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桃栗

Author:桃栗
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コメント
じゃあ、祈りが平安に繋がることを認める訳だよね
http://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-169.html#trackback10

ここについて、じゃあ祈りが平安に繋がることを認めるわけだよね
ならばあなたも自分の為に祈ってみたはどうかな?

宗教を否定してもしょうがないし(世界中に宗教なんていくらでもある)
奇跡だとか神だとか悪魔だとか、大なり小なり宗教はおかしなことをいってるんだから
それを問題にしてもしょうがない

私は何年も宗教を否定するブログをやってる人は
どこか病んでるんだと思っている
宗教が嫌いならとっとと忘れてもっとおもしろい事をすれば?
2015-04-26 日 10:41:27 | URL | クリスチャン [編集]
つまり、宗教というのはすべて嘘だけど
私の場合は、一週回って必要なんだと思うようになったってわけです

だけど宗教の距離によっては凄く傷つくから
適度に距離をもって信仰した方がよいと思いますがね
2015-04-26 日 11:07:23 | URL | クリスチャン [編集]
つまり、人類は宗教や神を必要としており
どうせ正しい宗教なんかないのなら
キリスト教でよいじゃないかってこと
2015-04-26 日 11:10:01 | URL | クリスチャン [編集]
Re: じゃあ、祈りが平安に繋がることを認める訳だよね
> http://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-169.html#trackback10
>
> ここについて、じゃあ祈りが平安に繋がることを認めるわけだよね
> ならばあなたも自分の為に祈ってみたはどうかな?

トラックバック先のブログにコメントしてください。

2015-05-01 金 22:57:11 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> つまり、宗教というのはすべて嘘だけど
> 私の場合は、一週回って必要なんだと思うようになったってわけです
>
> だけど宗教の距離によっては凄く傷つくから
> 適度に距離をもって信仰した方がよいと思いますがね

大人になってから宗教に出会った人は、
宗教と適度に距離感を保って信仰できるでしょう。
しかし、そんな能力も備わっていない幼少時から宗教に浸った人は
そういう能力がないまま洗脳されるのです。
こちらをお読みください。
http://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-155.html
http://sokudokuhikky.blog103.fc2.com/blog-entry-1024.html
2015-05-02 土 10:12:05 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> つまり、人類は宗教や神を必要としており
> どうせ正しい宗教なんかないのなら
> キリスト教でよいじゃないかってこと

結局キリスト教を押し付けているではないですか

2015-05-02 土 10:13:00 | URL | 桃栗 [編集]
桃栗さん、こんにちは。

ゴールデンウィーク(GW)が始まりました。
僕の前に行っていた教会では、このGWに教会バザーを毎年催します。

まず、月1回行われる役員会で審議にかけて、バザーの日付、時間などを決めて、了解がでれば壮年会、婦人会、青年会でまた細かく、どの担当を受け持つのかを話し合います。

基本は壮年会は、駐車場誘導や整理担当。
婦人会は料理、食事、会計担当。
青年会は、ゲーム、子供コーナー、オーディオ機器、パソコン機器担当にわかれていました。

僕は、役員会と青年会を受け持っていたので、とんでもなく忙しかったです。
日曜日は礼拝が終われば、翌日のバザー準備で、テント張り、チラシ作り、机やイス並べ、バザーに出す品物整理等々がありました。

バザー当日も、朝7時あたりから最終準備に追われ、全部の片付けが終わるのは夕方の4時頃でした。

これもそれも、伝道のため、教会の借金を少しでも早く完済するためだと、疑いもせずに邁進していました。

しかし今となっては、全く無駄な努力だったと痛烈に思っています。

今も、教会を離れたら天国に行けない(地獄に行く)という教え?に震えて、教会から離れられない人達が、せっせと奉仕をしているんでしょうね。

教会堂も牧師も信徒も、1世紀以降に他の宗教とごちゃごちゃに混ざりあって誕生したものなんですがね。

2015-05-03 日 12:35:10 | URL | 重荷を負えなかった者 [編集]
人間のクズ
↑この男("クリスチャン")は某所で「結局は広まったキリスト教が覇者、結果が全てだ」と抜かしていたサイコパスです。
ttp://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/d51e72232bf0315133ad3172f9b16fb7
 
「人間の命に価値があると思って歴史を見ると(殺人宗教の)キリスト教を非難するようになる」 「そして差別・憎悪をばら撒くという、キリスト教徒と同じことをするようになる」

歴史は無感情で見よ、と言いながら
西洋の大暴れは「よくやった」、日本のキリシタン迫害については「日本は酷い国だ」
と同じ迫害にも差を付けておりこっそり自身の護教アイデンティティに従って行動している様を隠せていませんでした。アホですね。笑
 

誰しも人生は一度きり 人の暮らす処には感情がある
だから犯罪組織は「断罪」や「再発防止」の取り組みを受けても仕方がない。
こんな未熟な人格、規範意識で "宗教者" を名乗るだにおこがましいのでは?
仏教徒が「人の命に価値があると思ってはならない」と言ったら驚愕ですが、キリスト教徒では普通の事なのですね。
2015-05-09 土 02:12:14 | URL | 秀和 [編集]
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015-05-13 水 01:52:51 | | [編集]
神の存在
私は神の存在はインチキだと思いますね。

