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桃栗

Author:桃栗
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久々に牧師さんと話をしました
つい先日、昔通っていた教会の牧師さんと久しぶりに話す機会がありました。
その牧師さんには、私が完全に信仰を捨てたことは話していますが、
このブログの存在は知らせていません。
その牧師さんとキリスト教についての話をしていたのですが、
そのときにカトリックの話題になりました。
しかし、牧師さんと私の会話がかみ合わないような部分がありました。


私がカトリックについて興味があるのは、
マリア像を造ってその前で祈りを捧げる行為を、
カトリック信者はどう思っているのかということ。
モーセの十戒にはこう記されています。

あなたはいかなる像も造ってはならない。
(中略)
いかなるののの形も造ってはならない。
あなたはそれに向ってひれ伏したりそれらに仕えたりしてはならない。
出エジプト記第20章4~5節

そこで、私は牧師さんに尋ねました。
「マリア像を造ってその前で祈る行為はモーセの十戒に反していますよね?
そのことをカトリック信者たちはどう思っているのでしょうか?」
牧師さんは答えました。
「マリア崇拝をすることは聖書に反しています。
だから、それに抗議する形でプロテスタント(抗議する人の意)という宗派が生まれたのです。
ただし、三位一体の神を信じるという点では共通しているため、
カトリックとプロテスタントはお互いに交流することができるのです。
しかし、エホバの証人、モルモン教、統一教会などとは交流ができません云々。」
と、カトリックとプロテスタントと他宗派の関係を語り始めました。

私は「マリア像を造ってその前で祈りを捧げる行為をカトリック信者はどう思っているのか」
と聞いているのです。
なのに、牧師さんの答えは私の質問とかみ合っていないのです。
そこで、もう一度やんわりと同じ質問をしましたが、
やはりもっともらしい話をしながら、結局は私の質問の答えになっていませんでした。
以前、カトリック信者にも直接同じ質問をしたことがありますが、
このときも何だかはっきりしないあまいな答え方で、
私が納得できるような答えではありませんでした。

また、「聖書にはマリアを崇拝しなさいとは書かれていないのに、
どういう経緯でマリアを崇拝する習慣が生まれたのですか?」とも聞きましたが、
「キリスト教は当初は異端とみなされましたが、
4世紀にローマ帝国の国教になってから世界に広まりどうたらこうたら・・・・」
と、やはり関係のないお話。
まあ、牧師さんの話自体はそれはそれで興味深かったのですが、
結局私の質問の答えにはなっていませんでした。

このブログをやっていて思うのですが、
なぜクリスチャンははっきりと答えることを避けたがるのでしょうか?
私が「あなたは・・・・・についてどう思いますか?」と聞けば、
「私は・・・・だと思います」と答えるのがスジのはずなのに、
クリスチャンは関係ない話を並べて答えたつもりになっているだけ。
また、「・・・・は矛盾していませんか?」の質問に対しては、
答えは「はい」「いいえ」の2つに1つのはずなのに、
やはりクリスチャンはどちらとも答えずに
関係ない話を並べて論点をぼやかすだけ。
これは今までのコメントのやり取りを見ていただければお分かりかと思います。

とにかく、クリスチャンのそういう習性が不思議でなりません。
思考回路が一般人と違うのでしょうか?

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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

カトリック | 20:31:03 | トラックバック(1) | コメント(58)
コメント
信者ではない私が言っても、桃栗さんの望む答えにはならないかもしれませんが…。

1.マリア像について
マリア「崇拝」ではなく、マリアに対する尊敬だという話は、桃栗さんも聞き及んでいると思います。もう少し詳しく言うと…。

たとえば聖母マリアへの祈りは「恵みあふれる~」で始まり、最後は「共に祈ってください」で終わります。
選挙なんかで、「ナントカさん応援お願いします」みたいなやつってありますよね。あんな感じです。同じように、キリストに「~してください」と祈ったあと、マリアに「(そうなるように)祈ってください」と祈るわけです。

また、小さな子供にイエスの話をする場合、十字架のエピソードはあまりに恐怖心を与えてしまうので、上記の意味で神に忠実だったマリアの話を出して、子供たちに教える場合もあるそうです。

像を造ってはならない、という意味では、「マリア像」と考えると不思議なので、写真として考えるといいです(って、神父さんが言ってました)
当然大昔は写真などないわけで、像を造るわけです。仏壇のおばあちゃんの写真は、おばあちゃん本人ではありませんが、おばあちゃんを思い出すきっかけや道具になります。同じように、十字架の像(?)とマリア像、ついでにヨセフ像やら、道行やらが造られたわけです。
偶像崇拝とは、「神でないものを神として崇めること」ですから、ハナからマリア像も十字架像も写真であり本人ではないので、偶像崇拝にはならないのです。


2.マリア「崇拝」の経緯について
起源は失念してしまいますが、カトリックがマリアを重視するのは、受胎告知の時のマリアの態度によるものです。

未婚の母になり、一族みな笑われ、自分自身も石打ちになるかもしれないという大きなリスクを突き付けられながらも、「主の御心」であるからとそれに従ったという態度を、カトリックはとても評価しているのです。
それで、マリアのような信仰を持ちたい、マリアのような信仰をもつ人は素晴らしい、というわけで、カトリックの中ではマリアは重要なのです。

たとえば、大人になった子供は両親を尊敬しますが、崇拝はしませんね。それと同じです。


こんな感じでしょうか? もし何か不備があればまた調べてまいります^^
2009-09-07 月 18:10:37 | URL | るーく [編集]
マタイ 5:37
マタイ 5:37
だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

桃栗さんは、この聖書の言葉を中途半端に使用しています。これはどんな場合にでも相手に請求できることばではありません。聖書の言葉は、その前後をよく読んで全体で理解しましょう。この言葉は、神に対して誓うときのみに限定されます。
2009-09-10 木 09:33:42 | URL | ゲット [編集]
マリア崇拝
マリア崇拝は、マリアが煉獄の死人を天国にあげるとりなしをすると信じられていたことと関係があります。教会が煉獄の死人に対しても免罪符を売りつけていたのでプロテスタントは抗議しました。しかしマリア像は否定していません。

神は三位一体であり唯一である。そしてイコンや十字架、聖書などを介して神を崇拝するのであれば偶像崇拝ではありません。マリアが、三位一体の神以外の別の神だと思っているのであればキリスト教的には偶像崇拝になります。そう思っていないのであれば偶像崇拝ではまったくありません。これは初歩のキリスト教信者に教えてあげる基礎的な質問のひとつです。
2009-09-10 木 09:43:29 | URL | ゲット [編集]
マリア崇拝の起源
こんにちは。
マリア崇拝の発生には理由があります。
それは教会が宣教地における女神崇拝と妥協して、キリスト教の布教を進めようとしたことです。
このことを批判したのが、コンスタンチノープルの主教であったネストリウスです。
教会会議を何年も開いて対応を協議しますが、腐敗と堕落が進んでいた教会には既に自浄能力はなく、批判をしたネストリウスを異端と断罪して破門します。
ここからカトリック教会のマリア崇拝の固定化が決定的なものになっていきます。

あなた様が仰る通り、マリア崇拝は明らかな偶像崇拝です。
それをどんなに言い繕っても、それは詭弁にしか過ぎません。

答えられる質問であれば、できるだけ明確に答えることが義務であると思っています。
では、また。プログの更新楽しみにしています。
2009-09-11 金 15:41:14 | URL | arinopapa [編集]
追伸です。
「カトリック信者はどう思っているのか」というのが、ご質問だったのですね。
他の方のコメントを読んでいて、それへの返答をしてしまいました。

以前に熱心なカトリック信徒の方にマリア崇拝について聞いてみたことがありますが、「別に~。問題にする方がおかしい。」ということでした。
他のコメントしておられる方々と同様な論理でもって正当化しているようでした。
プロテスタントの信者に、「カトリックの人はどう思っているのか」と質問しても、的確な答えは出来ないかもしれませんね(笑)。
では。
2009-09-11 金 15:50:04 | URL | arinopapa [編集]
 マリア像や聖人像、さらに絵に描かれたイエスは偶像崇拝だと私は思いますね。
 キリスト教はマリアや聖人を信仰するのではなく、イエスを崇拝するはずです。
 その前にマリアにしても聖人にしてもイエスにしても、白人ではなく本当はアラブ系だと考えられる点から、想像ですら間違っていると思います。
2009-09-11 金 22:01:25 | URL | 南 [編集]
一応信者ではないんですが…;

arinopapaさん>
お詳しいですね~。他の宗派の方々がどうしてマリア崇拝と思うのかとても不思議だったのですが、謎が解けました。ありがとうございます。
とすると、プロテスタントには女神と聖母(神の母と言ったほうがいいでしょうか)の区別はないのでしょうか? プロテスタントには尊敬する先人はいないということでしょうか?
2009-09-12 土 09:53:45 | URL | るーく [編集]
るーくさん
プロテスタントもカトリックも同じです。

三位一体の唯一神以外は神ではありません。尊敬する先人は神ではありません。
2009-09-12 土 10:58:06 | URL | ゲット [編集]
はじめまして、私は特に宗教を信仰していないのですが
偶像崇拝はなぜいけないことなのでしょうか?
神様に姿形があるのはどうしていけないのでしょうか?
2009-09-13 日 21:59:52 | URL | たろー [編集]
はじめまして、牧師さんは無知だと言うことを公にできなかったのでしょう立場上。カトリック教会に問い合わせすれば解決できることですからやってみては。
2009-09-13 日 23:07:42 | URL | 召命 [編集]
Re: マタイ 5:37
> マタイ 5:37
> だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
>
> 桃栗さんは、この聖書の言葉を中途半端に使用しています。これはどんな場合にでも相手に請求できることばではありません。聖書の言葉は、その前後をよく読んで全体で理解しましょう。この言葉は、神に対して誓うときのみに限定されます。

