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桃栗

Author:桃栗
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幼児洗礼に意味はあるのか?
キリスト教には「洗礼」という儀式があります。
主イエス・キリストを救い主として信じることを告白し、
洗礼という儀式を受けたのち、
晴れてクリスチャンと呼ばれるようになります。

キリスト教の多くの宗派や教派には、
受ける時期によって2種類の洗礼があります。
1つは乳幼児期に受ける「幼児洗礼」、
もうひとつはある程度の年齢以降の人が受ける「成人洗礼」です。
(成人と言っても、必ずしも20歳以上という意味ではない)
クリスチャンホームに生まれた私は、
この幼児洗礼と成人洗礼の両方を受けたことがあります。
しかし、幼児洗礼って意味があるのでしょうか?


そもそも、洗礼とは、本人の意思で信仰告白して受けるものでないと
意味がないと思います。
幼児洗礼というのは子供自身の意思ではなく、
「親の意思」によるものです。
こんな洗礼に何の意味があるのでしょうか・

私が幼児洗礼を受けたのはいつのことかよく覚えていません。
物心が付くか付かないかの時期だったと思います。
ただなんとなく、自分がなぜか礼拝堂にいて、
牧師さんが私の頭に手を当てて、
何か祈りをささげていたような、
そんなおぼろげな記憶しか残っていません。

おそらく、世界で行われる幼児洗礼の限りなく100パーセント近くが
親の意思によって行われるのではないでしょうか。
第一、まだあどけない顔をした乳幼児が、
「私は主イエスを救い主として受け入れます」なんて真顔で信仰告白したら、
それこそ気持ち悪いと思いませんか?

ネット上で、「幼児洗礼 意味」のキーワードで検索すると、
一部キリスト教関係のサイトでその意味について語られていますが、
所詮は「こじ付け」でしかありません。

誤解しないでください。
別に私は幼児洗礼をやるなと言っているわけではありません。
ただ、それは単なるひとつの儀式に過ぎず、
はっきり言うと親の自己満足でしかないのです。
日本の七五三と同じです。
にもかかわらず、キリスト教の幼児洗礼こそが真に意味がある
と勘違しているクリスチャンの何と多いこと。
たかが幼児洗礼ごときで神の祝福があるぐらいなら、
クリスチャン人口の多い欧米は善人だらけになります。
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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

キリスト教一般の疑問 | 22:17:41 | トラックバック(0) | コメント(16)
コメント
初めまして。桃栗さんのブログはいつも興味深く読ませていただいています。

聖書を読みますと、イエスは30歳でバプテスマを受けたと書かれています。
ルカ3:21-23
皆民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。

バプテスマは神に対して誓いを立てることなので、結婚よりさらに厳粛な誓いであると思います。
ですから、バプテスマは軽々しく受けるべきものではなく、きちんと物事の判断のできる大人になってから受けるべきです。
たとえば中高生の年齢で結婚しようとしたら、周囲からもっと大人になって冷静に考えられるようになってからするように説得されるのではないでしょうか。
同じように、中高生の年齢でバプテスマを受けるのは早過ぎると思います。
イエスでさえ30歳でバプテスマを受けているのに、なぜキリスト教では幼児洗礼やら成人洗礼も中学生で受けさせたりしているのでしょうか。

なぜキリスト教はイエスの模範に倣わないのか不思議です。
2010-04-19 月 14:29:41 | URL | XXX [編集]
成程…
そう言われてみればそうですね。イースターやクリスマスに、幼児洗礼を受ける赤ちゃんがぐずっているのはよく見かけます。私とて親の信仰に付き合って気がつけば…という感じです。
しかし遅かれ早かれ受ける人は受けるし、受けない人は受けない。
出家であれ洗礼であれ、神(キリスト教のではなく、運命とかそんなもの)の手のひらの上では、幼児洗礼も成人洗礼も朝三暮四だと思えますが。
2010-04-19 月 22:54:15 | URL | るーく [編集]
朝三暮四
> 出家であれ洗礼であれ、神(キリスト教のではなく、運命とかそんな
> もの)の手のひらの上では、幼児洗礼も成人洗礼も朝三暮四だと
> 思えますが。