一神教の神で人類が揉めているなら、神でしか出来ない事をすればそれで終わりでしょう。

例えば、地球の自転を一日ストップさせて、「私は神である。人間には不可能なことをやって証拠を示した」と各言語で人類に語れば済む話でしょう。

預言者とは何なのでしょうね。神はひそひそ話が好きなのでしょうか?人間以上に人見知りのご様子のようで(笑)
2015-05-18 月 17:24:03 | URL | ポンタ [編集]
Re: タイトルなし
> 桃栗さん、こんにちは。
>
> ゴールデンウィーク(GW)が始まりました。
> 僕の前に行っていた教会では、このGWに教会バザーを毎年催します。
>
> まず、月1回行われる役員会で審議にかけて、バザーの日付、時間などを決めて、了解がでれば壮年会、婦人会、青年会でまた細かく、どの担当を受け持つのかを話し合います。
>
> 基本は壮年会は、駐車場誘導や整理担当。
> 婦人会は料理、食事、会計担当。
> 青年会は、ゲーム、子供コーナー、オーディオ機器、パソコン機器担当にわかれていました。
>
> 僕は、役員会と青年会を受け持っていたので、とんでもなく忙しかったです。
> 日曜日は礼拝が終われば、翌日のバザー準備で、テント張り、チラシ作り、机やイス並べ、バザーに出す品物整理等々がありました。
>
> バザー当日も、朝7時あたりから最終準備に追われ、全部の片付けが終わるのは夕方の4時頃でした。
>
> これもそれも、伝道のため、教会の借金を少しでも早く完済するためだと、疑いもせずに邁進していました。
>
> しかし今となっては、全く無駄な努力だったと痛烈に思っています。

せっかくの休日をこんなくだらないことに費やしてしまってはたまりませんね。
どこが「安息日」なのでしょう。


> 今も、教会を離れたら天国に行けない(地獄に行く)という教え?に震えて、教会から離れられない人達が、せっせと奉仕をしているんでしょうね。

当時、私を信仰につなぎとめていたのもまさにこの心理によるものです。
教会に通うのが億劫だと感じる一方で、
教会から離れると自分は神から見放されると信じていました。
しかし、今、教会生活からは完全に足を洗い、このようなブログを書いている現在、
何も起きません。
結局、私は迷信におびえていたのと同じだったのです。
本当に無駄な生活でした。


> 教会堂も牧師も信徒も、1世紀以降に他の宗教とごちゃごちゃに混ざりあって誕生したものなんですがね。

まったくその通り。
クリスマスなどという聖書に記述のない他宗教のお祭りは盛大に祝うのに、
「過ぎ越しの祭り」という、イエスを含むヨセフ一家が毎年参加した大事なお祭りは、
どういうわけかクリスチャンは全く無視しています。
不思議ですね。
2015-06-06 土 01:46:04 | URL | 桃栗 [編集]
キリスト教の過越祭
桃栗さん、こんにちは。

ユダヤ教の春祭りが過ぎ越し祭、秋祭りが仮いお祭、ユダヤ教の二大祭です。過ぎ越しの祭りですが、キリスト教は、イースターを過ぎ越しの祭りと同じものだと言っています。

wikiの「過越」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E8%B6%8A から抜粋
--------------------------
キリスト教における預言的解釈
洗礼者ヨハネは民衆に対し、イエス・キリストのことを「世の罪を取り除く神の小羊」であると紹介した。これは「苦難の僕」(イザヤ書 52:13-53:12)のことであると解されている。そして、イエスが処刑されたのはニサン14日(過越の準備の日)であり、犠牲の羊はイエス・キリストであったとも説明されている(コリントの信徒への手紙1 5:7)。
--------------------------

ユダヤ教の過ぎ越し祭りは、エジプト時代のユダヤ人が、家の入口に子羊の血を塗って、神による虐殺から逃れることができた、(天使による殺戮行為から過ぎ越すことができた)ことの記念祭であるわけですが、イエス様の死と復活は、このことに該当する出来事だ、と主張しているわけです。わかりにくいですよね。キリスト教がこじつけだということの証明でしょう(笑。
2015-06-21 日 09:46:12 | URL | クッキングホイル [編集]
Re: キリスト教の過越祭
> 桃栗さん、こんにちは。
>
> ユダヤ教の春祭りが過ぎ越し祭、秋祭りが仮いお祭、ユダヤ教の二大祭です。過ぎ越しの祭りですが、キリスト教は、イースターを過ぎ越しの祭りと同じものだと言っています。
>
> wikiの「過越」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E8%B6%8A から抜粋
> --------------------------
> キリスト教における預言的解釈
> 洗礼者ヨハネは民衆に対し、イエス・キリストのことを「世の罪を取り除く神の小羊」であると紹介した。これは「苦難の僕」(イザヤ書 52:13-53:12)のことであると解されている。そして、イエスが処刑されたのはニサン14日(過越の準備の日)であり、犠牲の羊はイエス・キリストであったとも説明されている(コリントの信徒への手紙1 5:7)。
> --------------------------
>
> ユダヤ教の過ぎ越し祭りは、エジプト時代のユダヤ人が、家の入口に子羊の血を塗って、神による虐殺から逃れることができた、(天使による殺戮行為から過ぎ越すことができた)ことの記念祭であるわけですが、イエス様の死と復活は、このことに該当する出来事だ、と主張しているわけです。わかりにくいですよね。キリスト教がこじつけだということの証明でしょう(笑。