マタイだって中途半端に聖書の言葉を引用していますよ。
マタイ第1章23節にインマヌエルの預言の言葉が引用されていますね。
そして、そのたった一部だけを中途半端に引用して
キリスト降臨の預言があたかも当たったかのように書いていますが、
引用もとのイザヤ書第7章を読んでみると、
それがキリスト降臨の預言だとはとても思えません。
2009-09-19 土 19:49:35 | URL | 桃栗 [編集]
Re: マリア崇拝の起源
> あなた様が仰る通り、マリア崇拝は明らかな偶像崇拝です。
> それをどんなに言い繕っても、それは詭弁にしか過ぎません。

その通りですね。
十戒には「いかなる~造ってはならない」とあるのですから、
どんなに言い訳してもそれはただのこじ付けでしかありません。
2009-09-19 土 19:53:11 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 追伸です。
> 以前に熱心なカトリック信徒の方にマリア崇拝について聞いてみたことがありますが、「別に~。問題にする方がおかしい。」ということでした。
> 他のコメントしておられる方々と同様な論理でもって正当化しているようでした。

私がカトリック信者に聞いたときも
「さあ…、私は生まれたときから家がカトリックだったからそういう習慣があって…」
といった感じではっきりしない返事でした。
どうもクリスチャンは、聖書を信じているのではなく、
「教会の教え」を信じているだけではないかと思います。
聖書を読めばマリア崇拝が間違いだということに気付くはずなのに。
2009-09-19 土 19:56:25 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
>  マリア像や聖人像、さらに絵に描かれたイエスは偶像崇拝だと私は思いますね。
>  キリスト教はマリアや聖人を信仰するのではなく、イエスを崇拝するはずです。

カトリックはキリスト教ではなく「マリア教」ですね。
厳密に言えば、イエス・キリストだって「神の子」であって「神」ではないのですから、
これも偶像崇拝になるはずですが、
クリスチャンはそれに気付いていないようです。

>  その前にマリアにしても聖人にしてもイエスにしても、白人ではなく本当はアラブ系だと考えられる点から、想像ですら間違っていると思います。

絵に描かれるキリストや聖母マリアはヨーロッパ人の顔立ちをしていますね。
世界のクリスチャンは作り上げられたキリスト像やマリア像を信じているに過ぎません。
本当にああいう顔立ちをしていたという保障もありませんよね。
聖母マリアは、もしかしたらただの色黒のオバチャンだったかも知れません(笑)。
2009-09-19 土 20:02:59 | URL | 桃栗 [編集]
>聖母マリアは、もしかしたらただの色黒のオバチャンだったかも

そんなことは、信仰に関係ないと思いますよ
2009-09-20 日 06:55:42 | URL | ゲット [編集]
Re: マリア崇拝
> 神は三位一体であり唯一である。そしてイコンや十字架、聖書などを介して神を崇拝するのであれば偶像崇拝ではありません。マリアが、三位一体の神以外の別の神だと思っているのであればキリスト教的には偶像崇拝になります。そう思っていないのであれば偶像崇拝ではまったくありません。これは初歩のキリスト教信者に教えてあげる基礎的な質問のひとつです。

ですからねえ、十戒の中にある「いかなる~造ってはならない」の
「いかなる」については触れないんですか????
クリスチャンは都合の悪い言葉は無視するんですね。
「イコンや十字架、聖書などを介して神を崇拝するのであれば偶像崇拝ではありません。」
と、聖書のどこに書かれているのか教えてください。
クリスチャンはキリスト教の矛盾点を突かれると、
いろいろ聖書に都合のいい解釈を加えて正当化するものです。
一般社会と何ら変わりません。
2009-09-22 火 22:32:07 | URL | 桃栗 [編集]
Re: るーくさん
> 三位一体の唯一神以外は神ではありません。尊敬する先人は神ではありません。

三位一体とは誰の教えですか?
創造主の父なる神の教えですか?
イエス・キリストの教えですか?
聖書の教えですか?
そんな言葉、聖書に書かれていません。
2009-09-22 火 22:35:47 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> はじめまして、私は特に宗教を信仰していないのですが
> 偶像崇拝はなぜいけないことなのでしょうか?
> 神様に姿形があるのはどうしていけないのでしょうか?

モーセの十戒にそう書いてありますので。
しかしカトリック信者はそれを知らないようです。
2009-09-23 水 21:04:05 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> はじめまして、牧師さんは無知だと言うことを公にできなかったのでしょう立場上。

でしょうね。
いえ、こブログに書き込むクリスチャンだって、
わからないことはわからない、
知らないことは知らないとはっきり言えばいいのに、
どういうわけかはっきりと物を言うことを避ける傾向があります。

>カトリック教会に問い合わせすれば解決できることですからやってみては。

ええ、本当はそうしたいところです。
できれば信者に化けて教会に潜入したいところですが(笑)。
2009-09-23 水 21:07:14 | URL | 桃栗 [編集]
あなたの考え方は正しいと思う。
牧師は量的にも質的にも圧倒的に不足している。あなたの疑問に答えられる牧師は今の日本だと大学の教授レベルを探した方が速い。

キリスト教っていうのは思想の枠組みでも類型的に考えるしかないし、キリスト教が言えるのはイエスを信じてる者(洗礼を受けた者ではない)は救われるかも(絶対ではない)しれないということだけで、他の人たちについては判断留保です。

あなたは、あなたの教会の多数派が支持する信仰の持ち方は捨てたのかもしれないけども、あなたの考え方にあう信仰の持ち方を支持する教会は少ないけれどある。

あなたの仰っているキリスト教の気持ち悪さは創価学会をみればわかるように、キリスト教に特有っていうものではない。ただたちが悪い。

あなたの宗教批判はなかなか的確だし、良くできているので、宗教学科にでもいくと大成すると思う。

もしこれから日本の格差が広まるなら、原理主義的なキリスト教がもっと広まるかもしれないので、あなたのやっていることは非常に有意義であると思う。

頑張って下さい。記事読むの楽しみにしてます。
2009-09-25 金 00:42:19 | URL | doutodemo [編集]
自分の書き方が悪かったようですね。申し訳ありません。家に資料がありましたので成句を並べておきます。

イエス=神について
・ピリピ2章6節~11節
・出エジプト3章13節とヨハネ8章58節と18章5節
・第一ヨハネ5節20節
・啓示3章14節
※ここで「初め」と訳されているギリシャ語のアルケーは、人に対して使われるときは例外なく支配者的立場を表すため、キリストが創造の根元であるということになるそうです

三位一体について
三位一体は神学者が作った言葉で、日本語訳にされた聖書だてたどり着くのは難しいようです。参考までに原語の箇所は

・マタイ10章2節の「12使徒の<b>名</b>」は複数形
・マタイ28章19節の「父と子と聖霊との<b>名</b>」は単数型

だ、そうです。日本語訳では、

・第2コリント13章14節
・マタイ28章19節
・第2コリント3章18節とローマ8章9節(わかりにくいですが
・使徒5章3節と4節

三位一体はよくおにぎりに例えられます。海苔も米も梅干しも違う味ですが同じおにぎりの味です。ということらしいです。

偶像崇拝というか、十字架=偶像についてはちょっとだけ資料がありました。
第1コリント全体、特に1章で、パウロが(とい
2009-09-28 月 08:04:58 | URL | るーく [編集]
Re: タイトルなし
> >聖母マリアは、もしかしたらただの色黒のオバチャンだったかも
>
> そんなことは、信仰に関係ないと思いますよ

もしもタイムマシンでマリア本人に会いに行って、超ドブスのババアだったら、
「おお、聖母マリア様!」と崇めることができたか甚だ疑問ですね。
結局、キリスト像にせよマリア像にせよ、
信者は「美化された姿」を崇拝しているに過ぎません。
2009-10-02 金 22:21:21 | URL | 桃栗 [編集]
プロテスタントが直接神に祈るのではなく「イエスのみなによってお祈りします。」と祈るように、カトリックではそれさえも恐れ多いからマリアに仲介してもらうという話を聞いたことがありますが。お母さんなら親しみやすそうだし。

>もしもタイムマシンでマリア本人に会いに行って、超ドブスのババアだったら
色々なキリスト教美術を拝見してきましたが、不細工なマリア像やぶっちゃけ格好悪いイエス像も多々ありました。でも自分の信仰は消えません。本当に信仰している人にとってはそういうことはあまり問題ではないかもしれませんね。
2009-10-05 月 09:16:45 | URL | ぶる [編集]
異端
>カトリックはキリスト教ではなく「マリア教」ですね。
>厳密に言えば、イエス・キリストだって「神の子」であって
>「神」ではないのですから、
>これも偶像崇拝になるはずですが、

この様な意見をキリスト教の異端の意見といいます。桃栗さんは、もうクリスチャンではないので、異端であろうが正統であろうが関係ありませんが、キリスト教の異端のことを御存知ないままクリスチャンをおやめになった様ですので、コメントしておきます。もし時間が有ったらニカイアコンスタンチノープル信条を、お読みください。
2009-10-05 月 09:36:04 | URL | ゲット [編集]
Re: タイトルなし
> あなたの考え方は正しいと思う。