これ、皮肉に聞こえそうな・・・

「朝三暮四」は、中国の故事に由来します。猿の群を飼っている男が、
餌の木の実を減らそうとして、朝に三つ、暮に四つやるというと、猿たち
は怒りました。そこで、朝に四つ、暮れに三つやるというと、猿たちは
喜んだ、という話です。

そこから「朝三暮四」は、人を巧みに言いくるめて騙すこと、また物事の
根本的な違いに気付かないおろかな人を指す言葉となりました。
(参考:Wikipediaの故事の説明)
2010-04-20 火 01:39:23 | URL | AC [編集]
桃栗様、お世話になります。幼児洗礼については私も疑問に思っておりました。七五三は、親が子供の健やかな成長を願うだけのもので、神道に入信するという意味は、ほとんど重視されません。習俗的なものでしかありません。しかし、幼児洗礼は、明確にキリスト教に入信することを意味します。判断能力のない幼児を親が強制的に入信させることになります。古来からの宗教的観点だけではなく、現代的な宗教の自由の観点からも問題があると思います。

幼児洗礼を受けた者が、成人洗礼受けた者を見下す事が多い。また、各教会には、必ずキリスト教徒になって2代目、3代目という主(ヌシ)がいる。この主(ヌシ)が新参者(成人洗礼)をいじめる、という話をカトリック、プロテスタント問わずよく聞きます。

神の下に平等のはずのキリスト教で、このような事が現実にあるのは大きな矛盾を感じます。
2010-04-20 火 18:33:58 | URL | shiretoko [編集]
あ、いや
>そこから「朝三暮四」は、人を巧みに言いくるめて騙すこと、また物事の根本的な違いに気付かないおろかな人を指す言葉となりました。

別に誰が愚か者というわけではないんですよ、ただ根本的な違いはないんじゃないかということです。
だからshiretokoさんのおっしゃるように幼児受洗者が成人受洗者を見下す意味も、本来ならないし、それこそ矛盾しているということです。
2010-04-20 火 19:25:51 | URL | るーく [編集]
スパムコメントに注意
2010-04-22 木 12:57:11 pon の"NEW OPEN"という題の
コメントは、性的サイトに誘導するスパムコメントです。
2010-04-22 木 23:45:02 | URL | AC [編集]
幼児洗礼は必要ないです
水の洗礼は、これから一生、クリスチャンのまま過ごそうと決心した人が、自らの意思で受けるのがいいと思います。わたしも幼児洗礼にはギモンです。

ある牧師さんに聞いた話ですが、幼児洗礼は、ユダヤ教の割礼のなごりみたいに考えて、成人してから、もういちど自分の意思で洗礼を受けるのがいい、そうです。
2010-05-04 火 14:31:31 | URL | ゲット [編集]
Re: タイトルなし
> 初めまして。桃栗さんのブログはいつも興味深く読ませていただいています。

> バプテスマは神に対して誓いを立てることなので、結婚よりさらに厳粛な誓いであると思います。
> ですから、バプテスマは軽々しく受けるべきものではなく、きちんと物事の判断のできる大人になってから受けるべきです。

ところが、「きちんと物事の判断の出来ない大人のクリスチャン」が、
自分達の自己満足だけで幼児洗礼を受けさせているのが現状です。

> イエスでさえ30歳でバプテスマを受けているのに、なぜキリスト教では幼児洗礼やら成人洗礼も中学生で受けさせたりしているのでしょうか。
>
> なぜキリスト教はイエスの模範に倣わないのか不思議です。

結局、クリスチャンは聖書の中の
「自分達に都合の良い教え」しか信じていないのです。
2010-05-17 月 22:06:33 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 桃栗様、お世話になります。幼児洗礼については私も疑問に思っておりました。七五三は、親が子供の健やかな成長を願うだけのもので、神道に入信するという意味は、ほとんど重視されません。習俗的なものでしかありません。しかし、幼児洗礼は、明確にキリスト教に入信することを意味します。判断能力のない幼児を親が強制的に入信させることになります。古来からの宗教的観点だけではなく、現代的な宗教の自由の観点からも問題があると思います。

まさに私が思っていたのはこれです。
「儀式」という意味では七五三と幼児洗礼は同じです。
それを受けても物理的には何も変化はありませんから。
しかし、七五三が文化・風習・習慣であるのに対し、
幼児洗礼は「宗教」であることです。