クッキングフォイルさん、こんにちは。
まさにこれこそ、クリスチャンは聖書の記述そのものを守るよりも、
自分達が作り上げた習慣を守る方が好きだということの証明ですね。
そりゃあ、玄関に子羊の血を塗るよりもゆで卵を食べる方が楽しいですからね(笑)。
正統派を自称するクリスチャンはは聖書に記述のない習慣ばかり守るくせに、、
「私達はエホバの証人とは違って聖書の聖句通りに信仰しています」と言い切りますから、
まったくおかしくって仕方がありません(笑)。
聖書の聖句通りに信じているなら、
過越しの祭りの時期には玄関に子羊の血を塗りましょう。
聖書にそう書いていますから。
2015-06-22 月 23:18:51 | URL | 桃栗 [編集]
サマーバイブルキャンプ
桃栗さん、こんにちは。

今年も暑い夏がやってきました。
私の苦い思い出は、教会のサマーバイブルキャンプでした。
同じ教団の各地方の教会が何十と集まり、民間のキャンプ場を借りて(教区保有のキャンプ場は維持管理が出来なくなり、売却したそうです)
音楽や説教を聴き、ゲームをしたり、海で泳いだり、
バーベキューをしたり、花火をしたりと、一見楽しそうに聞こえるこのサマーキャンプ。

ところがこれがとんでもなくめんどくさい行事でした。
まず音楽は、教会にふさわしい楽曲でなくてはいけないので、
何ヵ月も前から演奏する曲を青年会で決めて、
教区にお伺いをたてる。
GOサインが出ると、日曜礼拝後に練習。

サマーキャンプに行くぎりぎりまで楽曲練習を続けて、
当日を迎えます。サマーキャンプは、2泊3日で、
確か参加費用は1万7000円前後だったと記憶して
います。
勿論、信徒は全員自腹参加ですが、牧師は経済的に苦しい理由で、教団本部から、参加費用の何割かを援助してもらえる
システムでした。金銭面でもぬかりはありませんでした。
神に選ばれた器なので、大切しなければいけない
のだそうです。さすがですね(笑)
当然、サマーバイブルキャンプ中は、献金はありますので、
信徒にとっては、かなりの金銭面に負担がかかります。
十一献金は、金銭ではないはずなんですがね。
あれは確かイスラエル国家の税金だったはずですよね。
ユダヤ人でもない日本人が何故献金なの?
しかもここだけ旧約聖書を持ち出されても、正直納得いかないですよ。
新約聖書でイエスキリストが、全ての罪をあがなって十字架上で成就したはずですよね。
牧師には、都合のいいときだけ旧約、新約と渡り歩かないでもらいたいですね。

サマーキャンプでもきっちり階級制度は存在していました。
教区長→元教区長→キャンプリーダー(牧師)→各委員(牧師)→信徒リーダー(牧師の子供)→青年会信徒リーダー(牧師の子供)→賛美リーダー(牧師の子供)→平信徒

この配列は絶対的なもので、命令も絶対でした。
まぁ、軍隊みたいなものですね。

2泊3日という限られた空間で、音楽と説教を繰り返し聞かせて、信徒、あるいは子供たちに献身をうながす
サマーキャンプがとても気味が悪いです。
一人でも多く洗礼を受けさせることが、教区の評価に繋がりますからね。牧師になれば、神に選ばれた器になれることをことさら強調し、牧師に献身することを勧めるサマーキャンプ。
私にとってはトラウマです。

サマーキャンプに流れる階級制度から来る牧師の信徒を見下した態度も、今となってはなんて哀れな人達なんだろうと思います。

「サマーバイブルキャンプ」「牧師階級制度」勿論聖書にはありません。

2015-07-26 日 07:26:38 | URL | 重荷を負えなかった者 [編集]
Re: サマーバイブルキャンプ
> 桃栗さん、こんにちは。
>
> 今年も暑い夏がやってきました。
> 私の苦い思い出は、教会のサマーバイブルキャンプでした。

私もその手のサマーキャンプに参加したことが何度かありますよ。
キャンプのメインイベントは何と言ってもキャンプファイヤーです。
キャンプファイヤーで気分が高揚された雰囲気の中で、
何人かの青年たちが信仰体験を語ったり信仰告白をしたりしていましたが、
私は全くなんの気分の高揚もありませんでした。
そんな自分がすごく情けなかった記憶があります。

> 当然、サマーバイブルキャンプ中は、献金はありますので、
> 信徒にとっては、かなりの金銭面に負担がかかります。
> 十一献金は、金銭ではないはずなんですがね。
> あれは確かイスラエル国家の税金だったはずですよね。
> ユダヤ人でもない日本人が何故献金なの?
> しかもここだけ旧約聖書を持ち出されても、正直納得いかないですよ。
> 新約聖書でイエスキリストが、全ての罪をあがなって十字架上で成就したはずですよね。
> 牧師には、都合のいいときだけ旧約、新約と渡り歩かないでもらいたいですね。