そうですよね、その通りですね。(と自分で言うのもなんですが)
ネットをやるようになってから、
私以外にもキリスト教に疑問を持つ人が少なくないことを知り、
自分の考えに自信が持てるようになりました。

> あなたは、あなたの教会の多数派が支持する信仰の持ち方は捨てたのかもしれないけども、あなたの考え方にあう信仰の持ち方を支持する教会は少ないけれどある。

どういう教派の教会でしょうか?
興味深いです。

> あなたの仰っているキリスト教の気持ち悪さは創価学会をみればわかるように、キリスト教に特有っていうものではない。ただたちが悪い。

そうですね。どこの宗教にも多かれ少なかれ矛盾はあります。
しかし、キリスト教は一神教であるがゆえに、
「キリスト教こそがこの世の唯一絶対の真理である」
と思い込んでいるところがタチが悪いです。
しかも、全世界に広まっているだけに、
ますます自分たちが正しいと自信を持つところが本当にタチが悪いです。
キリスト教なんて、ヨーロッパ人の植民地支配によって世界に広まったくせに。

> あなたの宗教批判はなかなか的確だし、良くできているので、宗教学科にでもいくと大成すると思う。
>
> もしこれから日本の格差が広まるなら、原理主義的なキリスト教がもっと広まるかもしれないので、あなたのやっていることは非常に有意義であると思う。

私は、キリスト教をテーマに本でも書いてみようかと思うことがあります。
今までこういう観点でキリスト教を語った本なんてないでしょうから、
もしも本を出版したらまちがいなく教会から苦情が来るでしょう。
しかし、世間一般からも話題を呼んで本が売れ、
夢の印税生活ができるのではないかとバカなことを考えています。(笑)

> 頑張って下さい。記事読むの楽しみにしてます。

とりあえずは、これからも気持ちの赴くままに書き続けたいと思います。
2009-10-07 水 22:17:05 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> プロテスタントが直接神に祈るのではなく「イエスのみなによってお祈りします。」と祈るように、カトリックではそれさえも恐れ多いからマリアに仲介してもらうという話を聞いたことがありますが。お母さんなら親しみやすそうだし。

だから、それがモーセの十戒に反しているとは思わないのですか?

> >もしもタイムマシンでマリア本人に会いに行って、超ドブスのババアだったら
> 色々なキリスト教美術を拝見してきましたが、不細工なマリア像やぶっちゃけ格好悪いイエス像も多々ありました。

しかし、教会が伝道をするときには美人美男子のマリア像やキリスト像しか使いませんよね。
カトリック教会の玄関には白いマリア像が置いてあることが多いですが、
ブサイクなマリア像を玄関に置いている教会なんてないでしょう。
また、エホバの証人も含めて、キリスト教の書籍に載せられるキリスト像は、
どれも長髪であごひげをたくわえた美青年ばかりです。
結局は、イメージで作りあげられた像(人物像としての)を崇拝しているに過ぎません。
本当にそういう顔立ちをしていたという保障はありません。
2009-10-17 土 17:02:48 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 異端
> >カトリックはキリスト教ではなく「マリア教」ですね。
> >厳密に言えば、イエス・キリストだって「神の子」であって
> >「神」ではないのですから、
> >これも偶像崇拝になるはずですが、
>
> この様な意見をキリスト教の異端の意見といいます。桃栗さんは、もうクリスチャンではないので、異端であろうが正統であろうが関係ありませんが、キリスト教の異端のことを御存知ないままクリスチャンをおやめになった様ですので、コメントしておきます。もし時間が有ったらニカイアコンスタンチノープル信条を、お読みください。

何を寝ぼけたことをおっしゃるのでしょうか。
そもそも、何を基準にして異端とか正統派とかを決めるのでしょう?
神様が決めたのですか? 
イエスが決めたのですか? 
聖書にそう書いてあるのですか?
人間が自分たちの都合で勝手に決めただけでしょう?
プロテスタントだってせいぜい500年の歴史しかない新興宗教ではありませんか。
2009-10-17 土 17:17:36 | URL | 桃栗 [編集]
三位一体と偶像崇拝
こちらのブログはノンクリスチャンの方も多く訪問されているようなので、少しお話しますね。
まずたろーさん
>偶像崇拝はなぜいけないことなのでしょうか?
 神でないものを造り上げ神として崇める事これが偶像崇拝ですよね。これは例えて言うなら、もし貴方に子供がいて貴方が父親だとして、貴方が本当の父であるにも係わらず、もしその子が貴方じゃない人物を父とし慕い、貴方に見向きもしない場合これはとても失礼ですよね?これは親(神)への不義で良い事ではありません。
>神様に姿形があるのはどうしていけないのでしょうか?
 神様に姿形があることをいけないとしているのではなく、知りえない方を人の想像で勝手に形造るな、という事なのです。
2010-01-12 火 23:24:35 | URL | 渋柿 [編集]
続き
>三位一体とは誰の教えですか?
>創造主の父なる神の教えですか?
>イエス・キリストの教えですか?
>聖書の教えですか?
 はいそうです。
>そんな言葉、聖書に書かれていません。
 信仰の無い方は目が閉ざされておりますので、無理ないかと思いますが聖書では創世記第1章に「神は仰せられた。『さぁ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』(創世記1:26)聖書の初っ端からわれわれと語っているのです。ここで、キリスト教は一神教じゃないのか!?と思われるかと思いますが、聖書の原語を分かりやすくこの箇所を英語で言うと「We am」としるされているのです。奇妙な言い回しですよねぇ、通常「We」のbe動詞は「are」ですよね、複数にして一人称、つまり複数の関係性を有しながら1人格を表しているのです。これは神の言葉です。次に(ヨハネ福17:5)「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」イエスの言葉です。また聖霊について(ヨハネ16:7)「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」聖霊については(ヨハネ15:26、16:13~15)これらは聖書によって語られた聖書の教えです。そして唯一神教の「唯一」ただおひとり(申命記6:4)とはehad(エハド)という言葉なのですが、これは有機的な繋がりを持ったという、例えるならぶどうの一ふさを想像してください。一ふさでもぶどう、一粒でもぶどう、搾り出してでてくるものは同質のもの、神、御子、聖霊は3つの格位を有機的に有しながら同質のものなのです。桃栗さんは日本語に訳された「三位一体」という単語が聖書に無いと納得されないようですが・・・
 
>プロテスタントだってせいぜい500年の歴史しかない新興宗教ではありませんか。

 プロテスタントを新興宗教と切り捨てる方に初めてであいました(笑)実にユニーク!

>もしもタイムマシンでマリア本人に会いに行って、超ドブスのババアだったら、
「おお、聖母マリア様!」と崇めることができたか甚だ疑問ですね。

 内面の美しさに目を留める事が出来る人達が多く興されて行くと、世の中はもう少し穏やかになるでしょうね、またそうありたいですね。ねぇ桃栗さん!
2010-01-12 火 23:31:45 | URL | 渋柿 [編集]
人間の言い伝えと「幻」
>三位一体とは誰の教えですか?
>創造主の父なる神の教えですか?
>イエス・キリストの教えですか?
>聖書の教えですか?

「三位一体」は人間の会議によって決まった「人間の教え」です。
聖書では明確に「一体」で無いことを記しています。

(マタイによる福音書)
3:16イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。3:17また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

同時顕現することにより「一体」では無い事を語っています。
他にも、イエスへの冒涜は赦されるが聖霊への冒涜は赦されない。(→マタイ12:32)
又、イエス御自身も明確に「神」をわ自分とは別の存在と仰っています。

(マルコによる福音書)
10:18イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

一体=神と「ひとつである」のは霊的な繋がりを表しているのであって、我々兄弟もひとつであると記されています。(→ヨハネ17:21~23、コロサイ3:15)

>モーセの十戒にそう書いてありますので。
しかしカトリック信者はそれを知らないようです。

カトリックの十戒は旧約聖書の十戒を変えてしまっています。
「いかなる像」の部分が入れ替えられています。
教義はそれら聖書と矛盾する教えを保護する為の「人間の都合の良い」教えとなってしまっています。権威や伝統が真理に覆いをかけているのです。
マリアの無原罪の御宿り、マリア像、ロザリオの祈りなどは全て「幻」に端を発する聖書に全く根拠の無い教えです。聖書では明確にそれらへの警告を記しています。

(コロサイ人への手紙)
2:18あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、 2:19キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。・・・以下略

わざとらしい謙遜=マリアへのとりなしの祈りをし、幻の囁きを重んじます。神へのとりなしはイエス・キリストが果たしました。尚とりなしをするのはキリストの教えから逸脱しています。
「ひとつ」として下さるキリストの贖いを、その尊い血の清めをまったく無意味なものにしてしまう恐ろしい教義です。

そしてこれらの警告をしても聞き入れられる人はほとんどいません。それは聖書に記されている通り、彼等の心が「かたくな」になっているからです。(→ヘブル3:12~15)
2010-01-14 木 10:42:33 | URL | 上紀元521 [編集]
>とにかく、クリスチャンのそういう習性が不思議でなりません。
思考回路が一般人と違うのでしょうか?