> 幼児洗礼を受けた者が、成人洗礼受けた者を見下す事が多い。また、各教会には、必ずキリスト教徒になって2代目、3代目という主(ヌシ)がいる。この主(ヌシ)が新参者(成人洗礼)をいじめる、という話をカトリック、プロテスタント問わずよく聞きます。

私の通っていた教会ではそこまでひどくはなかったのですが、
私が成人洗礼を受けた頃から、親からは
「洗礼を受けたのにちゃんと信仰できていないじゃないか」と小言を言われ、
私は「ああ、自分は何と信仰が弱いダメな人間なのだろう」
と罪の意識を感じていました。
成人洗礼を受けたことが私には重荷になりました。
2010-05-17 月 22:15:26 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 幼児洗礼は必要ないです
> 水の洗礼は、これから一生、クリスチャンのまま過ごそうと決心した人が、自らの意思で受けるのがいいと思います。わたしも幼児洗礼にはギモンです。
>

残念ながら正統派を自称する教会の多くがそれをやっています。
2010-05-19 水 21:57:58 | URL | 桃栗 [編集]
私は幼児洗礼ですが、自分の意思で受けたものではないものを基準に周囲の大人から裁かれ続ける生活が嫌でたまりません。
そういう生活を望んだ訳でもないのにミサに行かないと咎められ、
結婚式を教会でしないと大罪で御聖体は受けられなくなると言われ、やはり未だ逆らうのは怖い。

そんなことイエスは言ってないのに。
2011-11-03 木 22:55:58 | URL | かな [編集]
Re: タイトルなし
> 私は幼児洗礼ですが、自分の意思で受けたものではないものを基準に周囲の大人から裁かれ続ける生活が嫌でたまりません。

私が経験したのもまさにこれです。
自分の意思ではなく「親の意思」で洗礼を受けさせられ、
「あなたは洗礼を受けたのにちゃんと信仰できていないじゃないか」
という目で見られるのが嫌でした。
また、自分自身、「洗礼を受けたのになんて自分は信仰が弱いんだろう」
と自分を責めていました。
キリスト教では、

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
というマタイ11:28の言葉を使って伝道しますが、
私は洗礼を受けたがために「余計な重荷」を背負わされる羽目になりました。


> そういう生活を望んだ訳でもないのにミサに行かないと咎められ、
> 結婚式を教会でしないと大罪で御聖体は受けられなくなると言われ、やはり未だ逆らうのは怖い。
> そんなことイエスは言ってないのに。

これがマインドコントロールですね。
大人は子供に「神に逆らうと罰を受ける」と洗脳し、
教会生活に従わせようとするのです。
2011-11-06 日 09:40:09 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 洗礼に対して。
>  幼児洗礼ではありませんが、僕は小・中・高校と松○湖や奥○摩福○の家のクリスチャンキャンプに参加していました。
>  今でもそうなのか、そこは知りませんが、僕らの頃は必ずキャンプの最後に参加者全員に目をつぶらせ、責任者の牧師が、
> 「このキャンプで受洗の決意ができた方、手を挙げてください」
> と言って、受洗の決意をさせていました。
>
>  僕は元々信仰云々でこのキャンプに行っていた訳ではないし、また高々3日だか4日だかの短期間でそんな人生を左右するようなことを、その場の空気に飲まれて安易に決意させるってどうなのかよ。と思っていたので、一度も挙手したことがなかったです。

昨年、私が関西フランクリン・グラハム・フェスティバルに潜入して見たのもその光景です。
数時間の退屈な大会の最後、グラハム氏は
「今日、キリストを受け入れる決心の出来た方はステージの前に来てください」と呼びかけ、
集まった大勢の参加者に目をつぶらせてお祈りをしました。
そして、お祈りが終わるや否や、
集まった人ごみにまぎれていたカウンセラー(=勧誘員)が目星を付けた参加者に声をかけ、
「今日、あなたはキリストを救い主として受け入れる決心をしましたか?」と勧誘していました。
たった数時間のイベントの後で、人生を左右するような決心をさせるのは、
何と安易なのだろうと冷ややかな目で観察していました。
雰囲気を盛り上げて参加者の気分を高揚させてから勧誘するこの手法、
そんじょそこらの新興宗教やマルチ商法などと変わりありません。