まさにキリスト教の本性を突いたコメントですね。
キリスト教はその場の都合に合わせて旧約や新約の言葉を持ち出し、
自分達を正当化するために利用するものです。

> 2泊3日という限られた空間で、音楽と説教を繰り返し聞かせて、信徒、あるいは子供たちに献身をうながす
> サマーキャンプがとても気味が悪いです。
> 一人でも多く洗礼を受けさせることが、教区の評価に繋がりますからね。牧師になれば、神に選ばれた器になれることをことさら強調し、牧師に献身することを勧めるサマーキャンプ。
> 私にとってはトラウマです。

当時、目をキラキラ輝かせながら信仰体験を語る青年たちを見ても、
私には気分の高揚がありませんでした。
そんな私は、自分が不信仰であることに後ろめたさを感じていました。
しかし、今から考えると、あの青年たちの方が異常なのであって、
何も感じない私の感覚の方が普通だったんでしょうね。

> サマーキャンプに流れる階級制度から来る牧師の信徒を見下した態度も、今となってはなんて哀れな人達なんだろうと思います。
>
> 「サマーバイブルキャンプ」「牧師階級制度」勿論聖書にはありません。

クリスチャンは聖書に書かれていない習慣を守る一方で、
割礼や過越しの祭りなど、聖書に書かれている習慣を守らないのですから
本当におかしなものです。
貴重な体験談、どうもありがとうございました。
2015-07-31 金 23:19:32 | URL | 桃栗 [編集]
このブログを見つけて良かったです。
はじめまして、すずらんと申します。
キリスト教への疑問に苦しんで、ネットで検索してこちらを見つけました。
いくつか記事を拝見して、お便りしたくて居ても立ってもいられなくなりました。

私は元カトリック信者です。
大人になってからの信者です・・・といっても、高校生の時です。
これは子供か大人かどちらでしょうか・・・。

私が保育園に入るか入らないかくらいの頃に、同居の祖父が入浴中に急死しました。
さっきまで生きて動いて笑っていた祖父が、今はもう動かない、死ぬってどういうことだろう?
どうせ死ぬのになぜ生まれるの?
人はどこから来てどこへ行くの?
といったことを、悶々と考えるようになりました。

私が生まれ育った地域は浄土真宗が根付いていて、子供は小学生になると毎年夏休みに毎日のラジオ体操の後、お寺に集合してでお経を習う決まりになっていました。
私は住職の話を聞いたり、お経を唱えたりするのが大好きな子供でした。
小・中・高と、一貫して私は周りから浮いていました。
宗教的な思想や生活態度に傾倒していたので、まわりの無邪気な世俗感になじめませんでした。
どうして皆、あの世や魂や人生のことを考えずにいられるのだろう?と不思議でした。

小学校の高学年くらいに法事があって、住職が法話の中で毎日朝晩、南無阿弥陀仏を10回~20回唱えることを推奨しました。
その言葉が心に響いて、それから高校に進学するまで、一日も欠かさず朝晩念仏を唱えました。

高校生になって、祈るって何だろう、と思うようになりました。
〇〇がしたい、〇〇でありますように、という「お願い事」ならあるけど、「祈る」というのは「お願い」というのとは違う気がする、と。
それで、自分が何年も続けてきた毎日の念仏も、口先だけの空念仏に思えて。

高校の部活の顧問教師が私の目から見て尊敬できる素敵な人でした。
私もこういう大人になりたい、こういう女性になりたい、と思えるような。
その教師に自分が抱えている疑問を打ち明けてみたところ、その人がクリスチャンで、教会に行くことを勧められました。

早速日曜日に教会に行ったのですが、私は何も知識がなかったので、たまたまバス通りに看板が出ていて存在を知っていた教会に行ってみたらそこはカトリックでした。
教師に報告をすると、彼女はプロテスタントで、嫌な顔をされました。
そして、プロテスタントの教会に行き直すよう言われました。
その時は、そっか、宗教改革が起こったくらいだから、カトリックは悪い教会なのかもしれない、じゃあプロテスタントに行こう、と思っただけでした。

そんなわけで、プロテスタントの教会に通い、プロテスタントで洗礼を受けました。

成人後に、思うところあってカトリックに改宗しました。
通っていたプロテスタントの教会の、閉鎖的な結束が息苦しかったことと、月々の献金の金額が高額で厳しかったことなど、通うことが苦痛になって。
献金に関しては、6人の子持ちの牧師の生活を支えるために、信者は夏冬のボーナスを全額寄付していました。
牧師の子供たちの大学の費用も信者が出していて、私は疑問でした。
信者の献金で暮らすことが前提なら、子供を6人も作るのは遠慮がなさすぎると思いました。
ましてや、信者のお金で大学進学・・・お金を出している信者の子供の方がむしろ貧しい暮らしを強いられているのはおかしい。

その時、自分が最初に行った教会がカトリックだったこと、教師に話したら嫌な顔をされたことを思い出しました。
カトリックの教会にも行ってみて、自分の目で確かめよう、と思いました。

行ってみたら、私が行ったカトリック教会は、それまで通っていたプロテスタント教会に比べて、雰囲気がゆるいというか、おおらかというか、居心地が良かったのです。
信者数が千人を超える大きな教会で、そのせいか、月々信者が払う教会維持費も、ビックリするくらい安い。

カトリック教会で、公教要理というカトリック独自の教義を勉強し、堅信という秘跡を受けて、カトリック信者になりました。
公教要理を学んだ時は、子供の頃からの疑問に、やっと答えを得られたと喜びました。
とにかく教会が楽しくて、信仰生活が幸せいっぱいで、ものすごく熱心な信者でした。