私事ですが、最近ネットでキリスト教信仰を若い頃に棄てたアメリカのオバちゃんと彼女のブログを通じて話したのですが、彼女曰く、キリスト教徒は常に自分達が正しいと信じていて、それを証明しようとしていつも馬鹿なことをする。
彼女自身はオープンマインドになったおかげで、キリスト教を棄てることが出来きてとても良かったし、棄てたおかげで、もっとオープンマインドに世界を見れるようになったとのこと。
また、バチカンには腐るほど金があるのに飢餓で苦しんでる人達に食料を配らずに宣教師を送り込むキリスト教にガッカリして、クリスマスすら祝うことを止めたとのことです。

>by 渋柿さん 信仰の無い方は目が閉ざされておりますので、とは正反対ですね。

キリスト教徒=どんな時も絶対に正しいキリスト教義(宗派によって解釈は違う)に縛られた盲目の囚人なので、キリスト教の矛盾を突っ込まれると、誤魔化すか逆上したかのようにキリスト教が正しいかをまくし立てる。このブログで証明済み?

無心論者、多神教、棄キリスト者=宗教の矛盾を突っ込まれても、そうだね~って流せて会話が前に進む。

なので、一般人の思考回路とは違うと思いますよ。

今の桃栗さんはキリスト教を信仰してた頃とどう違うかを聞きたいです。
2010-01-15 金 23:22:48 | URL | 異教徒 [編集]
ごめんね、異教徒さん。
私は基本的に桃栗さんの投げかける疑問に返答しています。で、桃栗さんは以前教会に通われていたとのことで、少々聖書の言葉を知っているという事を前提に書いております。
>信仰の無い方は目が閉ざされておりますので、
 と書いたのはイエスが言われた「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。~『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』(マタイ13:13~15)によるものです。

 言葉は難しいですね、このブログは聖書を読まれた事のない方も見ていらっしゃるので、そういった点には配慮不足でした。ご指摘ありがとうございます。

 >なので、一般人の思考回路とは違うと思いますよ。

 私も違うと思います。一般の人は自分の経験や考え、周りの意見や動向に影響を受け、自己を中心に自分の視点で思考します。
 クリスチャンは自分の経験や考えはもちろんありますが、神を中心に神の視点(聖書の教え)に従い立脚し歩むことを第一と考えます。

>無心論者、多神教、棄キリスト者=宗教の矛盾を突っ込まれても、そうだね~って流せて会話が前に進む。
 
 自分が真剣に取組んでいるものについて「流せて会話が前に進む」事が大事で価値のあるものとは思いません。
 時と場合にもよりますが、少なくともここは桃栗さんのクリスチャンへの問いに答える場ですよね。

>また、バチカンには腐るほど金があるのに飢餓で苦しんでる人達に食料を配らずに宣教師を送り込むキリスト教にガッカリして、クリスマスすら祝うことを止めたとのことです。

 飢餓で苦しんでおられる方々の多くの国は信仰の自由がなく、宗教を前面に出しての援助は政府が受入れない実態。(実際は色々してるんですよ、アメリカの女性はどのくらい把握していたのでしょう?)そしてイエスのクリスチャンへの命令は「福音を全世界に延べ伝えよ」です、宣教師の派遣と援助の問題をセットで語るのは難しいです。
 
>バチカンには腐るほど金があるのに

 私はクリスチャンですが、残念ながらバチカンにどれ程の資産があるのかは存じ上げません。豪華な礼拝堂を見てさぞやお金があるのだろうと想像することはできますが、想像で語るのは良い事ではありません。確かに施しは良い事です、キリスト教にガッカリして、自ら立ち上がり施す者でありますように。
 
2010-01-16 土 22:46:05 | URL | 渋柿 [編集]
?人間の言い伝えと「幻」
「三位一体」の一体という語は「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)に起因し、ここで使用されているヘブル語は、前に説明したehad(エハド)神の唯一(統一)を示すものと同じ単語なのです。この原語は単に肉体のみを表しているのではなく、霊も心も含めた人間存在全体を意味するものなので、日本語では伝わらないニュアンスを含んだ言葉なのです。
 
つまり三位一体の一体は体の事だけを指しているのではなく性質も含めた意味合いを表すために一体(エハド)が充てられているのです。残念な事に漢字の一体にこだわって意味を理解しようとすると、三体バラバラにいたじゃないか!となってしまいます。が、それを三位と言うのです。上紀元さんは一生懸命位格の説明をされておられますが、私は三位一体の概念をぶどうに例えて説明したのです。

ですから
>神、御子、聖霊は3つの格位を有機的に有しながら
と、私も説明してますよ。

>「三位一体」は人間の会議によって決まった「人間の教え」です。
 
 例えば、ジャングルでは強い獣が弱い動物を食べるという関係性が存在してますね。そして、その事を複数の人間が共通認識していて、「よっしゃ、これからは強いものが弱いものを食べる事をみんなで『弱肉強食』って呼ぼうや!」って事になったからといって、人は呼び方を決めただけであって、その関係性はそれ以前から存在してたものじゃないですか?

確かに「三位一体」という呼び方はニカイアの会議で議論が落ち着いたようですが、神の御性質を表す言葉として、それを共通の認識としてそう呼びましょうと人が決めたからといって、神の御性質や関係性はそれ以前からず~と存在してたものじゃないですか?

 上紀元さん、貴方は大変よく聖書を読んでおられ感心しています。しかしプロパーで無い事がハッキリしましたね。(ユニテリアン?)貴方はどこの群れの羊ですか?もし差し支え無ければどういう立ち位置から聖書を語っておられるのかお教えください。
2010-01-17 日 04:12:31 | URL | 渋柿 [編集]
非信者から、渋柿さんのたとえ話について
渋柿さんのたとえ話は、あらゆる人が認識できる客観的な自然現象を持ち出して、それ
とは全然別の、特定の人たちが唱える特定の教義を正当化しようとしています。

> 例えば、ジャングルでは強い獣が弱い動物を食べるという関係性が存在してますね。
>そして、その事を複数の人間が共通認識していて、「よっしゃ、これからは強いもの
>が弱いものを食べる事をみんなで『弱肉強食』って呼ぼうや!」って事になったからと
>いって、人は呼び方を決めただけであって、その関係性はそれ以前から存在してたもの
>じゃないですか?

自然界の弱肉強食は、あらゆる人が認識できる客観的な自然現象です。肉食獣が草食獣
を襲って食べる場面は、誰でもテレビで見て知っています。

>確かに「三位一体」という呼び方はニカイアの会議で議論が落ち着いたようですが、
>神の御性質を表す言葉として、それを共通の認識としてそう呼びましょうと人が決めた
>からといって、神の御性質や関係性はそれ以前からず~と存在してたものじゃないです
>か?

それは、特定の人たちが唱える特定の教義です。
●「神の御性質や関係性はそれ以前からず~と存在してた」ということ、
●それが「三位一体」といわれる性質のものであること、
は、特定の人たちの特定の教義です。それを弱肉強食と同列に議論することは、自分たち
の教義が絶対正しいという信者の思考方法です。
2010-01-17 日 05:54:35 | URL | AC [編集]
ACさんへ
>それは、特定の人たちが唱える特定の教義です。

 これを読まれている方に特定の教義と受取られるのは仕方の無いことですが、特定の教義だからこそ理解しやすいように伝えたいので、例えを使って話すのです。今回私は上紀元さんという特定の教義をかなり理解している特定の方に向けて書いたのです。

>自分たちの教義が絶対正しいという信者の思考方法です。

 クリスチャンとして初めからそういう立場でお話しています。ACさんが思考方法を指摘するのは、「こいつに騙されるなよ~!」って事をこのブログを見ている人に発したいから?反対の立場にある方は、とにかくクリスチャンはおもしろくない存在で否定したいという思考が根底にあるのでしょうから思考方法について語っても不毛の論議となるでしょう。是非ACさんお勧めの思考方法を教えてください、次回書き込む機会がありましたら念頭において書きたいと思います。



2010-01-17 日 09:31:50 | URL | 渋柿 [編集]
教義の根源にある聖書との矛盾
【柿渋さんへ】
>前に説明したehad(エハド)神の唯一(統一)を示すものと同じ単語なのです。この原語は単に肉体のみを表しているのではなく、霊も心も含めた人間存在全体を意味するものなので、日本語では伝わらないニュアンスを含んだ言葉なのです。

私も「肉体」のみの違いを指してはいません。
前回指摘したとおり、聖霊と御子の性質はまったく異なります 。(→マタイ12:32)
神と御子も完全に別の存在、性質であるとイエス御自身が語られています。

(マルコによる福音書)
10:18イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

私(御子)でもなく、他にはいないのにどうして「一体」であるのでしょうか?
 
>上紀元さんは一生懸命位格の説明をされておられますが、私は三位一体の概念をぶどうに例えて説明したのです。

ぶどうの房はぶどう無くして存在し得ません。
神は唯お一人にて存在しておられます。

(テモテへの第一の手紙)
6:16神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。

>神の御性質や関係性はそれ以前からず~と存在してたものじゃないですか?