>  プロテスタントでは本人が決意しなければ洗礼を受けないので、優柔不断??な僕は結局受けずじまいで棄教しました。

私は、本人が強く決心していなかったのに、
親の意思で強引に洗礼を受ける羽目になりました。


>  僕がもっと洗礼に対して決意を鈍らせたのは、受洗前に信仰告白のような体験記をつらつら発表するのです。

プロテスタントの教会では、信者が自分の信仰体験を語る「証し」をする習慣がありました。
私も親から「もう洗礼を受けたのだから証しぐらいできないと」と言われ、
証しができなかった私は「自分は何と不信仰なのだろう」と自分を責めていました。


> やれ不治の病から生還しただの、家族みんなが信仰を持ったとか、僕はそんな大した経験や奇跡を一度も経験していません。
> 「ああ、こんなことしないと受けられないのだ」と覚めてみていました。

その通り。
いわゆる「霊的な体験」のない私は、何も語るものがなかったのです。


>  僕の弟が案の定、中学生キャンプで引っかかって受洗の決意をして、あれよあれよと玉突き的に受洗をしてしまいましたが、親からことあるごとに、
> 「あなた受洗したのでしょう??」とか「それが洗礼を受けた人のやることですか??」というのを聞いて、僕みたいな根がいい加減な人間には絶対に無理だと思いました。
>  弟はその重圧に堪え切れず、僕より先に棄教しました。(笑)
>
>  安易に受洗を促す牧師や宣教師は制裁を受けるべきだ。

沢野さんは、もうその年頃から冷静に客観的にキリスト教を見る目があったのですね。
本当に本当にうらやましい限りです。
私は「神を疑うことは罪」だと信じていましたので、
キリスト教に疑問を持つことなど考えもつきませんでした。
疑問を持ちそうになっても、それは自分の不信仰やサタンの誘惑のせいだと思っていました。
そのようわなけで、完全に信仰を捨てるまでずいぶん時間がかかりました。
もしも私があの年頃で沢野さんみたいに冷静で客観的にキリスト教を見ていたなら、
私は間違いなく親や牧師さんとケンカをしてキリスト教から離れていたと思います。
2011-11-10 木 22:38:13 | URL | 桃栗 [編集]
質問です。
私は、今中学2年生、女子です。
私の家系は、代々仏教なのですが、私は、キリスト教従のみちをあゆみたいです。

しかし、それは可能なのでしょうか?
教えて下さい。
2012-07-05 木 21:27:52 | URL | 陸奈 [編集]
Re: 質問です。
> 私は、今中学2年生、女子です。
> 私の家系は、代々仏教なのですが、私は、キリスト教従のみちをあゆみたいです。
>
> しかし、それは可能なのでしょうか?
> 教えて下さい。

それは不可能ではありませんが、
もしあなたが亡くなられた場合、
先祖代々のお墓に入れてもらえない可能性があります。
実際にそういう事例があります。
それに、いくら祈っても答えてくれない神を信じるよりも、
ご先祖様を敬う日本古来の習慣を守った方がいいと思いますよ。
2012-09-17 月 22:23:39 | URL | 桃栗 [編集]
私は30年以上前に幼児洗礼を受けた者ですが、長らくキリスト教に疑問、反発感を抱いて生きてきました。自らクリスチャンであると口にするのも嫌でした。
最近、あるきっかけで精神の変容があり、アイデンティティと世界観が大きく崩壊しました。何度か地獄へ落ちかけ、そのたびに何かに救われ、生還しました。
今思うのは、私は生まれてから長い間、現実世界に生きながら冥界を彷徨っていたのだということです。生きながら地獄へ落ちる危険から救ってくれたのは家族であり、キリストであり、全ての存在でした。
そしてひとときの天国での暮らしを経験した後、使命をもって再びこの世に産み落とされました。今私はクリスチャンであると同時に、仏教徒であり、アニミストであります。
多くの人、物、神仏、悪魔、あらゆる生命が複雑に交錯する世界において、個人の意志というのは大変重要であると同時に取るに足らないものです。この世に無駄なものなど何一つありません。ただ、その一つ一つがいつ誰のためにあるのかを知ることができるのは、限られた存在だということです。
人は、自分を救う存在に気付きさえすれば、今自分にとって必要なものは分かるようにできています。分からないものは他の誰か、あるいは未来や過去の自分にとって必要なものだということです。
2017-05-31 水 11:40:40 | URL | 名前を入れてください [編集]
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