも、霊的には父なる神とつながっていた。
ということだと教わりましたが…。
でもそんなことを言われたら、親も周囲の大人たちも戸惑うばかりではないでしょうか。
2010-06-28 月 19:32:07 | URL | ゆま [編集]
まあそんな昔のことはわからんな、っつーか、殆ど作り話でしょ。
本人がどんな人だったのかはわからない。
まあ実際はそんな人はいなかったのかもしれない。

五里霧中もいいとこっすよ。っていうより私としては何故この時代
この宗教が生まれたのかってとこにすごく興味があるのです。

それはこの時代の歴史的地理的事情によるものです。
皇帝は強い結束力が欲しかった。人民を支配する洗脳をしたかった。
それにはこの宗教はうってつけだったという訳です。
中国が日本を仮説敵国として教育して結束している様な話と似たような
物があります。

イエスという男を色々歴史科学的に分析しようとしても無理です。
現実の世界での利権が大きすぎます。握りつぶされます。
といっても○○を批判したら即座に暗殺ですから。(この文章だけで暗殺((((;゚Д゚))  
まだキリスト教はマシですよ。○○だけは新興宗教でも使いません。スルーです。殺されます。

人類がこの愚かな歴史の暗黒から開放されるのはいつの事なのか。
まあ、無いわなあ。
2010-06-29 火 20:23:34 | URL | クリスチャンちの子 [編集]
>それにはこの宗教はうってつけだったという訳です

ウィキペディアでちょっと調べただけですが、ローマ帝国に公認されるのが313年、国教になるのが380年。
権力と結びついたのは何百年も経ってからでしょう。

ローマやエジプトなんかも神政政治やってたわけでしょう。それらの古代帝国の方が、王が神性をもった存在として統治していそう。
それに比べるとローマ国教に決めたテオドシウスは政策について司教の怒りをかって破門されたりしてる。
国教になった時期やその頃の状況を考えても、「権力のために生まれた」と見るのは無理じゃないかな。

2010-06-29 火 23:37:03 | URL | Kazist [編集]
Kazistさん、ちゃんと、wiki読みました?

以下、wikiのコピーですが、

>>またコンスタンティヌス1世がキリスト教に帰依したのも政略にキリスト教を利用しようとした側面が非常に大きい。西ローマを治めるコンスタンティヌス1世がキリスト教に対して寛容な政策をとることで、ライバルのリキニウスとキリスト教徒との折り合いを悪くすることが目的であったといわれる。また、「カエサルのものはカエサルに」という言葉に示されるように、定められた現世の運命を受け入れることを是とするキリスト教の教義は相次ぐ内乱によって弱体化した皇帝の権威を強化するのに非常に適していた。キリスト教は東洋における儒教のような役割を果たしたとされる。
2010-06-30 水 11:58:58 | URL | クリスチャンちの子 [編集]
キリスト教の繁栄が歴史に利用された必然だったとしても、
もひとつ考えなければいけない事があります。

ローマの国境に認められるまでの、キリスト没後300年
それまでこの宗教が続いていた事です。
これだけ長い間迫害受けながら続いた宗教だから本物って発想ですね。

でもキリスト教ってまさに現在のカルトの原型でもある以外に、
宗教の発明品なんですよね。エジソンの電球並ねw。
だからどんなに迫害されてもずっと流行っていったんではないでしょうか。

キリスト教のポイントって要は、
「誰でも」       生まれに寄らず、
「どんな人でも」   過去に何をしていようが、
「キリストを信じさえすれば救われる。」   ここ大事。  

救いとは死後の世界でのいい思いです。
分かりやすく言えば「酒は旨いし、ねーちゃんは綺麗だ。」ということです。

つまりキリストを信じさえすればはずれない宝くじを買う様なもの。
当時の貧しくて何の希望も無い泥を這いずる様な庶民からしてみれば、
流行るのは当然ではないでしょうか。


2010-06-30 水 12:21:32 | URL | クリスチャンちの子 [編集]
>ちゃんと、wiki読みました?

権力者がキリスト教を「利用しようとした」からと言って、
キリスト教が「権力のために生まれた」ということを意味しないでしょう。

「カエサルのものはカエサルに」という言葉が皇帝の支配力を強めるためにイエスが語ったわけでもないでしょう。
皇帝のために作られた宗教をローマが自分で迫害していたと考えねばならないけど、それも変でしょう。

でも、クリスチャンちの子さんの関心の方向は何となく分かってきた気はします。
キリスト教が広がっていった時代背景と言うことですね。

皇帝の権力が法的に整理されることがきっかけなのかも知れません。
宗教や道徳はどこまでも人為的なものではなく、自然とか神に由来するところにその規範力の基礎がある。
法律は人為的なものです。
人為的な法を権威の基礎におく皇帝は道徳的な権威と見なされなくなってゆく。
そういうなかで皇帝は政治的な権力に過ぎない見なして、道徳的宗教的な権威としては認めなかったキリスト教の倫理はウケたのかも。
…この説明はほとんど丸山真男のパクリですが。


福音書のイエスからは政治的な関心はあんまり感じない。

2010-06-30 水 19:31:32 | URL | Kazist [編集]
Re: 洗礼者の弟子だったかも
> おじゃまします
>
> 洗礼自体には熱心でなかったかも知れないのでヨハネとの違いもあるでしょうけど(ヨハネ福 4:2)。
> いくらか厳格な生活をしていたのかも知れない。