その通りです。
それを「御父=御子=聖霊」と言う枠に閉じ込めたのが人間の教義です。
旧約、新約聖書を見ていけば御父と旧約の神ヤハウェが同質でないことも解かります。

(申命記)
32:8いと高き者は人の子らを分け、諸国民にその嗣業を与えられたとき、イスラエルの子らの数に照して、もろもろの民の境を定められた。32:9主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。

いと高き者=御父であって、「32:9主の分」の主がヤハウェです。
聖書は旧約の時代から明確に神(御父)と主(御子)を別けています。

>上紀元さん、貴方は大変よく聖書を読んでおられ感心しています。しかしプロパーで無い事がハッキリしましたね。(ユニテリアン?)貴方はどこの群れの羊ですか?もし差し支え無ければどういう立ち位置から聖書を語っておられるのかお教えください。

私はキリストに属する以外、如何なる組織にも属したことはありません。無所属、無宗派のキリスト信者です。神(御父)を唯一の神と知り、旧約の神ヤハウェ=新約のイエスが子なる神(御子)であることを信じる者です。
イエスはキリストであり、我々の神(御子)であり、主です。
2010-01-17 日 13:03:47 | URL | 上紀元521 [編集]
すみませんが、記事の趣旨から外れるようなコメントはご遠慮ください。
2010-01-18 月 07:09:49 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 続き
> >三位一体とは誰の教えですか?
> >創造主の父なる神の教えですか?
> >イエス・キリストの教えですか?
> >聖書の教えですか?
>  はいそうです。
> >そんな言葉、聖書に書かれていません。
>  信仰の無い方は目が閉ざされておりますので、

日本の人口の1パーセントにも満たないクリスチャンから
「信仰の無い方は目が閉ざされている」と言われる筋合いはありません。
では、日本の99パーセント以上の人にそこまでおっしゃる自信があるなら、
文部科学省に出向いて教科書にキリスト教の話を載せるように申し入れてはいかがでしょうか。

>無理ないかと思いますが聖書では創世記第1章に「神は仰せられた。『さぁ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』(創世記1:26)聖書の初っ端からわれわれと語っているのです。

聖書の初っ端から~と貴方はおっしゃいますが、反論させていただきます。
裏を返せば、神のことが「われわれ」と複数形で書かれているのは、
「聖書の初っ端しか」ありません。
もしもそれが真実なら、聖書に何度も同じ表現が登場するはずです。
モーセの十戒には、神は一人しかいないことが明確に記されています。
また、イエス自身も、父なる神を「唯一まことの神」とはっきり呼んでいます。

唯一まことの神であられるあなた(ヨハネ17:3)

さらに、パウロもこう書いています。

唯一の神、父である神がおられ、(コリントⅠ 8:6)

新約聖書に、神が自分自身(たち?)を「われわれ」と複数形で呼んでいる箇所はないでしょう?

>ここで、キリスト教は一神教じゃないのか!?と思われるかと思いますが、聖書の原語を分かりやすくこの箇所を英語で言うと「We am」としるされているのです。奇妙な言い回しですよねぇ、通常「We」のbe動詞は「are」ですよね、複数にして一人称、つまり複数の関係性を有しながら1人格を表しているのです。

旧約聖書はヘブライ語で書かれているはずなのに、
英語に翻訳された聖書を根拠に正当性を主張するのは、
典型的な「日本人の英語至上主義」であるほかにありません。
英語訳の聖書が絶対に正しいという保障はありません。

>これは神の言葉です。次に(ヨハネ福17:5)「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」イエスの言葉です。また聖霊について(ヨハネ16:7)「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」聖霊については(ヨハネ15:26、16:13~15)これらは聖書によって語られた聖書の教えです。そして唯一神教の「唯一」ただおひとり(申命記6:4)とはehad(エハド)という言葉なのですが、これは有機的な繋がりを持ったという、例えるならぶどうの一ふさを想像してください。一ふさでもぶどう、一粒でもぶどう、搾り出してでてくるものは同質のもの、神、御子、聖霊は3つの格位を有機的に有しながら同質のものなのです。

貴方は、モーセの十戒とヨハネ17:3の「唯一まことの神」と、
コリントⅠ 8:6の「唯一の神」の部分を引用しませんでしたね。
クリスチャンは、聖書の中の都合のいい箇所だけを引用して正当性を主張し、
都合の悪い部分は無意識に無視するものです。

>  桃栗さんは日本語に訳された「三位一体」という単語が聖書に無いと納得されないようですが・・・

エホバの証人も納得しないようです。
://www.watchtower.org/j/20050422/article_02.htm

> >プロテスタントだってせいぜい500年の歴史しかない新興宗教ではありませんか。
>
>  プロテスタントを新興宗教と切り捨てる方に初めてであいました(笑)実にユニーク!

たった500年の歴史しかないドイツ生まれのプロテスタントが「正統派キリスト教」なら、
それ以前の1500年も続いたキリスト教は何だったんでしょうね。
イスラエルの本家本元のキリスト教を差し置いて、
ヨーロッパ人の作ったキリスト教が正当派だなんて実にユニークです。
2010-01-21 木 02:20:26 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 人間の言い伝えと「幻」
> >三位一体とは誰の教えですか?
> >創造主の父なる神の教えですか?
> >イエス・キリストの教えですか?
> >聖書の教えですか?
>
> 「三位一体」は人間の会議によって決まった「人間の教え」です。
> 聖書では明確に「一体」で無いことを記しています。

そうですね。三位一体はまさに「人間の教え」です。
貴方は素直に聖書を読む方ですね。
しかし、私に言わせれば聖書そのものが人間の教えですが。
聖書には実にさまざまなことが書かれています。
まったく矛盾する正反対のことも書かれています。
キリスト教というものは、それぞれの宗派ごとに、
聖書の中から都合のいい聖句をつまみ食いして教義を作り上げているに過ぎません。
2010-01-21 木 23:12:47 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 私事ですが、最近ネットでキリスト教信仰を若い頃に棄てたアメリカのオバちゃんと彼女のブログを通じて話したのですが、彼女曰く、キリスト教徒は常に自分達が正しいと信じていて、それを証明しようとしていつも馬鹿なことをする。

私もそう思いますね。
なぜクリスチャンはキリスト教が絶対だと思うのでしょうか。
キリスト教が本当に正しいなら誰もが納得する説明がほしいのに、
未だに納得できたことがありません。

> また、バチカンには腐るほど金があるのに飢餓で苦しんでる人達に食料を配らずに宣教師を送り込むキリスト教にガッカリして、クリスマスすら祝うことを止めたとのことです。

私は、カトリックはお金持ちというイメージがあります。
たくさんの学校や病院を経営していますからね。
もちろん学校は私立ですから授業料も高いですよね。
カトリックは荘厳で格調高いイメージがありますが、
実際やっていることは聖書の教えに反するのではないかと思えてしまいます。

> キリスト教徒=どんな時も絶対に正しいキリスト教義(宗派によって解釈は違う)に縛られた盲目の囚人なので、キリスト教の矛盾を突っ込まれると、誤魔化すか逆上したかのようにキリスト教が正しいかをまくし立てる。このブログで証明済み?

十分証明されていますね。

> 無心論者、多神教、棄キリスト者=宗教の矛盾を突っ込まれても、そうだね~って流せて会話が前に進む。
>
> なので、一般人の思考回路とは違うと思いますよ。
>
> 今の桃栗さんはキリスト教を信仰してた頃とどう違うかを聞きたいです。

今後、記事やコメントの中でそのことに触れると思います。
ひとつだけ書くとすれば、私もその女性と同じように
クリスチャン時代はキリスト教的価値観で物事を考えるようなところがありましたが、
信仰を捨てたらオープンマインドになりました。
2010-01-24 日 19:04:14 | URL | 桃栗 [編集]
>信仰を捨てたらオープンマインドになりました。
自分で言うかな?どこがオープンマインドなんだろう?
キリスト教だけが正しいと思うのはオープンマインドではないことはわかるが、キリスト教を否定しているのがオープンマインド?
私は(カルトを除く)宗教も無宗教も良しとするのがオープンマインドだと思っていますが。
2010-01-25 月 13:31:10 | URL | ぶる [編集]
Re: タイトルなし
> >信仰を捨てたらオープンマインドになりました。
> 自分で言うかな?どこがオープンマインドなんだろう?
> キリスト教だけが正しいと思うのはオープンマインドではないことはわかるが、キリスト教を否定しているのがオープンマインド?

こちらをご覧ください。
//exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-61.html
キリスト教を、ひとつの文化、宗教としては完全否定するつもりはありません。
あくまでも「数多くある宗教の中のひとつ」に過ぎないと位置づけています。
キリスト教が真実と言うにはあまりにもつじつまが合わなさ過ぎます。
所詮、人間が作り出した世界ですから矛盾だらけなのです。
ほかの宗教と同じです。

キリスト教を信仰していた時代は私は神を恐れていましたが、
今はこんな風に自由に宗教について考えることが出来ます。
だから「オープンマインド」なのです。

それより、私を嘲笑するかのようなことを言う貴方の方こそ
オープンマインドなのでしょうか?

> 私は(カルトを除く)宗教も無宗教も良しとするのがオープンマインドだと思っていますが。

でも、自分が信仰している宗教を否定する人に対してはオープンではないのですね。
2010-01-27 水 23:38:51 | URL | 桃栗 [編集]
>でも、自分が信仰している宗教を否定する人に対してはオープンではないのですね。

は?いつそんなこと言いましたっけ?
無宗教「だけ」とか、自分の宗教「だけ」がただしいと信じるのが非オープンマインドだとは言いましたが。
2010-01-28 木 00:17:28 | URL | ぶる [編集]
Re:教義の根源にある聖書との矛盾
>神(御父)を唯一の神と知り、旧約の神ヤハウェ=新約のイエスが子なる神(御子)

 で、結局神はお2人いらっしゃると言ってるのですね。一神教の説明としては貴方のおっしゃっている事は一般の方には理解できないでしょうね。

>前回指摘したとおり、聖霊と御子の性質はまったく異なります 。

ではヨハネの福音書10:30の欄外解説(新改訳)の「同一の本質」という言葉は何を指しているのでしょう?