で、熱心のあまり、修道院に入りました。
それが、分岐点となりました。
聖職者になるべく専門の勉強を始めたら、一般信者だった頃には見えなかった矛盾がいっぱい見えるようになったのです。
カトリック教会という巨大組織の矛盾、バチカンの矛盾、教義の矛盾・・・。

その疑問を、修練長(見習い修道者を指導する役職)にぶつけると、「あなた、その考えは異端ですよ!今すぐその考えを捨てなさい!」と一括される。
疑問に対して筋道立てて話してくれるということは一度もありませんでした。

あと、修道院では2週に1度、告解の秘蹟(いわゆる懺悔)を受ける決まりでした。
私が所属していた修道院は観想修道院といって、修道院の中に閉じこもって自給自足に近い暮らしをしながら、1日7回の決められた祈り(聖務日課という)とミサを捧げる、というところでした。
基本的に私語は禁止で、原則沈黙、必要なことは「手まね」という手話のようなもので連絡し合うという生活です。

まわりの修道女との個人的な会話もろくになく、割り振られた仕事を淡々とこなし、祈りに明け暮れる生活では、告解で神の赦しを請うほどの罪って、そもそも犯す機会がほとんどないんです。
信者時代はご復活とご降誕の、年2回+αくらいしか告解をしたことがなかったのに、2週に1回とは超ハイペースです。
でも、何もありませんとは言えない、だから、自分の生活と内面を振り返り、重箱の隅をほじるようにして何とかして過ちや至らなさを発掘するんです。
どうしてもネタがない時は、「良心の糾明を怠り、自分の過ちを見いだせないことをお許しください」と告解したこともあります。

こんな精神生活を数年続けて、すっかり習慣化してしまい、私は今でも、自分の内面を必要以上にほじくり返し、反省しすぎる癖があります。

また、月1回「知らせ合い」という集会があり、前回の知らせ合いからの1ヶ月間に、自分が犯した過ち(共同体に迷惑をかけたことなど)を、全員の前で告白し、跪いて許しを請うという時間が設けられてました。

この際、自己申告以外に、他者による告発も認められていて、他人の何かを見咎めていた人が、その人が告白しないと見るや、立ち上がって告発するわけです。
それがもう、世間の人でもここまで人を辛辣に非難することはないのでは?と思うほど、酷い。
まるで吊るし上げ。
これが修道者?神に仕える者?と目と耳を疑うほどでした。

心に疑問を抱えながらだと、やはり軋みが出るのでしょうか、体調を崩したのです。
その修道院は農作業など仕事がとても重労働で、症状としては過労だったのですが、モチベーションが切れてエネルギーを維持できなかったのかもしれません。

それで、特別休暇のような形で修道院を離れたのですが、結局、そのまま戻りませんでした。
修道院を正式にやめた後、元の教会に通い始めましたが、信者たちの態度が変わりました。
修道院をやめた信者=転びの信者=信仰が足りない、というわけです。
転んだ信者に用はない、関わりたくない、ということなのです。

教会の居心地が著しく悪くなり、だんだん足が遠のくのですが、病気や出張などやむを得ない場合以外、ミサを欠席することは大罪とされているのです。
大罪というのは、地獄直行の重罪のことです。
この教義が怖くて、教会に行かなくても平気になるまでに、2年以上かかりました。

あれから10年以上経ちますが、今でも、もし死んだときにカトリックの言っていた通りだった、なんてことになったらどうしよう、という恐れの気持ちが心の隅にあって、教会を否定したり、通っていない自分は、本当にこれで大丈夫なんだろうか?とんでもなく不遜なことをしているとしたら?と、怖くなる時があります。
その頻度はだんだん少なくなり、程度も弱まってきているとは思いますが、ゼロにはまだ遠い気もします。

あと、人間関係において、損害や危害をこうむっても、相手に対して怒りを表せなかったり、怒りを感じる自分が罪悪感で責められたり、というのは今でもあります。

どこまでも許せ、打たれるまま打たれ、奪われるままに与え、ひたすら耐えろと教えるよりも、自己中心的でわがままな要求にはNOと言っていいんだよ、上手なNOの言い方はこうだよ、と教えてくれた方が、よっぽどためになると思うのですけど。

生れた時からの信者じゃなくても、どっぷり信じ込んでこんなふうに洗脳に苦しむ人間はいるのです。。。

と、これが私の経緯です。
ブログを拝見して、思いがあふれてしまって、どうしても書きたくなりました。
今後も、少しずつ過去記事をたどって、自分自身の整理をします。
2015-08-07 金 14:17:50 | URL | すずらん [編集]
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015-10-01 木 10:47:33 | | [編集]
Re: このブログを見つけて良かったです。
> はじめまして、すずらんと申します。
> キリスト教への疑問に苦しんで、ネットで検索してこちらを見つけました。
> いくつか記事を拝見して、お便りしたくて居ても立ってもいられなくなりました。

レスが遅れてすみません。
コメントには目を通し、お気持ちが良く理解できました。
やはりプロテスタント信者はカトリックに否定的なんですよね。
どこが「隣人愛」なのでしょう。
また、カトリックにはカルト性があることも良く分かりました。
そして、特に気になったのはこの箇所です。