あなたがクリスチャンなのかどうか知りませんが、
聖書に都合の良い解釈を施しても余計に矛盾を生じるだけです。

厳格な生活をする赤ちゃんってどんな赤ちゃんですか?
厳格な生活をする少年が近所のガキんちょとまともに付き合えたのでしょうか?
厳格な生活をする大工さんって想像できますか?
2010-07-03 土 11:42:00 | URL | 桃栗 [編集]
>厳格な生活をする赤ちゃんって

公に活動しはじめる前後ぐらいの頃を推測しているだけなので、そこまでさかのぼっては考えてなかったです。
間違いを犯さない子供なんてあんまり可愛くもないかも。

新共同訳ではお上品な表現になっていて曖昧ですが、ウンコすることは前提した発言がありますね。
まぁ当たり前と言えば当たり前ですが。

(マルコ 7:18-19 田川訳)
そして彼らに言う、「あなた達までこのようにものわかりが悪いのか。
外から人間の中に入ってくるものは全て人間を穢すことなぞありえない、ということがわからないのか。
それは人間の心の中に入ってくるのではなく、腹の中に入り、そして便所に出てゆくだけだ、ということが」
(イエスは)すべての食べ物を清いとしていたのである。

上記引用の発言からすると、清いだの汚れだのと細かいことを言うタイプではないようです。
大工としての腕前は分かりませんが、おが屑が目に入るという描写はありますね(マタイ 7:3、ルカ 6:41)。
あと、大酒のみで大食いだそうだ(マタイ 11:19、ルカ 7:34)。

「アッバ」はアラム語の幼児の言葉使いだそうです。つまり「父ちゃん」ぐらいの意味なのでしょう(マルコ 14:36、ローマ 8:15、ガラ 4:6)。
おそらく「主の祈り」(ルカ 11:2以下、マタイ 6:9以下)も元は「アッバ」と呼びかけていたのだろうと思われます。
この気安い呼び掛け方は当時の人々には違和感がある呼びかけだったようです。
偉そうぶったり堅苦しい口調でなくて、普段の物言いで祈ればいいんだよ、という感じなのかも。

厳格な洗礼者ヨハネを非常に高く評価する発言がある一方で、結構大ざっぱな言動の伝承もある。
こういう伝承からすると少々粗野で快活な人物のイメージですがね。
2010-07-03 土 14:12:31 | URL | Kazist [編集]
>一体どうやって罪を一つも犯さずに30年以上も生活できたのでしょうか?
乳児期はどうだったのでしょうか?
夜泣きをしたりぐずったして親の手を煩わすこともなく、
ウンコもオシッコも漏らしたりしないスーパー赤ちゃんだったのでしょうか。

桃栗さんの考えでは、赤ちゃんが夜泣きをしたりぐずったして親の手を煩わすことやウンコもオシッコも漏らすことが罪ですか?
2010-07-04 日 15:33:57 | URL | ぶる [編集]
Re: タイトルなし
> ちょっとズレるかも知れませんが…。プロテスタント的に『罪』を解釈すると『神への反逆心』なので、なかったのではないでしょうか(ルカ2章)
> カトリック的に解釈すると『自己中心』なので、『自己主張するけど自己中心ではない子供』とかになるのかも。
> いずれにしても、目立たないイメージがありますね(故郷でのマリアの息子云々の下り)。

それとイエスの過去とどう関係があるのでしょうか?
記事からズレるとお思いでしたら最初から書かないでください。
2010-07-06 火 00:04:52 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> >厳格な生活をする赤ちゃんって
>
> 公に活動しはじめる前後ぐらいの頃を推測しているだけなので、そこまでさかのぼっては考えてなかったです。
> 間違いを犯さない子供なんてあんまり可愛くもないかも。
>

では、イエスも幼少時は間違いを犯したとでもおっしゃるのでしょうか?
それでは「イエスは罪を犯さなかった」という教えと矛盾します。
それともイエスは幼少時も間違いを犯さなかったから「可愛くなかった」とでも?
どちらにしてもクリスチャンには都合の悪い答えですね。

> 厳格な洗礼者ヨハネを非常に高く評価する発言がある一方で、結構大ざっぱな言動の伝承もある。
> こういう伝承からすると少々粗野で快活な人物のイメージですがね。

「言動が大雑把で粗野で快活、なおかつ罪を犯さない人物」って想像できません。
ですから、いくらご自分に都合の良い解釈を施しても、
余計に矛盾を生じるだけです。
2010-07-06 火 23:40:36 | URL | 桃栗 [編集]
Re: ルカでは
> 12歳のイエスが「私が父の家に居るのを知らなかったのですか」
> というエピソードがありますが、あれもよくわからない言葉ですね。
> 肉体的にはまだ子どもでも、霊的には父なる神とつながっていた。
> ということだと教わりましたが…。
> でもそんなことを言われたら、親も周囲の大人たちも戸惑うばかりではないでしょうか。

私もまったく同感です。
実は次にその話を取り上げるつもりでいましたので、
そのときに私の考えを書きたいと思います。
2010-07-07 水 23:18:47 | URL | 桃栗 [編集]
「罪をおかしたことがない」という(1ペテロ 2:22)は、たぶん(イザヤ 53:9)をふまえながら、イエスは「不当に処刑された」という点を強調して言ってるのでしょう。
イエスの出来事は旧約聖書に預言されているのだということが前提になっているようです。
それをまた拡大してイエスの子供時代に当てはめるというのは難しいですね。
そういうのは神学的な発想のようです。