「また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」(ヨハネ福12:45/14:7)

ぶどうの例えが気に入らなければ、水でも構いませんよ 
 「1つの湖があります。朝冷え込んでその一部が凍って氷になりました。やがて日差しが強くなり湖の水の一部が蒸発して気体となりました。」ここに元を同じとするものが質を変え、同時顕現が可能です。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

>それを「御父=御子=聖霊」と言う枠に閉じ込めたのが人間の教義です。

 貴方の解釈もしょせん貴方が理解出来る範疇に閉じ込めた人間の考え、また私の説明も捕らえようのない方を至らない言葉で表現しようとしているに変わりはありません。
2010-01-30 土 20:39:03 | URL | 渋柿 [編集]
桃栗さんへ
>日本の人口の1パーセントにも満たないクリスチャンから
「信仰の無い方は目が閉ざされている」と言われる筋合いはありません。

真理は民主主義や多数決で決まるものではありません。ガリレオも1人で地動説を主張しましたが、正しかった事を歴史が証明してます。

>文部科学省に出向いて教科書にキリスト教の話を載せるように申し入れてはいかがでしょうか。
>英語に翻訳された聖書を根拠に正当性を主張するのは、
典型的な「日本人の英語至上主義」であるほかにありません。

貴方のものの捉え方がよく表れている文章ですね。
決め付けと思い込みが激し過ぎませんか?信教の自由がうたわれてる日本で道徳や倫理に採用されている宗教があるなら教えてください。
私が英語で説明した表現は英語翻訳ではありませんよ。英語訳はまた別にあります。人称表現の存在しない日本語では分かりにくいので、日本の一般学科で共通認識ができ、誰もが分かりやすいと判断し、概念として伝えたまでです。

>裏を返せば、神のことが「われわれ」と複数形で書かれているのは、
「聖書の初っ端しか」ありません。

初めはこの世の創造における神における会話(ヨハネ福17:5)
新約は人として来られた神と人とのお話です。(ヨハネ福17:7~)

>旧約聖書はヘブライ語で書かれているはずなのに、
英語に翻訳された聖書を根拠に正当性を主張するのは、
典型的な「日本人の英語至上主義」であるほかにありません。
英語訳の聖書が絶対に正しいという保障はありません。

私はヘブル語に精通しておりません。私はヘブル語に精通した研究家の公に発表されたものは自分の意見よりも信用を置いています。
原語の説明からしなければならないものは説明には不向きでしょう。
以下に創世記1:26のヘブル原語の文章を載せておきましたので、人に信用を置かないのであれば、ご自分でご確認ください。
ちなみに、ヘブル語は右から読みます。אֱלֹהִים,(エロヒーム)אֱלֹ,(神/エル)הִים(複数形)

כו וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים, נַעֲשֶׂה אָדָם בְּצַלְמֵנוּ כִּדְמוּתֵנוּ;

>貴方は、モーセの十戒とヨハネ17:3の「唯一まことの神」と、
コリントⅠ 8:6の「唯一の神」の部分を引用しませんでしたね。

私は唯一の説明を原語のehad(エハド)「有機的な繋がりを持った神」と説明したのですから、貴方のご指摘の箇所に、「唯一」=「有機的な繋がりを持った神」という言葉を当てはめてお読みください。という事を前回書いたのですよ。全ての箇所を引用する必要はないでしょう。
 
>エホバの証人も納得しないようです。

貴方はご自分の信用を置いていない団体を自分の意見の擁護に用いるのですね。説得力ありません。

>それ以前の1500年も続いたキリスト教は何だったんでしょうね。

聖書を守り伝えたもの。

>イスラエルの本家本元のキリスト教を差し置いて、

国家としてのイスラエル本家は未だユダヤ教であり、人類歴史上本家本元のイスラエルにキリスト教が存在したことは一度もありません。当時はユダヤ教の中のナザレ派として認識されていたにすぎません。
ここがヘンだよキリスト教なんて大それた看板を掲げているのだから、批判するのは構いませんが、その辺はもう少し勉強してください。

>ヨーロッパ人の作ったキリスト教が正当派だなんて実にユニークです。
私は正統派なんて主張(言葉の使用も)しておりませんが、(これも貴方の思い込みですよね)キリスト教をヨーロッパ人が作ったという根拠を述べてください。では楽しみに待ってます。
2010-01-31 日 00:05:25 | URL | 渋柿 [編集]
偶像崇拝
偶像に関するここの議論も興味深いですね。また、おじゃまいたします。

偶像崇拝否定の徹底振りではイスラム教が有名ですね。モスクにはメッカの方向をあらわす”ミフラーブ”という目印があるだけで、神やムハンマドなどの像は絶対ありません。そのメッカにあるカアバ自体が、中味は”空”であり、何も入っていない。カアバは”神”に近いとされる”場”なんですね。どちらかといえば、”結界”に近い。
また、あくまでも神は唯一であり、信仰すべきは神のみであり、神の形は人間には表せないものであるとう点が今も徹底されています。また、預言者ムハンマドはあくまでも一人の人間であり、尊敬・崇拝の対象ではあれど、信仰の対象ではありません。たとえ、聖人であれ聖者であれ、預言者であれ、天使であれども、信仰すべきは”神”以外にありえないのがイスラム教ですね。
ですから、聖人・聖者・預言者・天使などの像や絵を作り、それを信仰の対象とすることは許されず、また”神”は宇宙をも越えた存在(という考えがイスラム教にはある)なのですから、そもそも形には表せない。性別なんてもちろんない。つまり偶像はあり得ない。作りようが無い。もしも偶像があれば、それはニセモノであり、信仰の逸脱ということになります。

キリスト教はどうでしょう。そもそも、イエスが語ったのは旧約聖書の神の言葉の再解釈であり、モーセやムハンマドのような啓示物語が、イエスでは明確にはなっていない。そこで、イエスは神の子でイエスの言葉=神の言葉にしてしまった。さらには、イエス=神であるかのごとく錯覚させるために、わざわざ三位一体なる奇妙な学説?を作り上げた。それは、イエスの偶像化につながります。私はそう理解しています。
さらには、古来からある女神信仰をマリア信仰にすり替えたり、天使や聖者を信仰の対象にして多神教徒を改宗させたり、あげくはミトラ教の冬至祭を利用して、12月25日をキリストの誕生日にしてしまう。もうなんか人間の都合、教会の都合で改変・改竄・すり替えをやりすぎて、ワケが分かりません。

イスラム教の場合、この偶像否定の徹底振りが日本人には窮屈に感じる部分であることも確かですね。ですが、矛盾だらけで”いい加減”なキリスト教に比べれば、イスラム教は合理的に、論理的に考えた結果として偶像崇拝否定になっていることが良く分かります。


一休宗純は皆さん知っていますよね。とんちの一休さん。あのひとが”風狂”と呼ばれたのは、徹底的に偶像や権威を嫌ったからなんです。
村人が地蔵さんや仏様の像を拝んで、えらい坊様を拝んで、苦しい中からお金を工面して偶像を作り、坊様にお布施をするのを見て、「そんな偶像を拝んでなんになる。それで救われることもないし、仏になれることもない」と考え、その偶像がお寺のお金儲けに他ならず、むしろ、地獄に落ちるような愚かな行為として糾弾しました。村人の前で、「どんな形をしていようと、所詮、石は石、木は木でしかない!」とお地蔵さんや仏様の像に小便をぶっかけた人ですからね。”キチガイ”呼ばわりされたんです。
でも、一休のそうした物事の本質を見極め、合理的・論理的に物事を考える賢さが、後世にとんちの一休さんに結びついたんでしょう。

一休がキリスト教を見たら、強欲な教会を見たら、きっと「これはワインであってキリストの血に非ず、パンはパンであってキリストの肉に非ず、こんなものを有難がって、それを喜ぶのは教会であり、坊主であり、それが神と何の関係があるのか!」くらいは言うでしょうね。
2010-02-01 月 00:38:51 | URL | 四式戦疾風 [編集]
神の知恵
【渋柿さんへ】
>で、結局神はお2人いらっしゃると言ってるのですね。一神教の説明としては貴方のおっしゃっている事は一般の方には理解できないでしょうね。

いえ神は「三体」です。父なる神と子なる神と父の霊なる聖霊です。
一般の方が理解出来ないのではなく、聖書の真理を神に求めない者には理解出来ないのです。
我々の唯一の神、根源の神は父なる神お一人であってそれは信者であれば誰もが認めるところと思います(→Ⅰテモテ6:16)。そしてその権威、支配から、見えないもの見えるもの、万物に至るまで全てを与えられたのが「子なる神」即ち御子、我々の「主なる神」です(→ルカ22:29、コロサイ1:16、)。天地の造られる前から子なる神は父の栄光、全てのものの「主」なる神となる権威を与えられているのです(→ヨハネ17:24)。
そしてその三体の神を表す言葉が創世記1:1~2:4前半までの「エロヒム」です。御子を現すのは「ヤハウェ(エホバ)」=主なる神であって同2:4後半から記されています。これにより「エロヒム」が異教の「神々」に使われている意味も理解出来るかと思います。
聖書は明確に創世記の第一章から、父と子を別けて記しています。

>ではヨハネの福音書10:30の欄外解説(新改訳)の「同一の本質」という言葉は何を指しているのでしょう?