> 献金に関しては、6人の子持ちの牧師の生活を支えるために、信者は夏冬のボーナスを全額寄付していました。
> 牧師の子供たちの大学の費用も信者が出していて、私は疑問でした。
> 信者の献金で暮らすことが前提なら、子供を6人も作るのは遠慮がなさすぎると思いました。
> ましてや、信者のお金で大学進学・・・お金を出している信者の子供の方がむしろ貧しい暮らしを強いられているのはおかしい。

キリスト教の特色として、人から何かが与えられた場合、
クリスチャンはその人ではなく「神」に感謝する傾向があります。
「神よ、私に○○を与えて下さって感謝いたします」のように、
どういうわけか神に感謝するのです。
その教会の牧師さんも、ボーナスを寄付してくれた人に感謝するのではなく、
どうせ「神」に対して感謝の祈りをささげているのでしょうね。
私が通っていた教会でも似たような事例がありました。
献金が足りず、困っていたところに、ある人が高額の献金をしたのですが、
牧師さんは「神が与えて下さった、神は祈りを聞いて下さった」のように言っていました。
人に感謝するのが一般社会の常識ですよね。
なのに、キリスト教では神に感謝することが第一なのです。

>
> その時、自分が最初に行った教会がカトリックだったこと、教師に話したら嫌な顔をされたことを思い出しました。
> カトリックの教会にも行ってみて、自分の目で確かめよう、と思いました。
>
> 行ってみたら、私が行ったカトリック教会は、それまで通っていたプロテスタント教会に比べて、雰囲気がゆるいというか、おおらかというか、居心地が良かったのです。
> 信者数が千人を超える大きな教会で、そのせいか、月々信者が払う教会維持費も、ビックリするくらい安い。
>
> カトリック教会で、公教要理というカトリック独自の教義を勉強し、堅信という秘跡を受けて、カトリック信者になりました。
> 公教要理を学んだ時は、子供の頃からの疑問に、やっと答えを得られたと喜びました。
> とにかく教会が楽しくて、信仰生活が幸せいっぱいで、ものすごく熱心な信者でした。
>
> で、熱心のあまり、修道院に入りました。
> それが、分岐点となりました。
> 聖職者になるべく専門の勉強を始めたら、一般信者だった頃には見えなかった矛盾がいっぱい見えるようになったのです。
> カトリック教会という巨大組織の矛盾、バチカンの矛盾、教義の矛盾・・・。
>
> その疑問を、修練長(見習い修道者を指導する役職)にぶつけると、「あなた、その考えは異端ですよ!今すぐその考えを捨てなさい!」と一括される。
> 疑問に対して筋道立てて話してくれるということは一度もありませんでした。

このブログに来るクリスチャンも同じですね。
私の疑問に理論的に答えようとせず、
「聖書を読めばわかる」「教会に行って牧師さんに聞けば分かる」
のようにはぐらかすのがお約束です。

> あと、修道院では2週に1度、告解の秘蹟(いわゆる懺悔)を受ける決まりでした。
> 私が所属していた修道院は観想修道院といって、修道院の中に閉じこもって自給自足に近い暮らしをしながら、1日7回の決められた祈り(聖務日課という)とミサを捧げる、というところでした。
> 基本的に私語は禁止で、原則沈黙、必要なことは「手まね」という手話のようなもので連絡し合うという生活です。
>
> まわりの修道女との個人的な会話もろくになく、割り振られた仕事を淡々とこなし、祈りに明け暮れる生活では、告解で神の赦しを請うほどの罪って、そもそも犯す機会がほとんどないんです。
> 信者時代はご復活とご降誕の、年2回+αくらいしか告解をしたことがなかったのに、2週に1回とは超ハイペースです。
> でも、何もありませんとは言えない、だから、自分の生活と内面を振り返り、重箱の隅をほじるようにして何とかして過ちや至らなさを発掘するんです。
> どうしてもネタがない時は、「良心の糾明を怠り、自分の過ちを見いだせないことをお許しください」と告解したこともあります。
>
> こんな精神生活を数年続けて、すっかり習慣化してしまい、私は今でも、自分の内面を必要以上にほじくり返し、反省しすぎる癖があります。

私のクリスチャン時代も似たようなことがあり、今も引きずっています。
いつも自分に対して自信がなく、自分を否定してしまう癖が抜けません。
そのせいで社会の中でも損ばかりしています。

> どこまでも許せ、打たれるまま打たれ、奪われるままに与え、ひたすら耐えろと教えるよりも、自己中心的でわがままな要求にはNOと言っていいんだよ、上手なNOの言い方はこうだよ、と教えてくれた方が、よっぽどためになると思うのですけど。

普通の子供は、成長過程において「処世術」
つまり、世の中を上手く生きていく術を身に着けていくものです。
多くの仲間と友情をはぐくみ、時には傷付けたり傷つけられたりしながら、
人付き合いのノウハウを身に着けていくものです。
ところがキリスト教の狭い世界に生まれ育った私は、
どこまで耐えればいいのか、どこまで人にきつく言っていいのか、
どこまで反論していいのか、どこまで批判していいのかなど、
それをうまく「加減」する能力が欠けているように思えてなりません。