>「言動が大雑把で粗野で快活、なおかつ罪を犯さない人物」って想像できません。

その想像があたっているならば罪を犯しているのでしょうね。

ただそれでも、それ以前には(幼児の頃はともかく)厳格な生活を送っていた可能性ぐらいはあるかなと。
それが洗礼者ヨハネの弟子だったかも…ということです。
2010-07-08 木 15:34:43 | URL | Kazist [編集]
Re: タイトルなし
> >一体どうやって罪を一つも犯さずに30年以上も生活できたのでしょうか?
> 乳児期はどうだったのでしょうか?
> 夜泣きをしたりぐずったして親の手を煩わすこともなく、
> ウンコもオシッコも漏らしたりしないスーパー赤ちゃんだったのでしょうか。
>
> 桃栗さんの考えでは、赤ちゃんが夜泣きをしたりぐずったして親の手を煩わすことやウンコもオシッコも漏らすことが罪ですか?

あなたはそれで反論したおつもりなのでしょうが、
少年期や大工時代については触れませんね。
都合の悪い部分はやはり無視のようですね。
2010-07-09 金 23:26:01 | URL | 桃栗 [編集]
>当時のイスラエルに学校があったのかどうか知りませんが、
少なくとも近所の「ガキんちょ」との付き合いはあったはずです。
では、「神様」であるイエスはどうやってガキんちょと付き合ったのでしょうか。

神様ががきんちょと付き合うことが罪ですか?

>そして、いわゆるガテン系(死語?)の仕事人だった彼は
どんな言葉遣いをしていたのでしょうか。
今の日本でもそうですが、職種によって言葉遣いは結構違いますよね。
道路工事や建築現場の作業員の方々は、
良い意味でもラフな言葉遣いをするものです。
大工仲間に囲まれたイエスは
牧師さんや神父さんのような言葉遣いをしていたのでしょうか?

ラフな言葉遣いが罪ですか?

>そんなことをしていたら確実に「浮いていた」と思います。

浮くことが罪ですか?

>少年期や大工時代については触れませんね。
都合の悪い部分はやはり無視のようですね。

揚げ足取りの好きな桃栗さん、
こういう風に書けばよかったですか?
2010-07-12 月 00:32:53 | URL | ぶる [編集]
Re: タイトルなし
> 「罪をおかしたことがない」という(1ペテロ 2:22)は、たぶん(イザヤ 53:9)をふまえながら、イエスは「不当に処刑された」という点を強調して言ってるのでしょう。
> イエスの出来事は旧約聖書に預言されているのだということが前提になっているようです。
> それをまた拡大してイエスの子供時代に当てはめるというのは難しいですね。
> そういうのは神学的な発想のようです。
>
> >「言動が大雑把で粗野で快活、なおかつ罪を犯さない人物」って想像できません。
>
> その想像があたっているならば罪を犯しているのでしょうね。
>
> ただそれでも、それ以前には(幼児の頃はともかく)厳格な生活を送っていた可能性ぐらいはあるかなと。
> それが洗礼者ヨハネの弟子だったかも…ということです。

あながクリスチャンかどうか知りませんが、
結局、イエスは罪を犯したのでしょうか? 犯していないのでしょうか?
その辺のところはあいまいにぼやかすのですね。
2010-07-12 月 21:36:19 | URL | 桃栗 [編集]
>その辺のところはあいまいにぼやかすのですね。

何を断言できるのでしょう。

1ペテロの著者にしたってイエスの人生を全部見てきたわけでもないでしょう。
(1ペテロ 2:22)は神学的な判断なのだろうと推測できるし、イザヤを踏まえて書かれていることからもその推測が裏付けられると思います。
ここは「不当な苦しみを受けることになっても」(1ペテロ 2:19)耐えなさいという趣旨で語られていて、それをイエスが冤罪で処刑された話と重ねているわけです。
イエスが処刑されたのは、別にウンコした罪ではないでしょう。


想像の中でイエスが罪を犯したに違いないと思うことは可能です。
夜泣きしたり…を罪に数えるのも結構ですが。
別に否定もしないです。


罪を犯さなかったというのは事実というより神学だというのも、それなりに批判的じゃないですかね。
でも神学的な記載であっても、神学が単なる思い付きではなく、何かしらイエスの実態に基づいたものであれば、そういう部分からイエスの言動を推測できるかも。それは推測であっても確度が違うでしょう。
(1ペテロ 2:22)ならばイザヤの影響を考えたり…となるわけです。
その作業を飛ばすと、想像の中で犯した罪を問題にするしかなくなってくるのではないかなと。

2010-07-13 火 10:16:17 | URL | Kazist [編集]
Re: タイトルなし
> >当時のイスラエルに学校があったのかどうか知りませんが、
> 少なくとも近所の「ガキんちょ」との付き合いはあったはずです。
> では、「神様」であるイエスはどうやってガキんちょと付き合ったのでしょうか。
>
> 神様ががきんちょと付き合うことが罪ですか?

日本語読解力のない方ですね。
私は「どうやってガキんちょと付き合ったのか」と書いているのであって、
ガキんちょと付き合うことが罪だとは一言も言っていません。
どう解釈したらそうなるのか不思議です。


> >そして、いわゆるガテン系(死語?)の仕事人だった彼は
> どんな言葉遣いをしていたのでしょうか。
> 今の日本でもそうですが、職種によって言葉遣いは結構違いますよね。
> 道路工事や建築現場の作業員の方々は、
> 良い意味でもラフな言葉遣いをするものです。
> 大工仲間に囲まれたイエスは
> 牧師さんや神父さんのような言葉遣いをしていたのでしょうか?
>
> ラフな言葉遣いが罪ですか?