「本質が一つ」と言うのは霊的な表現です。

(ヨハネによる福音書)
17:21父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。 17:22わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 17:23わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

彼等=信者が父の栄光を受け、一体となるのであれば全位一体の神となり、我々も神の一つの位格となってしまいます。我々が神を信じ集まる時、キリストが共におられる様に(→マタイ18:20)、聖書の「一つ」とは、霊的な繋がり、栄光の表れのことを指します。霊的繋がりを説明されるのでしたら「三位一体」も間違いではないでしょう。

>ぶどうの例えが気に入らなければ、水でも構いませんよ 
 「1つの湖があります。朝冷え込んでその一部が凍って氷になりました。やがて日差しが強くなり湖の水の一部が蒸発して気体となりました。」ここに元を同じとするものが質を変え、同時顕現が可能です。
>貴方の解釈もしょせん貴方が理解出来る範疇に閉じ込めた人間の考え、また私の説明も捕らえようのない方を至らない言葉で表現しようとしているに変わりはありません。

私は私の言葉で神の「定義」や「たとえ」を施してはいません。
渋柿さんの示されるぶどうや水のたとえ、一般キリスト教の
教義となっている三位一体の神は「聖書的ではない」のです。
「本質が同じ=一体」であったなら以下の聖句の説明が出来ません。

(マタイによる福音書)
12:32また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

(マルコによる福音書)
13:32その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

(マルコによる福音書)
10:18イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

(テモテへの第一の手紙)
2:5神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

唯一の水、唯一の氷、唯一の水蒸気による湖は出来ません。
神もキリストも「唯一人」であって、状態、性質、位格が変わるのではありません。
それを「神とは、人間の頭で理解出来るものではない」の一言で片付け、
聖書にある真理を拒んでいるのは正しい事でしょうか。
神の知恵によれば神を理解することも可能であるはずです。
我々信者が求めるべきものは人間の一般論でしょうか?
それとも神の知恵でしょうか?
2010-02-01 月 13:16:38 | URL | 上紀元521 [編集]
>「本質が一つ」と言うのは霊的な表現です。

神は霊ですよね。その霊がehad(エハド)「有機的な繋がりを持った」という事はどういうことかよ~く考えてくださいね。

貴方が言葉をどのように解釈するかはご自由です。しかし!

>一般キリスト教の教義となっている三位一体の神は「聖書的ではない」のです。
>聖書にある真理を拒んでいるのは正しい事でしょうか。

貴方に問います!バプテスマを受ける事、パンさきと契約の血に預かる事は主イエスキリストのご命令です。
貴方はこの聖書の言葉に従う事をせず、ご自分を正しいと主張しますか?
教会の頭はキリストであり、教会は体です。弟子は主人の言葉を聞き分け従います。命令に従わない貴方がキリスト者を名乗り、教会の教義と違う個人的見解をクリスチャンに主張するのは滑稽です。

貴方は心を合わせて人と祈った事がありますか?互いに重荷を負い合った事がありますか?

>神の知恵によれば神を理解することも可能であるはずです。
我々信者が求めるべきものは人間の一般論でしょうか?
それとも神の知恵でしょうか?

教会(過去の人の罪)を赦す事が出来ず怒り続けている限り、貴方に真理はありません。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:23)

いくら聖書を読んでも見えないものは見えないし、行いは伴いません。貴方の意見から貴方がまだ聖霊を授かっていない事は明らかです。

上紀元さん、主に祈って貴方にふさわしい教会に繋がりなさい。そうすることで、初めて主のご命令の意味を体得出来るのです。勇気を出して表へ出てごらんなさい。

貴方は祝福を受け益々神に用いられる器となることでしょう。
私もかつて教会を激しく非難する者でした。貴方がたと同じようにね(笑)。いや、もっとたち悪かったかな。

神をを愛する方よ、聖書の教えから逸脱し、教会が過去に犯した過ちをどうかお赦しください。主の最も小さな弟子の1人として全ての方々に謝ります。

私はそろそろここから塵を払い次の所へ行きます。最後に聖書の御言葉を1つ

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。
 あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」
(ヤコブ4:1)

争いは宗教や政治や立場の問題ではないのです。平安がありますように!ハレルヤ。
2010-02-01 月 23:09:28 | URL | 渋柿 [編集]
【四式戦疾風さんへ】
>性格なんてもちろんない
とありますが、イスラム教は旧約聖書と新約聖書の福音書の一つ(イエスはあくまでも預言者との解釈)とムハンマドの言葉をコーランとして使用しています。イスラム関連の本を数冊よみましたが、『人格がない』と書かれているものを読んだ記憶がありません。性格がないとは、誰が言っているのでしょう? 一神教の中ではイスラムがもっとも好きですし、『神に性格なんてない』 と私は考えています。私事ですが、重要なポイントです。

>カアバは”神”に近いとされる”場”なんですね
神は首の頚動脈より近いところにおられると、イラン人の著者が述べています。この意味は。神は常に自分と共におられて切り離せない。結界に近いとは誰が書いた本ですか?

>イスラム教は合理的に、論理的に考えた結果として偶像崇拝否定になっていることが良く分かります。
イスラム教は偶像崇拝禁止が大原則ですが、最初の掲示を受けたムハンマドが起こした行動の第一歩がメッカでの偶像崇拝禁止(キリスト教とは無関係の多神教)です。ムハンマドは生涯をかけて掲示を受け続けたと信じられているので、『合理的に、論理的に考えた結果として』は、あなたの独断による希望的推測ですよね? しかし、イスラム教はムハンマドが悟りを啓いて作ったと言うなら、その通りだと思います。

一休さんの話、面白かったです。でも、一休さんやりすぎ!ほんとにムハンマドのようですね。

桃栗さん、また、関係のない話をしてすいません。どうしても、 四式戦疾風さんに聞きたいのです。ゴメンね。
2010-02-02 火 00:23:35 | URL | 異教徒 [編集]
真理とは
【渋柿さんへ】
>神は霊ですよね。その霊がehad(エハド)「有機的な繋がりを持った」という事はどういうことかよ~く考えてくださいね。

有機的
[形動]有機体のように多くの部分が集まって一つの全体を構成し、その各部分が密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っているさま。

「有機的繋がり」とは「一体」ではありません。

>貴方に問います!バプテスマを受ける事、パンさきと契約の血に預かる事は主イエスキリストのご命令です。
貴方はこの聖書の言葉に従う事をせず、ご自分を正しいと主張しますか?

「バプテスマを受ける」とは「この世の教会」で受ける儀式のことではありません。パンをさき、契約の血を飲むとは実際にパンを食べ、ワインを飲むことではありません。イエスのたとえをまったく理解されていないとしか言えません。私は常にパンをさき、ワインを飲み、聖霊によるバプテスマを求めています。そして私は只の一度も教会で行われているそれらの儀式を「否定」したりはしていません。

>教会の頭はキリストであり、教会は体です。弟子は主人の言葉を聞き分け従います。命令に従わない貴方がキリスト者を名乗り、教会の教義と違う個人的見解をクリスチャンに主張するのは滑稽です。

>教会(過去の人の罪)を赦す事が出来ず怒り続けている限り、貴方に真理はありません。

いつ私が教会の過去の罪を現在赦さず罪に定めたのでしょうか?そしてあなたは教会の教義によっ私を偽り者と罪に定めるのですね?あなたの真理はどこにあるのですか?私の真理はキリストとそれを証しする聖書の御言葉です。

時間がないのでとりあえずこれにて。
体とは我々信者のことをも指します(→ローマ12:5、Ⅰペテロ4:17他)
教会の教義に従って、キリストに従わないのであればそれは戒めるべきです。そして私は聖書に沿ってキリストに従うのみです。私のどこがキリストに従わないのか明確に述べて下さい。間違いでしたら正します。
2010-02-02 火 09:05:35 | URL | 上紀元521 [編集]
追記
【渋柿さんへ】
先の投稿の最後の記述は、教会についての回答です。
順番が入れ替わってしまいましたスミマセン。

>いくら聖書を読んでも見えないものは見えないし、行いは伴いません。貴方の意見から貴方がまだ聖霊を授かっていない事は明らかです。

私の賜物はキリストにあって聖書より明らかです。私の言動がそれを証しするでしょう。

>上紀元さん、主に祈って貴方にふさわしい教会に繋がりなさい。そうすることで、初めて主のご命令の意味を体得出来るのです。勇気を出して表へ出てごらんなさい。

主の御言葉の字義しか求めない者にはそれ相応のものしか与えられません。キリストにおいて表も何も全ては「真理」しかありません。私はこの世的な「教会」と言う組織に繋がることを望みません。信仰は一つですが、各器官の働きはそれぞれです。
聖書から教義を導き出す者と、教義から聖書を理解する者は根源が違うのです。

>貴方は祝福を受け益々神に用いられる器となることでしょう。
私もかつて教会を激しく非難する者でした。貴方がたと同じようにね(笑)。いや、もっとたち悪かったかな。

私は教会の非難など一度もしていません。聖書に沿わない教えをキリストの教えによって戒めているに過ぎません。あなたは何故キリストに着く私を非難するのですか?それはあなたがキリストに堅く着いておらず、世の教会に固執してしまっているからです。

>神をを愛する方よ、聖書の教えから逸脱し、教会が過去に犯した過ちをどうかお赦しください。主の最も小さな弟子の1人として全ての方々に謝ります。

過去と共に今の過ちをも悔い改めて下さい。

>私はそろそろここから塵を払い次の所へ行きます。最後に聖書の御言葉を1つ

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。
 あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」
(ヤコブ4:1)

>争いは宗教や政治や立場の問題ではないのです。平安がありますように!ハレルヤ。

戒めとして聞く耳を持たない者は、争いを招くでしょう。私は私の知識で戒め、解釈を施してはいません。あくまでも聖霊による賜物に願い求め、聖書から答えを示しています。自らのたとえや意見で争いを望んでいるのは私の方でしょうか?今一度私のコメントとあなたのコメントを見直してみて下さい。
2010-02-02 火 10:39:17 | URL | 上紀元521 [編集]
RE:【四式戦疾風さんへ】
【異教徒さんへ】
ここは桃栗さんのブログです。
投稿者どうしの議論は気がすすまないのですが、ご質問に簡潔に答えます。

>性格がないとは、誰が言っているのでしょう?
性格ではなく”性別”です。おそらく読み間違いだと思います。

>結界に近いとは誰が書いた本ですか?
この解釈はイスラムの世界観を私なりに解釈・理解したものです。写真集『メッカ』のカアバとそこをタワーフするムスリムの写真をみてそう思いました。”結界”という表現は比喩です。イスラムの教義に”結界”が出てくるわけではありません。

>『合理的に、論理的に考えた結果として』は、あなたの独断による希望的推測ですよね?