> 生れた時からの信者じゃなくても、どっぷり信じ込んでこんなふうに洗脳に苦しむ人間はいるのです。。。
>
> と、これが私の経緯です。
> ブログを拝見して、思いがあふれてしまって、どうしても書きたくなりました。
> 今後も、少しずつ過去記事をたどって、自分自身の整理をします。

個々の事項へのレスは割愛させていただきましたが、
カトリックのカルト性が良く分かりました。
表向きにはきれいな顔をしているのに、内部はカルトそのものですね。
こんな宗教が伝統的キリスト教を名乗り、
エホバの証人や統一教会などを異端だとして批判しているのですから
滑稽でなりませんね。
2015-12-09 水 23:39:39 | URL | 桃栗 [編集]
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2015-12-19 土 02:54:54 | | [編集]
クリスチャンやめました
桃栗さん
こんにちは

クリスチャンをやめようかと考えていたときこのブログに出会いました

私は教会学校からのクリスチャンでした

家はクリスチャンホームではなかったのですが、仲の良い友達の家がクリスチャンホームで誘われていったのがきっかけです

小学校2年生の時でした

もともと真面目な私は毎週日曜日来てねと言われたら、そういうものなんだ~とおもって通っていました

夏休みも教会は休みじゃないと聞いて欠かさず通っていました

そしてだんだんと教会の教えに染まっていきました・・・

偶像礼拝は罪=初詣、お墓参りはダメ
占いは罪
人を悪く言ってはいけない
嘘をついたことがない人~?って質問されてないって答えたらそれが嘘をついたことになるっていうカラクリ(-_-;)
人を裁いてはいけない
小嘘(小さい嘘)もいけない、どんな小さい嘘も罪
イエス様によらなければ天国に行けない
再臨がある
ハルマゲドンがある
献金は収入の10分の1(アナニヤとサッピラの話など)

中二のときに疑問をもちいちど教会をやめようとしたことがありました

なぜ2000年前のイエス様の十字架が今の私たちの罪のためなんだろう?
クリスチャンでなかったおじいちゃんは地獄にいったのか?

それを伝道師の先生に話すと

「鉛筆をよこにみたら芯のところから終わりのところまでは遠いけど
縦にみてごらん 一つの面しか見えないよね?救いもそういうものだよ」
と説明され

「おじいちゃんのことは神さまにしかわからない ただ福音を聞いたのに受け入れなかった人の場合地獄にいく」
とういうようなことを言われました

そのときに私は福音を聞いてしまったのだから教会をやめたら地獄にいくのかな・・・
それなら聞かなければよかったし、聞かないで一生過ごした人の方が楽しく人生を送れるのじゃないかと考え、そう考えてる自分は不信仰なんだと思ったことを思いだします

中三で洗礼を受けてからはますます教会の教えに洗脳されていきました

家がクリスチャンホームでないので

「あんたは変わってるね」
とか
「深入りしたらだめだよ」
とういう家族の忠告も聞かず

「悪口はだめ!お酒も飲みません!神社もお墓参りも偶像礼拝!」
と自分の家族からも孤立していました

友人関係でもしんどい思いをして過ごしていました

当時は気づきませんでしたが、
明らかに教会学校に行き始めた小学校2年生からいろんなことに悩む内向性な性格に変わっていました

それは自分のせいだと思っていましたが

精神的縛りがそのような状態にしていたのだといまははっきりとわかります

何をするにも
これは罪かなあれは罪かな?結婚相手はクリスチャンかそうでなければ
信仰を理解してクリスチャンになってくれる人を祈りなさいと言われたり・・・

本当に普通の日本人に戻りたいと心から思いました

桃栗さんのブログを読ませていただいて本当に感謝しています

このブログを読んで
聖書がすべて正しいのではないということもわかりました
以前から心に蓋をしていたキリスト教の矛盾もはっきりと認識できました

これからの人生
教会学校に行く前の本当の自分に戻って生きていこうと思います


2015-12-27 日 12:33:35 | URL | さくら [編集]
49. この画像を見ると
神社にはお金がない人は拒否されるんですね。
キリスト教の教会とは違うようです。
himeyuri2016-01-01 00:58:02

http://ameblo.jp/minshushugi/entry-12111828689.html#cboxより。
2016-01-01 金 22:39:54 | URL | 名前を入れてください [編集]
Re: クリスチャンやめました
> 桃栗さん
> こんにちは
>
> クリスチャンをやめようかと考えていたときこのブログに出会いました
>
> 私は教会学校からのクリスチャンでした

こんにちは。
まるで自分のことのようにそのお気持ちが本当に良く分かります。


> そしてだんだんと教会の教えに染まっていきました・・・
>
> 偶像礼拝は罪=初詣、お墓参りはダメ
> 占いは罪
> 人を悪く言ってはいけない
> 嘘をついたことがない人~?って質問されてないって答えたらそれが嘘をついたことになるっていうカラクリ(-_-;)
> 人を裁いてはいけない
> 小嘘(小さい嘘)もいけない、どんな小さい嘘も罪
> イエス様によらなければ天国に行けない
> 再臨がある
> ハルマゲドンがある
> 献金は収入の10分の1(アナニヤとサッピラの話など)

私が教会で頭の刷りこまれたのもまさにこれです。
今から考えれば、教会学校の先生方はかなり話を誇張して教えていたと思います。
大人は、子供に分かりやすくするために大げさに話していたのかもしれません。
しかし、私は大人の言うことを文字通り受け止めていたと思います。
大人は「そういうつもりで教えたんじゃない」と言っても、
物事の判断力の備わっていない子供は「そのまま」信じてしまうのです。
そういう子供の心理をもっと考慮すべきです。

> 中二のときに疑問をもちいちど教会をやめようとしたことがありました
>
> なぜ2000年前のイエス様の十字架が今の私たちの罪のためなんだろう?
> クリスチャンでなかったおじいちゃんは地獄にいったのか?
>
> それを伝道師の先生に話すと
>
> 「鉛筆をよこにみたら芯のところから終わりのところまでは遠いけど
> 縦にみてごらん 一つの面しか見えないよね?救いもそういうものだよ」
> と説明され

まさにクリスチャンがよくやる、相手を「煙に巻く」というやつですね。
相手に理解不能な難解な説明をしてそれで答えたつもりになっているのです。

> 「おじいちゃんのことは神さまにしかわからない ただ福音を聞いたのに受け入れなかった人の場合地獄にいく」
> とういうようなことを言われました

これ、遠回しに「おじいちゃんは地獄に行った」と言っているのです。
ストレートに言えないものだから遠回しに言っているのです。


> 何をするにも
> これは罪かなあれは罪かな?結婚相手はクリスチャンかそうでなければ
> 信仰を理解してクリスチャンになってくれる人を祈りなさいと言われたり・・・

そのお気持ち本当に良く分かります。
私も、常に「神の視線」というものを意識して生活せざるを得ませんでした。
何をするにも、何を考えるにも、
これは罪だろうか? 神はどう思っておられるのだろうか? など、
とにかく心がいつも神に監視されている気分でした。

> 本当に普通の日本人に戻りたいと心から思いました
>
> 桃栗さんのブログを読ませていただいて本当に感謝しています
>
> このブログを読んで
> 聖書がすべて正しいのではないということもわかりました
> 以前から心に蓋をしていたキリスト教の矛盾もはっきりと認識できました
>
> これからの人生
> 教会学校に行く前の本当の自分に戻って生きていこうと思います

私も、ブログで自分の気持ちを吐き出しながらリハビリしたいと思います。

2016-01-10 日 22:29:09 | URL | 桃栗 [編集]
ありがとうございました
桃栗さん
お忙しいなかコメントの返信ありがとうございました

今本当に思うことは
大事な小中高、そして青年期を精神的縛りの多いキリスト教にかかわったために失ったものは大きかったということです

いつも品行方正に生きなきゃいけない
クリスチャンとしての証にならないなどと考えていました

普通の子どもはそんなことに悩まないのに(笑)

罪とか不信仰とか
礼拝を守るために犠牲にしてきたものははかりしれません

今、私のいってた教会では
海外宣教に力を入れはじめました

私たちはキリストの兵士だから
兵士は安全な日本にいてはいけないそうです

宣教って洗脳のように思います

キリスト教の神は愛の衣を着ていますが、
本質は妬む神、恐ろしい神です

自分以外のものをあがめている人は天国に入れてくれない
そして殺しても良いと許可をだす神です

神は愛ということばに惑わされてるのがクリスチャンだと思います
2016-01-16 土 08:52:45 | URL | さくら [編集]
Re: ありがとうございました
> 桃栗さん
> お忙しいなかコメントの返信ありがとうございました
>
> 今本当に思うことは
> 大事な小中高、そして青年期を精神的縛りの多いキリスト教にかかわったために失ったものは大きかったということです

> いつも品行方正に生きなきゃいけない
> クリスチャンとしての証にならないなどと考えていました
>
> 普通の子どもはそんなことに悩まないのに(笑)
>
> 罪とか不信仰とか
> 礼拝を守るために犠牲にしてきたものははかりしれません

私も全く同感です。
大切な青春を奪われたと思っています。
自分はいつも神に見られていて、
いつも行儀良くしていなければならないような気分でした。
キリスト教という特殊な環境に育ったがために、
普通の子供が身に付けるべきことを私は身に付けられなかった気がします。
普通の子供なら悩まないことに悩んでいたと思います。
本当に無駄なエネルギーを使ったと思います。

> 今、私のいってた教会では
> 海外宣教に力を入れはじめました
>
> 私たちはキリストの兵士だから
> 兵士は安全な日本にいてはいけないそうです
>
> 宣教って洗脳のように思います
>
> キリスト教の神は愛の衣を着ていますが、
> 本質は妬む神、恐ろしい神です

キリスト教は人々を支配するために罪の意識を植え付け、
人々を教会につなぎとめる宗教です。
クリスチャンにとっての神とは、クリスチャン自身なのです。
みな自分が神になったつもりで発言し、非信者を見下しているのです。
人を裁いているのは神ではなくクリスチャン自身です。

> 自分以外のものをあがめている人は天国に入れてくれない
> そして殺しても良いと許可をだす神です
>
> 神は愛ということばに惑わされてるのがクリスチャンだと思います

クリスチャンはあまりにもみだりに「愛」という言葉を口にしすぎです。
2016-01-19 火 22:21:59 | URL | 桃栗 [編集]
ゲストブック2015年版は締め切りました。
今後は2016年版にお書きください。
2016-03-06 日 23:41:31 | URL | 桃栗 [編集]
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