そんなことは言っていません。
では、ラフな言葉遣いが許されるなら、
神父さんや牧師さんがラフな言葉遣いをしても良いのですね?


> >そんなことをしていたら確実に「浮いていた」と思います。
>
> 浮くことが罪ですか?

そんなことは言っていません。
ただ、浮いたままでは人間関係もうまくいかないだろうし、
周囲に伝道も出来ないのではないでしょうか。
聖書にはイエスが大工仲間に伝道した記述はないようですし。


> >少年期や大工時代については触れませんね。
> 都合の悪い部分はやはり無視のようですね。
>
> 揚げ足取りの好きな桃栗さん、
> こういう風に書けばよかったですか?

それを私が指摘しなくても書いてくださればなお良かったです。
2010-07-13 火 22:09:43 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> >その辺のところはあいまいにぼやかすのですね。
>
> 何を断言できるのでしょう。
>
> 1ペテロの著者にしたってイエスの人生を全部見てきたわけでもないでしょう。
> (1ペテロ 2:22)は神学的な判断なのだろうと推測できるし、イザヤを踏まえて書かれていることからもその推測が裏付けられると思います。
> ここは「不当な苦しみを受けることになっても」(1ペテロ 2:19)耐えなさいという趣旨で語られていて、それをイエスが冤罪で処刑された話と重ねているわけです。
> イエスが処刑されたのは、別にウンコした罪ではないでしょう。
>
>
> 想像の中でイエスが罪を犯したに違いないと思うことは可能です。
> 夜泣きしたり…を罪に数えるのも結構ですが。
> 別に否定もしないです。
>
>
> 罪を犯さなかったというのは事実というより神学だというのも、それなりに批判的じゃないですかね。
> でも神学的な記載であっても、神学が単なる思い付きではなく、何かしらイエスの実態に基づいたものであれば、そういう部分からイエスの言動を推測できるかも。それは推測であっても確度が違うでしょう。
> (1ペテロ 2:22)ならばイザヤの影響を考えたり…となるわけです。
> その作業を飛ばすと、想像の中で犯した罪を問題にするしかなくなってくるのではないかなと。

それで、結局、イエスは罪を犯したのか犯さなかったのか、
どっちだとお考えなのでしょうか。
それははっきりとおっしゃらないのですね。
のらりくらりと違う話を並べて論点をぼやかす習性は
ほかのクリスチャンと同じですね。
もっとも、あなたがクリスチャンなのかどうかまだ聞いていませんが。
2010-07-19 月 15:22:22 | URL | 桃栗 [編集]
僕は信者ではないですよ。

「罪を犯した」という意見でも構わないです。
そう言ってみたところで、…一体何の罪を問題にしているのかも分かりませんが。

イエスが洗礼者の「弟子」であっただろうと書きましたが、たぶん信者さんはそう考えないだろうと思います。
これはこれで実は批判的な意見だったわけです。

2010-07-20 火 18:51:07 | URL | Kazist [編集]
はじめまして
はじめまして。先月クリスチャン(プロテスタント)になったばかりの31歳です。

イエスは30歳になるまで何をしていたのか?
聖書に記載がないのでわかりません。
また、聖書以外にイエスの記載があるかないかは私にはわかりません。
(あれば、それを元に学者さんが推測できるのでしょうけど)
つまり、イエスが30歳になるまで何をしていたのかは私にはわかりません。
あえていうなら大工でしょうけど。

生まれてから30年間罪を犯さない生き方
難しい問題ですね。
罪の概念によると思います。
それを「罪の概念は個々によって違う」という考え方もあるでしょうが、キリスト教とイエスについての内容なので(そもそも聖書がそうだし)
キリスト教的に罪というと出エジプト記20章3~17節
つまり『イエスは30年間モーセの十戒を犯さなかった』んじゃないでしょうか?
ちなみに父と母を敬えと書いてあるのであって、迷惑をかけるなとは書いてません。
で、あくまで日本語訳(私の聖書は新改訳)であって、もともとのヘブライ語の言葉の意味はわかりません。

キリスト教的ではない答え方をするならば、
一般的に考えて『その時代のその国の法律を犯さなかった』んじゃないでしょうか?


個人的にはむしろ『何故30歳になるまで布教活動をしなかったのか?』の方が疑問です。


余談ですが、ブログの中身を色々と拝見させて頂きましたが、どれも最もな疑問だと思います。
私自身、自分の信じるものに嘘偽りはないかと、常に疑問を持ち牧師やキリスト者に問いかけています。
その日々の中で出会った、私が納得出来した書籍から引用させて頂きます。
【キリストは神か偽善者か?】ジョシュ・マクドウェル

聖書を科学的に立証することはできません。
科学的証明とは基本的に、事実を疑ってる人の前で同じ事をやってみせて、それが事実であると示す方法です。その場合、観察ができ、データが得られ、仮説を経験的に立証できるよう、環境を調整する必要があります。
なので、『昨日テレビを見た』とか、『昼食をとった』といっても、科学的に立証するのは不可能なのです。
科学的方法が使えるのは繰り返しが可能な事柄だけで、歴史上の人物や出来事についての疑問を立証したり反証したりするのは不適当なのです。

