2023-02-19 Sun
キリスト教の世界では、教会に通っているだけではクリスチャンとは呼ばれません。洗礼という儀式を経てイエス・キリストを救い主として受け入れ、それから晴れてクリスチャンと呼ばれることになります。洗礼の様式は宗派や教派によって異なり、頭に水を付けるだけの滴礼や、全身を水槽に沈める浸礼などがあります。洗礼は、ほとんどの場合は教会の中で行われますが、中には海岸で洗礼を行う教会もあると聞いたことがあります。しかし、健康上の理由などでその人が教会に来られない場合、その人の自宅や入院先の病院などで洗礼が行われることもあります。これを「病床洗礼」と呼びます。私がクリスチャンだった頃に、この病床洗礼が行われた事例を身近に見たことがあります。今回は、その病床洗礼について思うことを書いていきます。
詳しく書くと私の身元がばれる恐れがあるので、大まかに書きます。私の通っていた教会に、非常に信仰熱心な方がいました。「Aさん」としておきましょう。そのAさんの悩みとは、家族がキリスト教に理解を示してくれないことでした。家族からは、教会に行くな、キリスト教なんかやめてしまえ、と度々言われ、嫌がらせまで受けたそうです。そんなある日、家族の一人(Bさん)が重い病にかかってしまい、医師から余命を宣告されてしまいます。
Bさんの体は日に日に弱り、ついにほどんど危篤状態となってしまいます。そして、Aさんは、牧師さんに、Bが亡くなる前に洗礼を授けてほしいとお願いします。そこで、牧師さんは洗礼道具一式を持参して、Bさんのいる病院へ向かい、洗礼式を行いました。私は直接その場にいませんでしたが、牧師さんやAさんの話によれば、Bさんは確かにイエス・キリストを救い主として受け入れたとのことです。そして、Bさんは病状が回復することなく、そして、もちろんただの一度も教会に来ることなく、お亡くなりになりました。
Bさんの葬儀は教会で執り行われました。もちろん、Bさんは「最期に心を開いて主イエス・キリストを受け入れ、天に召された」ということになっていました。Aさんは、あんなにキリストを拒んでいたBが、心を開いて主を受け入れてくれた、亡くなる前に間に合ってよかった、と喜びに満ちた顔で語っていました。当時私は、「やはり全知全能の神には、人の心を開く力があるのだなあ」と自分に言い聞かせ、納得させようとしていました。
しかし、今になって考えてみれば、これはただ単に病人の弱みに付け込んだだけです。Bさんは肉体的にも精神的にも衰弱し、身動きが取れない上にほとんど意識がもうろうとしている状態だったでしょう。そんな人に無理やり洗礼を授けたところで、何の意味があるのでしょうか。Bさんは訳の分からないままに信仰告白をさせられ、クリスチャンにさせられ、天国に召されたことにされてしまったのです。ああ、なんとお気の毒なことでしょう。もし本当に神に人の心を変える力があるなら、Bさんが元気でピンピンしている間に変えられたはずです。なのに、なぜかBさんが危篤状態にならないと心を変えられないんですね。神の力とは、その程度なのですか?
さて、病床洗礼の事例をネットで検索すると、画像付きで色々出てきますね。いずれも、身動きが取れず、正常な判断力のない高齢者や病人の弱みに付け込んだものばかり。そして、喜んだ表情をしているのは、洗礼を授けた牧師さんと立ち会った信者さんだけ。当の本人は訳が分からぬという顔の人ばかり。例えばこれ。
https://blog.goo.ne.jp/miwatti88/e/6819be6286b248225f3da9041a83d5ff
伝道師がとある高齢者女性に病床洗礼を授けた事例です。「ちょっと・ビックリしたみたいですが、ご本人は喜んでおられました」などと書いていますが、そりゃ本人もびっくりするでしょう。喜んでいるのは「授けた側」だけです。当のおばあさんは訳の分からぬという表情でぽかーんとしています。ああ、無理やりクリスチャンにされて何とかわいそうなおばあさん。こんな一方的な洗礼に意味がありますか? 結局、病床洗礼というものは、授けた側の自己満足でしかありません。

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