”ただアッラーのみに帰依する”というイスラム教の最も根本となる教義を実践するためには、まずは偶像は否定されなければならないということ、これは合理的・論理的に解釈できるということです。
この解釈は希望的観測ではありません。
ここでいいたいのは、いかにキリスト教が非合理的かつ非論理的かを言いたいのです。まさに、キリスト教こそが、”イエスは神の子だった”、”イエスは復活した”という希望的観測に基づいています。
2010-02-03 水 23:22:56 | URL | 四式戦疾風 [編集]
Re: タイトルなし
> >でも、自分が信仰している宗教を否定する人に対してはオープンではないのですね。
>
> は?いつそんなこと言いましたっけ?
> 無宗教「だけ」とか、自分の宗教「だけ」がただしいと信じるのが非オープンマインドだとは言いましたが。

では、貴方はオープンマインドな方だということでよろしいでしょうか。
2010-02-06 土 02:03:48 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 桃栗さんへ
> >日本の人口の1パーセントにも満たないクリスチャンから
> 「信仰の無い方は目が閉ざされている」と言われる筋合いはありません。
>
> 真理は民主主義や多数決で決まるものではありません。ガリレオも1人で地動説を主張しましたが、正しかった事を歴史が証明してます。

では、なぜカトリックは真理を主張したガリレオを弾圧したのでしょうか。
神様を信じている人たちがなぜ真理を見抜けなかったのか、
そこが不思議なところです。
ようやく近年になってヨハネパウロ2世が謝罪しています。
謝罪するのに400年もかかっています。
民主党の小沢さんは、キリスト教は排他的だと発言しましたが、
それは歴史が証明しています。

> >文部科学省に出向いて教科書にキリスト教の話を載せるように申し入れてはいかがでしょうか。
> >英語に翻訳された聖書を根拠に正当性を主張するのは、
> 典型的な「日本人の英語至上主義」であるほかにありません。
>
> 貴方のものの捉え方がよく表れている文章ですね。
> 決め付けと思い込みが激し過ぎませんか?信教の自由がうたわれてる日本で道徳や倫理に採用されている宗教があるなら教えてください。

論点のすり替えはおやめください。
キリスト教では、聖書に書いてある天地創造の話が真実だと信じているのでしょう?
だったら日本中に真実を伝えようとは思わないのですか?
と、私は言っているのです。

> >裏を返せば、神のことが「われわれ」と複数形で書かれているのは、
> 「聖書の初っ端しか」ありません。
>
> 初めはこの世の創造における神における会話(ヨハネ福17:5)
> 新約は人として来られた神と人とのお話です。(ヨハネ福17:7~)

該当箇所を読んでみましたが、
神が自分たちを「われわれ」と呼んでいる記述はまったくありません。

> >旧約聖書はヘブライ語で書かれているはずなのに、
> 英語に翻訳された聖書を根拠に正当性を主張するのは、
> 典型的な「日本人の英語至上主義」であるほかにありません。
> 英語訳の聖書が絶対に正しいという保障はありません。
>
> 私はヘブル語に精通しておりません。私はヘブル語に精通した研究家の公に発表されたものは自分の意見よりも信用を置いています。
> 原語の説明からしなければならないものは説明には不向きでしょう。
> 以下に創世記1:26のヘブル原語の文章を載せておきましたので、人に信用を置かないのであれば、ご自分でご確認ください。
> ちなみに、ヘブル語は右から読みます。אֱלֹהִים,(エロヒーム)אֱלֹ,(神/エル)הִים(複数形)
>
> כו וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים, נַעֲשֶׂה אָדָם בְּצַלְמֵנוּ כִּדְמוּתֵנוּ;

あなたがヘブル語に精通していないのに、
どうしてそれが正しいと分かるのでしょうか?
それに、聖書が神の書いた完璧な書物ならば、
日本語にも完璧に訳せるはずです。
ところが、完全な訳はないと、
日本聖書教会は新共同訳聖書の序文で認めています。

> >貴方は、モーセの十戒とヨハネ17:3の「唯一まことの神」と、
> コリントⅠ 8:6の「唯一の神」の部分を引用しませんでしたね。
>
> 私は唯一の説明を原語のehad(エハド)「有機的な繋がりを持った神」と説明したのですから、貴方のご指摘の箇所に、「唯一」=「有機的な繋がりを持った神」という言葉を当てはめてお読みください。

ですから、それをこじ付けと言うのです。
「唯一」とは「ひとつしかない」という意味ですよね。
それを「有機的な繋がりを持った神」とは
ずいぶん強引な解釈ですね。

 
> >エホバの証人も納得しないようです。
>
> 貴方はご自分の信用を置いていない団体を自分の意見の擁護に用いるのですね。説得力ありません。

別に説得力を持たせようとしているわけではありませんし、
単なるあてつけです。
いわゆる正統派キリスト教の、エホバの証人に対する反応に興味があるのです。
エホバの証人を引き合いに出す理由はこちらをお読みください。
://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-22.html

> >それ以前の1500年も続いたキリスト教は何だったんでしょうね。
>
> 聖書を守り伝えたもの。

その言葉↑の前には「聖職者だけが」という言葉が必要ですね。
1500年以前の聖書がまだ翻訳も出版されていなかった時代、
一般庶民は聖書に触れることが出来ず、
聖職者の言葉のままに従うしかなかったはずです。
一般庶民は、聖職者の言葉が聖書的に正しいのかどうか
確かめるすべがあったのでしょうか?

> >イスラエルの本家本元のキリスト教を差し置いて、
>
> 国家としてのイスラエル本家は未だユダヤ教であり、人類歴史上本家本元のイスラエルにキリスト教が存在したことは一度もありません。当時はユダヤ教の中のナザレ派として認識されていたにすぎません。

ありがとうございます。
次の質問に答える根拠が出来ました。


> >ヨーロッパ人の作ったキリスト教が正当派だなんて実にユニークです。
> 私は正統派なんて主張(言葉の使用も)しておりませんが、(これも貴方の思い込みですよね)キリスト教をヨーロッパ人が作ったという根拠を述べてください。では楽しみに待ってます。

私は貴方が正統派だなんて言っていませんよ。(貴方の思い込みですよね)
世間一般のキリスト教のことを言ったまでです。
それに、貴方の主張によれば、
本家のイスラエルにキリスト教が存在したことはなかったのでしょう?
それが答えです。

そもそも、カトリックの本拠地はイタリアのローマの中にあるバチカン、
宗教改革によってプロテスタントが生まれたのはドイツ、
聖公会はイギリスですね。
2010-02-08 月 00:50:07 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 偶像崇拝
> キリスト教はどうでしょう。そもそも、イエスが語ったのは旧約聖書の神の言葉の再解釈であり、モーセやムハンマドのような啓示物語が、イエスでは明確にはなっていない。そこで、イエスは神の子でイエスの言葉=神の言葉にしてしまった。さらには、イエス=神であるかのごとく錯覚させるために、わざわざ三位一体なる奇妙な学説?を作り上げた。それは、イエスの偶像化につながります。私はそう理解しています。

私もそう思いますね。
もしもイエスの教えが完璧なら、パウロの書簡は要らないはずです。
信仰を捨てた現在、改めて新約聖書を読んでみると、
キリスト教の教義はパウロの影響が多いと感じざるを得ませんね。
2010-02-21 日 21:52:58 | URL | 桃栗 [編集]
偶像
聖書は、『あなたは如何なる偶像も作ってはならない…』以下省略しますが、この時点でキリスト教は聖書の教えから背いてます。

教会は何故十字架を掲げるのでしょうか?

イエスがはりつけにされた十字架は偶像に当たらないのでしょうか?
更に言えば、中世のヨーロッパでは十字軍や魔女狩りなどでキリスト教はすでに血の罪を負っています。

ヨハネの黙示録18章16~24節にかけて読んでもらえば解るように、これはキリスト教ことを書いているのではないでしょうか?
2010-05-18 火 23:59:49 | URL | 昨夜 [編集]
聖母(実はマリアではなくセミラミスまたはイシュタル神)崇拝から、ローマカトリックが“ヨハネの黙示録の大姦婦”であることがわかります。
2011-09-08 木 21:37:07 | URL | タコ [編集]
タコ様へ
あなたの書き込みは全部支離滅裂ですね。手遅れにならないうちに然るべき医療機関に行く事をお勧めいたします。
2011-09-08 木 23:31:33 | URL | 巨大虎猫 [編集]
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