しかし歴史的立証は可能です。
歴史的証明に用いられる証拠とは、口頭による証言、文書による証言、証拠物件(銃、弾、ノートなど)です。
これにより事実を確定すれば、合理的な疑問を越えて『今日昼食にでかけた』事を証明することができます。『友人があなたをみかけた』、『ウェイターが覚えていた』、『レシートが残っていた』などです。

と記載した後この本の中で、書誌学的検証、内的証拠による検証、外的証拠による検証が記載されています。


もし、聖書に記載されている事が納得できないのであれば、それは『江戸時代は無かった』とか、『坂本龍馬は生涯なにもせず土佐にいた』に等しいことだと私は思いました。
もし、目で見たものしか信じられないのなら、風も空気も匂いも信じていない事になると私は思います。

以上があなたの疑問に対する私の返答です。


最後に逆に質問です。
あなたの言う「イエスは30歳になるまで何をしていたのか?」「生まれてから30年間罪を犯さない生き方」についてあなたはどうお考えなのでしょうか?出来る事ならあなたなりの答えを聞かせてください。
わからないから質問したというのならば、『人智を越えたものだからわからない』という仮説もなりたつのですが。
2010-07-23 金 03:50:37 | URL | alchemist [編集]
alchemist さんへ
>あなたの言う「イエスは30歳になるまで何をしていたのか?」「生まれてから30年間罪を犯さない生き方」についてあなたはどうお考えなのでしょうか?出来る事ならあなたなりの答えを聞かせてください。

桃栗さんへの質問ですが、私が答えるとイエスは30歳になるまで何をしていたかは聖書に記載がないので不明のままだと思います。生まれてから死ぬまで罪を犯さなかったというのは、そもそもイエスは私達と変わらない不完全な人間であったので、30歳になるまでに罪を犯さなかったはずがないと思います。

モーセの十戒を犯さなかったというのは面白い考え方だと思いました。十戒には殺人をしてはいけないとありますが、その掟は守ろうと思えば私たちにも守れるものだと思います。父母を敬いなさいというのは厳密には守りにくい掟ですが、イエスの両親にしてみればイエスには口頭で注意するのみで、ほとんど懲らしめを与えたことがないとかそんな感じだったのかもしれませんね。そうなるとイエスはほとんど父母に逆らっていないように見えたかもしれません。イエスは12歳のとき「私が私の父の家にいるのを知らなかったのですか?」と言ってますが、イエスの両親にしてみれば何か不可解なことを言っている子供だけど、親に反抗しているとまでは感じなかったかもしれません。

ただ、イエスが当時の法律を守っていたかというとそれは当てはまらないと思います。当時の法律というのは政治と宗教が合体していたような感じで、パリサイ人の宗教指導者達の作った無数の宗教規則を守らなければいけないことになっていました。イエスはこの無数の規則については、その内の一つの安息日を守ることについて異議を唱えたことがあります。マタイ12章を見て下さい。イエスは宗教指導者達に異議を唱えてばかりいたため、当時の法律である宗教規則に違反してばかりだったと思います。イエスは最終的に死刑にされましたが、その罪名も当時の宗教指導者達に逆らったというようなもので要は当時の法律に逆らっているということでした。

ここでいったい何が罪になるのかということになりますが、聖書ではイエスが登場するまではモーセの十戒が主体であり、イエスが出てきてからはイエスの教えた内容が守るべきものになっています。聖書にはイエスが神の子であったとあるので、イエス自身が法律みたいなもので罪を犯しようがないと思えます。また、モーセの十戒についてもイエスが登場するまでの律法の雛型であり、つまりは仮の律法であったわけです。イエスが神の子で完璧な律法を作る人で、イエスが登場するまでは何も律法がないと無法地帯になるのでそれまで仮の律法としてモーセの十戒がありました。イエスが登場するとモーセの十戒は必要なくなり、新たにイエスの教えが十戒にとって代わることになります。こうなると聖書の内容に従うと、イエスが神の子であるのでイエス自身が法律であり、罪を犯す云々の前にイエスに逆らうと罪でイエスに従うと善になることになります。ここでイエスは30歳でバプテスマを受けたのだから、30歳からイエスの話す内容は神の法律になったという考えがありますが、一方で生まれてから30歳になるまではイエスはどういう存在であったかという疑問があります。私はイエスが神の法律そのものになったのは聖書的には30歳からで、それまでは法律そのものという存在ではなかったのではないかと思います。イエスは30歳でバプテスマを受けるまでは十戒を厳密に守るまではいかなくても基本的には守っていたのではないかと思います。このように考えると、イエスはバプテスマを受ける前までは神の律法である十戒を基本的に守っていたので罪を犯さなかったと聖書的に言えるのかなと思います。バプテスマを受けてからはイエス自身が神の法律そのものになり、罪を犯したかどうかを判定するのはイエスだったので、イエスが罪を犯したと誰かに言われる筋合いはなかったと思います。ただ神の法律そのものになったイエスは宗教指導者達の作った宗教規則に違反しまくりでしたが。以上のように考えると、聖書的にはイエスは罪を生涯罪を犯さなかったと言えると思います。
2010-07-23 金 10:41:08 | URL | XXX [編集]
続き
罪を犯さない生き方とは一体どのようなものでしょうか?聖書的にはイエスが登場する前はモーセの十戒を主体とした旧約聖書の教えを守ること、イエスが登場してからはイエスの教えを主体とした新約聖書の教えを守ることだと思います。しかし、聖書が神の霊感を受けていないと考えた場合、罪を犯すとはいったいどのようなことなのでしょうか?

罪を犯すとはあえて言うなら、神の目から見て罪であるということでしょう。これはどのようなものでしょうか。現代では人間が作った数多くの法律がありますが、法律の目的はそれぞれの人間個人の権利を守ることだと思います。他者の権利を侵害することを法律では禁じているわけです。人間の作った法律を見ることで人間の精神も見えてきて、その中に神の考えも垣間見ることができるような気がします。神の目から見ても、他者に愛を示せている状態が善であり、他者の権利を侵害している状態を悪としていると思います。罪とは他者に愛を示せていない状態のことです。

これには動機が非常に重要になってくると思います。幼い子供が人の物を持って行ってしまったとしても、その動機は悪意のないもので罪ではありません。幼い子供が自分で自分のことができず人の手を煩わせることも、子供自身に悪意はないので罪とはなりません。人が他者の権利を侵害することをした場合、その動機が重要となります。不完全な人間の場合、悪意がなくても過失により他者の権利を侵害してしまうことがあります。例えば事故を起こして人を死なせてしまったりすることがあります。その場合、犯罪ではないので刑務所に入る必要はないですが、責任があり賠償する必要があります。過失とは不注意ミスから生じることを言っていて、もっと気を付ければ防げたかもしれない事柄を言っています。そのため幼い子供が間違いをしたとしても、それは過失とはならず子供自身には責任は生じてきません。過失は罪に問われますが、過失でもなく悪意もない場合は罪に問われません。

罪を犯さないとは常に他者に愛を示せている状態のことを言うと思います。これは不完全な人間には不可能なことです。それは単に他者の権利を侵害しないだけでなく、自分の心の中が常に他者を愛している状態でなければいけないからです。不完全な人間はときたま他者に愛を示しますが、常に他者を愛し続けていることはできません。人間は生まれながらにして自分本位な生き物であり、幼い子供の頃から心の中の状態が自己中心的です。そのために人間は罪を犯します。生まれてから一瞬でも心の中が自己中心的な考えにならないというのは、不完全な人間には不可能です。罪を犯さない生き方というのは行動で常に他者を愛を示すことができ、心の中も常に他者を愛している状態というのを指すと思います。
2010-07-24 土 15:52:27 | URL | XXX [編集]
Re: タイトルなし
> 僕は信者ではないですよ。

先におっしゃってくださいね。
そうでないと、こちらとしても話が進めにくいので。
私は、貴方への最初のコメントに、
「貴方がクリスチャンかどうか知りませんが」と書きましたが、
クリスチャンでないのならはっきりとそのときに言えたはずです。


> 「罪を犯した」という意見でも構わないです。

それだと、まるで私が決め付けたような言い方ですね。
最後の最後まで、御自分の意見としては
「罪を犯した」「犯さない」とはおっしゃらないのですね。
2010-08-09 月 23:49:27 | URL | 桃栗 [編集]
Re: はじめまして
> はじめまして。先月クリスチャン(プロテスタント)になったばかりの31歳です。

> 生まれてから30年間罪を犯さない生き方
> 難しい問題ですね。
> 罪の概念によると思います。

これですね。
結局、「罪」ひとつを取っても、
宗派や教派、それに個人によって解釈が違うのです。
それぞれの宗派が聖書をそれぞれに解釈し、
それが真理だと信じているのです。


> それを「罪の概念は個々によって違う」という考え方もあるでしょうが、キリスト教とイエスについての内容なので(そもそも聖書がそうだし)
> キリスト教的に罪というと出エジプト記20章3~17節
> つまり『イエスは30年間モーセの十戒を犯さなかった』んじゃないでしょうか?
> ちなみに父と母を敬えと書いてあるのであって、迷惑をかけるなとは書いてません。

それは単なる言い訳に過ぎません。
本当に父と母を敬っているなら迷惑はかけないでしょう。
では、貴方が子供から迷惑をかけられても、
貴方は自分が子供から敬われていると感じるのでしょうか。


> 個人的にはむしろ『何故30歳になるまで布教活動をしなかったのか?』の方が疑問です。

イエスが実在したとすれば、
若い頃に伝道しなかったのはそれはただの普通の人間だったからでしょう。
大工さんとして生計を立てていたぐらいですからね。
そんなイエスがなぜ30過ぎで突然伝道を始めたのか?
あくまでも個人的な考えですが、
オウムの幹部のように、ある年齢までは普通の人として育ってきたのに、
何かのきっかけで宗教またはその教祖を知ることになり、
(イエスの場合はバプテスマのヨハネに会ったときのように)、
ばかの一つ覚えのようにその宗教に傾倒していったのではないでしょうか。
それを「神」に祭り上げたのが弟子やパウロをはじめ後世の人間です。
あくまでも個人的な意見ですが。


> 余談ですが、ブログの中身を色々と拝見させて頂きましたが、どれも最もな疑問だと思います。
> 私自身、自分の信じるものに嘘偽りはないかと、常に疑問を持ち牧師やキリスト者に問いかけています。
> その日々の中で出会った、私が納得出来した書籍から引用させて頂きます。
> 【キリストは神か偽善者か?】ジョシュ・マクドウェル

> しかし歴史的立証は可能です。
> 歴史的証明に用いられる証拠とは、口頭による証言、文書による証言、証拠物件(銃、弾、ノートなど)です。

では、旧約聖書の神が存在することは歴史的立証は可能なのでしょうか?
エデンの園にアダムとエバが作られたことをどう立証するのでしょうか?
イエス・キリストという救い主が処女マリアから生まれ、
十字架に付けられ死んだ後に蘇ったことも、
歴史的に立証されているのでしょうか?
聖骸布という、キリストの遺体を覆ったとされる布がありますが、
それが「キリストが蘇ったという証拠」の証拠はあるのでしょうか?


> これにより事実を確定すれば、合理的な疑問を越えて『今日昼食にでかけた』事を証明することができます。『友人があなたをみかけた』、『ウェイターが覚えていた』、『レシートが残っていた』などです。

この程度のことで事実が証明できるなら、
いくらでもアリバイが作れることになります。


> もし、聖書に記載されている事が納得できないのであれば、それは『江戸時代は無かった』とか、『坂本龍馬は生涯なにもせず土佐にいた』に等しいことだと私は思いました。

もし、古い書物に書かれていることが正しいと信じているのであれば、
「私は竹取物語が真実だと信じている」と言うのに等しいと私は思います。


> もし、目で見たものしか信じられないのなら、風も空気も匂いも信じていない事になると私は思います。

クリスチャンからのまさにこのような書き込みをずっと待っていました。
私も日曜学校で講師の方から同じような話を聞き、
当時はいちおうはそれで納得していました。
しかし、今ははっきりと反論させていただきます。

見えなくても信じられるものはいくらでもあります。
風は見えなくても体で感じることが出来ます。
草木が揺れたり物が飛ぶのでその存在が分かります。
空気も目に見えませんが、実際、私たちはそれを呼吸して生きています。
だから空気の存在は実感することが出来ます。
匂いは鼻で感じることが出来ます。
音も目に見えませんが、耳で感じることが出来ます。

しかし、神様は人間の五感では知ることが出来ません。
視覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚、どの器官でも感じることが出来ません。


> 最後に逆に質問です。
> あなたの言う「イエスは30歳になるまで何をしていたのか?」「生まれてから30年間罪を犯さない生き方」についてあなたはどうお考えなのでしょうか?出来る事ならあなたなりの答えを聞かせてください。

上に書いたとおりです。
2010-08-10 火 23:09:56 | URL | 桃栗 [編集]
いつも桃栗さんのコメントを読んでなるほどと感心させられています。
イエスは12歳のとき、両親がイエスを探し回っている間、神殿にいて親に「私が父の家にいるのを知らなかったのですか」と言っていますが、イエスは確かに両親に迷惑をかけていたと思います。両親がずっと探し回っていたのですから、イエスのほうに過失があったように思います。イエスは幼い子供のため迷子になったのではなく、神殿で宗教指導者達に質問するのに夢中でいたためにうっかり両親と一緒に帰ることを忘れてしまったからです。もし完全な人間であれば、過失をしない、つまりミスをしないと思うので、イエスは不完全な人間であったと結論できると思います。イエスが両親を敬っていたかどうかというより、イエスが過失をしていることに注目すれば、イエスが不完全な人間であることが分かると思います。

桃栗さんの言うように神様は五感で感じることができません。神様が造ったものは見ることができ感じることもできますが、創造したはずの神様を感じることはできないというのは実に不思議な気がします。クリスチャンは神様が造った物を見て神様まで見たような気になり、祈りで神様と意思疎通がとれていると主張するので、頭の中がごっちゃになっているように思えます。確かに神様が造った物は見ることができますが、神様自身は姿を確認することはできないのです。
2010-08-13 金 22:16:47 | URL | XXX [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2010-08-14 土 14:28:23 | | [編集]
>「罪を犯した」「犯さない」とはおっしゃらないのですね。


赤ん坊が悪意をもってやってるんだったら別でしょうけど。夜鳴きをしたり、お漏らししたり、人付き合いが悪かったりすることをそれ自体を罪だと思ってないですね。

責任能力のないような幼少期の、それも誰でもするようなことを罪といわれてもねぇ…って感じです。

たとえば障害児だったら健常者より手がかかるでしょうが、だからと言ってほかの子よりも罪深いとも思わないですし。親の手を煩わすからと言って文句言ったり、ほかの子が付き合いたがらないからと言ってその子の罪を問うのは可愛そうですしね。

責任能力がある時期で、宣教前については、とくにそんな伝承がないので何を言っても空想になってしまいます。
(推測してみると割りと厳格な生活を送っていた時期がありそうです。後にそう厳格でもなくなるようですが)


>クリスチャンでないのならはっきりとそのときに言えたはずです

これは失礼しました。
2010-08-15 日 16:26:13 | URL | Kazist [編集]
Re: alchemist さんへ
> 桃栗さんへの質問ですが、私が答えるとイエスは30歳になるまで何をしていたかは聖書に記載がないので不明のままだと思います。生まれてから死ぬまで罪を犯さなかったというのは、そもそもイエスは私達と変わらない不完全な人間であったので、30歳になるまでに罪を犯さなかったはずがないと思います。

他の方へのレスにも書きましたが、
もしもイエスという人物が実在したとすれば、
ある年齢まではただの人間だったのではないかと思います。
そして、新興宗教にハマった人のように、
ある時期から突然宗教に目覚めたのでしょうね。
そして、パウロがこれまたばかの一つ覚えみたいにキリスト教にハマり、
多くの書簡を書いています。
現在のキリスト教の教義の多くが、
なぜかイエス本人の言葉ではなくパウロの書簡から採られています。
だからキリスト教は時にパウロ教と揶揄されるのです。

ほんの一例ですが、ローマ信徒への手紙の6章なんかを読むと、
本当にこの人はばかの一つ覚えみたいにキリスト教に陶酔しているのが分かります。


> モーセの十戒を犯さなかったというのは面白い考え方だと思いました。十戒には殺人をしてはいけないとありますが、その掟は守ろうと思えば私たちにも守れるものだと思います。父母を敬いなさいというのは厳密には守りにくい掟ですが、イエスの両親にしてみればイエスには口頭で注意するのみで、ほとんど懲らしめを与えたことがないとかそんな感じだったのかもしれませんね。そうなるとイエスはほとんど父母に逆らっていないように見えたかもしれません。イエスは12歳のとき「私が私の父の家にいるのを知らなかったのですか?」と言ってますが、イエスの両親にしてみれば何か不可解なことを言っている子供だけど、親に反抗しているとまでは感じなかったかもしれません。

ヨセフとマリアがどう思ったのかは知りませんが、
実際、クリスチャンが子供にそんな態度を取られたらどうでしょうね。
2010-08-17 火 22:02:09 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 桃栗さんの言うように神様は五感で感じることができません。神様が造ったものは見ることができ感じることもできますが、創造したはずの神様を感じることはできないというのは実に不思議な気がします。クリスチャンは神様が造った物を見て神様まで見たような気になり、祈りで神様と意思疎通がとれていると主張するので、頭の中がごっちゃになっているように思えます。確かに神様が造った物は見ることができますが、神様自身は姿を確認することはできないのです。

良いことおっしゃいましたね。
神が存在するとするならば、神が創造したものを確認することは出来でも、
神自身は確認する術がありません。
旧約聖書ではしばしば神と人間が対話しているのに、
現在の神様はいくら人間が熱心に祈っても沈黙したままです。
つまり、神と人間とのコミュニケーションが一方通行なのです。
いえ、すでに新約聖書の時代でさえそうでした。
イエス自身も父なるエホバの神に祈りをささげる場面はあっても、
神とイエスが対話した場面はあるのでしょうか。
なんせ十字架に付けられて息を引き取る直前のセリフが


「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
(マタイ27章46節, マルコ15章34節)


ですから。
ご丁寧に2つの福音書にそう記されています。
2010-08-28 土 16:59:06 | URL | 桃栗 [編集]
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
(マタイ27章46節, マルコ15章34節)

この言葉には私も悩みました。
たぶん、イエス様は
「マジで死ぬ。やばいよ。父ちゃん助けて!」
って言ったのは本音で、墓に入れられます

しかし、三日後に復活?したという事実があれば
父なる神は見捨ててなかったのでしょう。
このレベルになると、もう信じるか否かですねw

また、キリスト教を極めていくと、いくほど
神の存在を疑ったりするそうです。

マザーテレサでさへ、神の存在を疑った時期があったと聞きます。
しかし、信仰は捨てなかった。
だから、あれだけの偉業を為せたのでしょう。
2010-09-27 月 23:20:45 | URL | よしゅあ [編集]
Re: タイトルなし
> 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
> (マタイ27章46節, マルコ15章34節)
>
> この言葉には私も悩みました。
> たぶん、イエス様は
> 「マジで死ぬ。やばいよ。父ちゃん助けて!」
> って言ったのは本音で、墓に入れられます
>
> しかし、三日後に復活?したという事実があれば
> 父なる神は見捨ててなかったのでしょう。

その解釈が正しいとすれば、
つくづく神様はサディスティックだと思います。
自分の独り子が十字架で苦しんでいるのを黙って見ておいて、
その後で3日目に復活させるとは、
ちょっと恩着せがましくありませんか?


> このレベルになると、もう信じるか否かですねw

残念ながら私は信じることが出来ません。
なぜなら、復活したイエスが会ったのは弟子と信者だけであり、
ピラトを始め、自分を裁いた人々の前には現れていないからです。


> また、キリスト教を極めていくと、いくほど
> 神の存在を疑ったりするそうです。

今の私がその状態です。
聖書を読めば読むほど矛盾点が目に付いてしまいます。


> マザーテレサでさへ、神の存在を疑った時期があったと聞きます。
> しかし、信仰は捨てなかった。
> だから、あれだけの偉業を為せたのでしょう。

マザーテレサについてはこちらの記事をお読みください。
tp://home.hpo.net/hhhptdai/motherteresa.htm
どこまでが本当なのかは知りませんが、これを読むと
「火のないところに煙は立たぬ」という諺を思い出します。
2010-10-03 日 20:03:41 | URL | 桃栗 [編集]
キリストが30歳で伝道を始めたのは…
司祭になれるのが30歳以上だから、というのが有力な説。

人と同じように洗礼を受けた事などから鑑みて、わたしもそうであろうと思う。
2010-12-09 木 12:40:42 | URL | トチ [編集]
Re: キリストが30歳で伝道を始めたのは…
> 司祭になれるのが30歳以上だから、というのが有力な説。
>
> 人と同じように洗礼を受けた事などから鑑みて、わたしもそうであろうと思う。

この記事の主旨は
「イエスは30歳になるまで何をしていたのか?」であって、
「イエスが30歳で伝道を始めたのはなぜか?」ではないのですが。
2011-01-02 日 23:44:41 | URL | 桃栗 [編集]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad