■プロフィール

桃栗

Author:桃栗
このブログでのコメントは承認制です。原則として、書き込まれた順に承認・公開していきますが、承認までお時間をいただきます。★コメントへの返事は割愛させていただく場合がありますが★、寄せられたコメントはすべて目を通しています。初めての方はカテゴリーの中の自己紹介をお読みください。記事に直接関係のないご意見・ご感想・批判・賛同などはゲストブックへお願いします。多忙時は一時的にコメントの書き込みを制限する旨をお知らせすることがありますのでご了承ください。

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
便利な便利な聖書検索
言うまでもなく、聖書はキリスト教の経典ですから、
クリスチャンがキリスト教について説くときには、
もちろん聖書の言葉を引用します。
そして、私も、キリスト教を批判する根拠として、
聖書の言葉を引用させていただいております。
しかし、私は聖書を実はちゃんと読んでいません。
では、どうやってその聖句を引用したのかと言いますと、
それはずばりネット上の聖書検索です。
私が専ら使うのは日本聖書協会のこのサイトで、
新共同訳と口語訳から検索できます。
・聖書本文検索
しかも、どちらか一方の訳で検索しても、
検索結果の画面では、他方の訳と比較できるため、
非常に使いやすくて重宝しています。
ちなみに、新改訳と文語訳の検索サイトもあります。
・新改訳(新日本聖書刊行会)
・文語訳検索


さて、この聖書検索サイト、クリスチャンだけではなく、
キリスト教否定派の私にも大変便利なツールです。
何と言ってもピンポイントでその言葉が含まれる聖句が見つかりますから。
これにより、皮肉なことに聖書やキリスト教の矛盾点がいとも簡単に見つけられます。

例えば、三位一体。
神とイエスと聖霊という三つの異なる存在(三位)が一つに合わさって作用している(一体)、
だから、神が3人いても「一体」なのだからキリスト教は「一神教」である、
という、なんともややこしくてこじつけがましいあの教義です。
聖書のどこにも「三位一体」などという言葉はありません。

次に、「天国」で検索してみましょう。
キリストを信じる者は死後、天国に行けるということになっていますが、
もし天国が本当に存在するなら、旧約聖書にも記されているはずですよね。
ところが旧約聖書にはどこにも「天国」という言葉はありません。
口語訳では、マタイによる福音書にだけしか登場しません。
新共同訳ではまったくヒットしません。
しかし、新共同訳の該当箇所は「天の国」という、
外国語を無理やり訳したような言葉になっています。

逆に「地獄」で検索するとどうでしょうか?
やはり新共同訳、口語訳共に、旧約聖書には登場せず、
新約聖書にのみ記されています。
文語訳、新改訳の該当箇所は「ゲヘナ」となっています。
ウィキペディアによれば、ゲヘナとはエルサレムの城門の外にあるゴミ焼却場のことで、
処刑者などやましい死に方をした人が埋葬される場所でもあったとのこと。
つまり、「現実のこの世に実在する場所」のことなのです。
それを、新共同訳、口語訳ではわざわざ「地獄」と翻訳し、
死後、神に裁かれて苦しみを受ける場所として教会では教えられているのです。
これこそまさに洗脳、マインドコントロールです。
私がクリスチャン時代に死後の恐怖を持っていたのは、
当時使っていた口語訳聖書のせいかもしれません。
いわゆる正統派キリスト教は、エホバの証人の新世界訳聖書を
「自分達に都合よく訳した改ざん聖書」として完全否定していますが。
自称正統派聖書だって、「ゲヘナ」を「地獄」と改ざんしているではありませんか。
わざわざ信者の恐怖心を煽るために改ざんしたとしか思えません。
なお、エホバの証人の新世界訳ではではちゃんとゲヘナと訳されています。

今度は「アダム」で検索してみましょう。
キリスト教では、最初の人類であるアダムがエデンの園で罪を犯したがために、
その後生まれた全人類が罪びとになったということになっていますが、
イエスの口からアダムの名前が出た箇所は一つもありません。
イエスの生涯を直接記したとされる4つの福音書の中では、
アダムの名が登場するのはルカによる福音書3章の、
イエスの家系図が書かれているただ1箇所だけです。
アダムの罪のために全人類に罪が入ったという教えは、
実はパウロが書いた書簡に由来するのです。
これがキリスト教が「パウロ教」と揶揄される理由の一つです。

ところで、キリスト教の重要な儀式の一つに「洗礼」があります。
キリスト教では、この儀式を受けた人が、晴れてクリスチャンと呼ばれるのです。
そんなに重要な儀式なら、旧約聖書にも記されているはずなのに、
なぜか旧約聖書には登場せず、突如として新約に現れているのです。
なお、新共同訳では「洗礼」、口語訳、新改訳、文語訳では「バプテスマ」となっています。

と、長々と書き連ねてしまいましたが、
とにかく聖書検索をすると次々と新しい発見があって面白いです。
多くの人が聖書に親しめるように作られたはずの聖書検索サイト、
皮肉なことにキリスト教否定派にとっても便利な便利なツールです。
これからも思う存分活用させていただきます。
スポンサーサイト

テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

未分類 | 21:17:18 | トラックバック(0) | コメント(21)
コメント
確かにそのとおりですね
桃栗さん、こんにちは。

かなりに前に投稿した「重荷を負えなかった者」と申します。
プロテスタントの教会に何年間か行ってた者です。(今となってはどうでもよいので、正確な年数は覚えていません)

少し違うかもしれませんが、聖書には
違った翻訳の方法で世の中に出回っているものがたくさんあります。

例えば、「信徒」です。
これは、ギリシャ語ではラオスと言って、ギリシャ語の意味は「神の民」です。
ところが翻訳されたとたんに、「信徒」となり、まるで先生と生徒の関係、ヒエラルキー制度みたいな関係になります。どうしてこうなるのか不思議で仕方がありません。

また、「教会」はギリシャ語で「エクレーシア」といい、意味は「集められた者、集合体」です。歴史上に建物の意味で使われたことは一度もありません。
なのに何故教会は、教会堂、礼拝堂があるのでしょう。まして牧師館など論外ですよ。

「牧師」も先生という意味ではなく、「羊飼いの牧者」という意味です。だから、毎月信徒なる者から月定献金、他の膨大な献金から給料を捻出し、その金銭を貰いながら生活していた者など、3世紀まで存在しなかったです。ちなみに給料ではなく(謝儀)という言葉を使ってましたね。私が過去行っていた教会は。

この3つが違うと、今のキリスト教会、キリスト教界は絶対に成り立ちません。
だから、これからも違う意味で翻訳され続けます。
まぁ、正確に翻訳されても、牧師や教会サイドがほんとのことを教えないと思いますけどね。

あ、因みに洗礼は確かに「使徒行伝」で、
いわゆる信徒が洗礼を授けていましたよね。あの記事はかなり面白かったですね。
あれ?洗礼て牧師先生じゃなきゃ授けちゃいけないのに、どうして?しかも教会堂でも、礼拝堂でもないところで洗礼してる。
馬車に乗ってる人に近づいて、どうこうだったかな?
2014-09-26 金 21:03:19 | URL | 重荷を負えなかった者 [編集]
御苦労様です
宗教というのは神様と自分との一対一の関係であって、他人がどうこう言うことではないと思うんですが。限られた時間を精一杯生きるため、自分の弱さ至らなさに、絶望した時に、あぁ、キリストも同じように悩んだんだなあと思うと不思議と元気が出てくるものなんですよ。知らず知らずに他人を傷つけてしまっ時は、十字架のそばでヤジをとばした人と変わらないと思い唖然としたり。人間の弱さと孤独を知り、自分の命さえ投げ出してくれたんだから、きっと見捨てないよね。どんな事があっても信頼して信じ続けるよ。それがキリスト教の極意だと思ってます。祈りはお願いではなく、自分の存在そのものを受け入れてくれる神への返答なんだそうです。
2014-09-28 日 04:06:55 | URL | しゅう [編集]
何度もすいません
自分はカトリック寄りの人間ですが、聖書に全て書いてあるとは思いませんし、聖書に書いて無いからダメとも思いません。神様は人間の弱さを知っていて自分は決して見捨てられないというのを大前提にして、聖書を解釈するもんだと思ってます。赤ちゃんに固いものを食べさせないように、神様は人それぞれに分かりやすいように教えているので字面に囚われずに、時代背景、文化、その人の置かれた立場、性格を考慮して、結局何を伝えたいのか?今の時代、自分にとってはどう解釈するべきか?を考えながら読むべきだと思います。自分には理解出来ない部分は無視しても全然構わないし、所詮不完全な人間には神様の思いは完全に理解出来ないんだし。他の人がおかしいと思うのなら反面教師にして自分ならこう思う!こうする!でいいですし、要は自分はどうするか?なんだと思います。巷では一神教は答えが一つしか無いからダメだとか言いますが、そうではなく究極の理想に向かって試行錯誤する、みんなで意見を出し合う。それが一神教なんだと思ってます。所詮人間は不完全なんですから間違って当たり前、挫折して当たり前、分からなくて当たり前、ゴールに辿り着かなくて当たり前なんです。一度新約聖書を最初から読んで見てはいかがですか?受け入れられない所もあるでしょうが、その中で一つでもいいなと思える所があったらそれでいいのではないですか?読まないよりはいい、やらないよりはいい。それで充分だと思う。別に研究者になる訳ではないんですから。
2014-09-29 月 07:33:59 | URL | しゅう [編集]
Re: 確かにそのとおりですね
> 桃栗さん、こんにちは。
>
> かなりに前に投稿した「重荷を負えなかった者」と申します。
> プロテスタントの教会に何年間か行ってた者です。(今となってはどうでもよいので、正確な年数は覚えていません)
>
> 少し違うかもしれませんが、聖書には
> 違った翻訳の方法で世の中に出回っているものがたくさんあります。
>
> 例えば、「信徒」です。
> これは、ギリシャ語ではラオスと言って、ギリシャ語の意味は「神の民」です。
> ところが翻訳されたとたんに、「信徒」となり、まるで先生と生徒の関係、ヒエラルキー制度みたいな関係になります。どうしてこうなるのか不思議で仕方がありません。

こんにちは。
実は、私は聖書はあまり読んでいません。
このブログを書くに当たって、
自分で聖書を読んでネタ探しをすることはあまりありません。
大抵は、ふと思い出したこと、ふと気づいたこと、
ふと思いついたことを元にして記事を書いていますので、
聖書の中の取り扱う箇所が偏っていると思います。
(まあ、教会の礼拝で取り扱う箇所も偏っていますが)

確かに、聖書の訳についてはいろいろと問題があることは知っています。
日本聖書協会の新共同訳聖書の序文には、
聖書を完璧に翻訳することは不可能だという主旨のことが書かれています。
つまり、世界のクリスチャンたちは不完全な翻訳の聖書を読み、
それをもとに信仰していることになるわけですから、
様々な解釈が生まれ、様々な宗派に分裂するのは当然の結果です。


> また、「教会」はギリシャ語で「エクレーシア」といい、意味は「集められた者、集合体」です。歴史上に建物の意味で使われたことは一度もありません。
> なのに何故教会は、教会堂、礼拝堂があるのでしょう。まして牧師館など論外ですよ。
>
> 「牧師」も先生という意味ではなく、「羊飼いの牧者」という意味です。だから、毎月信徒なる者から月定献金、他の膨大な献金から給料を捻出し、その金銭を貰いながら生活していた者など、3世紀まで存在しなかったです。ちなみに給料ではなく(謝儀)という言葉を使ってましたね。私が過去行っていた教会は。
>
> この3つが違うと、今のキリスト教会、キリスト教界は絶対に成り立ちません。
> だから、これからも違う意味で翻訳され続けます。
> まぁ、正確に翻訳されても、牧師や教会サイドがほんとのことを教えないと思いますけどね。

その通りですね。
現に、教会では聖書の中の都合の悪い箇所は教えませんからね。
2014-10-01 水 22:02:36 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 御苦労様です
> 宗教というのは神様と自分との一対一の関係であって、他人がどうこう言うことではないと思うんですが。

それなら、どうこう言わないで下さい。
2014-10-03 金 21:28:28 | URL | 桃栗 [編集]
嫌よ嫌よも好きのうち
寂しいんでしょ。居場所が欲しいんでしょ。認めて欲しいんでしょ。キリスト教を否定することで気分が晴れてブログという居場所が見つかったんならそれも救いかもしれません。モーセもダビデもみな不平不満をぶつけてますし。詩篇なんかはそのさいたるものですし。本当に嫌いなら関わらなければいいのに何年も前から「キリスト教は…」あるい意味貴方はいつも神様とともにいるのでは?嫌よ嫌よも好きのうち!
2014-10-04 土 01:39:52 | URL | しゅう [編集]
Re: 何度もすいません
> 自分はカトリック寄りの人間ですが、聖書に全て書いてあるとは思いませんし、聖書に書いて無いからダメとも思いません。神様は人間の弱さを知っていて自分は決して見捨てられないというのを大前提にして、聖書を解釈するもんだと思ってます。赤ちゃんに固いものを食べさせないように、神様は人それぞれに分かりやすいように教えているので字面に囚われずに、時代背景、文化、その人の置かれた立場、性格を考慮して、結局何を伝えたいのか?今の時代、自分にとってはどう解釈するべきか?を考えながら読むべきだと思います。自分には理解出来ない部分は無視しても全然構わないし、所詮不完全な人間には神様の思いは完全に理解出来ないんだし。他の人がおかしいと思うのなら反面教師にして自分ならこう思う!こうする!でいいですし、要は自分はどうするか?なんだと思います。

そういうのを口から出まかせと言うんですよ。
人それぞれ解釈が違ってもいいという発言をしておきながら、
エホバの証人のように考え方が違う人たちを異端だとして非難しますよね。

> 巷では一神教は答えが一つしか無いからダメだとか言いますが、そうではなく究極の理想に向かって試行錯誤する、みんなで意見を出し合う。それが一神教なんだと思ってます。

しかし、みんなで意見を出し合って一致したことがあるのでしょうか。
一致しないから世界中に様々な宗派が存在するのではないですか?

> 所詮人間は不完全なんですから間違って当たり前、挫折して当たり前、分からなくて当たり前、ゴールに辿り着かなくて当たり前なんです。

間違って当たり前なら、
私のような人間がいたって別にいいではないですか。


> 一度新約聖書を最初から読んで見てはいかがですか?受け入れられない所もあるでしょうが、その中で一つでもいいなと思える所があったらそれでいいのではないですか?読まないよりはいい、やらないよりはいい。それで充分だと思う。別に研究者になる訳ではないんですから。

口からの出まかせ、どうもありがとうございました。
2014-10-06 月 22:24:19 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 嫌よ嫌よも好きのうち
> 寂しいんでしょ。居場所が欲しいんでしょ。認めて欲しいんでしょ。キリスト教を否定することで気分が晴れてブログという居場所が見つかったんならそれも救いかもしれません。

今更何を鬼の首を取ったように言っているのでしょうか?
貴方に言われなくても私は自分から何度も認めています。
9月21日もそういう主旨の発言をしています。
http://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-183.html#comment3070

他に、日ごろのストレスがこのブログを書く原動力になっているとか、
気が済むまでブログを書き続けるというような発言もしていますので、
ご自身でおお探しください。

> モーセもダビデもみな不平不満をぶつけてますし。詩篇なんかはそのさいたるものですし。本当に嫌いなら関わらなければいいのに何年も前から「キリスト教は…」あるい意味貴方はいつも神様とともにいるのでは?嫌よ嫌よも好きのうち!

あなたも寂しくて私に構ってもらいたいんでしょう?
2014-10-10 金 00:14:28 | URL | 桃栗 [編集]
しゅうさんのコメント、やな感じ…

クリスチャンて、なんで、離れた人を見下すんだろうね。
クリスチャンではない人のことも見下してるけど…

byキリスト教棄教者。
2014-10-10 金 17:23:39 | URL | のりこ [編集]
便利なものできましたね・・・
その昔、聖書データベースなるものがあったんですが、とても高価で手が出ませんでした。

桃栗さんは聖書よく知ってると思いますよ。
少なくとも現役クリスチャンの私よりは(笑)
2014-10-11 土 19:48:46 | URL | ペンテコスちゃん [編集]
Re: タイトルなし
> しゅうさんのコメント、やな感じ…
>
> クリスチャンて、なんで、離れた人を見下すんだろうね。
> クリスチャンではない人のことも見下してるけど…
>
> byキリスト教棄教者。

ほんと、やな感じですね。
まさに上から目線です。
イエスは傲慢になるなと言っているのに。
2014-10-18 土 21:21:44 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 便利なものできましたね・・・
> その昔、聖書データベースなるものがあったんですが、とても高価で手が出ませんでした。
>
> 桃栗さんは聖書よく知ってると思いますよ。
> 少なくとも現役クリスチャンの私よりは(笑)

信仰している人よりも、信仰していない人の方が、
聖書の矛盾に気付くものです。
信仰している人は先入観を持っていますから、
型にはまった解釈しかできません。
しかし、私が信仰を捨てたら、様々な角度から聖書が見られるようになりました。
聖書を読むたびに、違う意味で新しい発見がありますね。
2014-10-18 土 21:33:58 | URL | 桃栗 [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014-10-18 土 22:01:09 | | [編集]
アダムの原罪とイエス。
>キリスト教では、最初の人類であるアダムがエデンの園で罪を犯したがために、
>その後生まれた全人類が罪びとになったということになっていますが、
>イエスの口からアダムの名前が出た箇所は一つもありません。

知っての通り、そのアダムの罪とは
「神が食べるのを禁じた『善悪を知る木の実』を食べてしまったこと」
ですが、それと明らかに矛盾することをイエス自身が語っているんですよね。

>外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、
>人を汚すのである。」 (マルコによる福音書 第7章 第15節 新共同訳)

>イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から
>人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
>それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。
>こうして、すべての食べ物は清められる。」 (同 第7章 第18~19節 新共同訳)

その場にいた人たちは
「貴方はそう言うが、実際にはアダムとエバは、神から禁じられた木の実を食べたために
 目が開いたではないか。神はその様を見て大いに怒り、二人を楽園から追放したではないか。
 貴方もアダムたちのように、神の怒りを買いたいのか。」
と言えば、イエスを論破できたのに、誰一人そうはしませんでした。

これこそ
「アダムの原罪を重要視する考えはパウロによって作られたものであり、
 イエス自身も、当時のユダヤ教徒も、アダムの原罪など全然重要視していなかった。」
という何よりの証拠ですよね?
2014-10-19 日 10:07:14 | URL | ササキエル。 [編集]
真善美の探究
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。



《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。



《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


2014-10-24 金 15:48:56 | URL | 阿頼耶 [編集]
Re: アダムの原罪とイエス。
> >キリスト教では、最初の人類であるアダムがエデンの園で罪を犯したがために、
> >その後生まれた全人類が罪びとになったということになっていますが、
> >イエスの口からアダムの名前が出た箇所は一つもありません。
>
> 知っての通り、そのアダムの罪とは
> 「神が食べるのを禁じた『善悪を知る木の実』を食べてしまったこと」
> ですが、それと明らかに矛盾することをイエス自身が語っているんですよね。
>
> >外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、
> >人を汚すのである。」 (マルコによる福音書 第7章 第15節 新共同訳)
>
> >イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から
> >人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
> >それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。
> >こうして、すべての食べ物は清められる。」 (同 第7章 第18~19節 新共同訳)
>
> その場にいた人たちは
> 「貴方はそう言うが、実際にはアダムとエバは、神から禁じられた木の実を食べたために
>  目が開いたではないか。神はその様を見て大いに怒り、二人を楽園から追放したではないか。
>  貴方もアダムたちのように、神の怒りを買いたいのか。」
> と言えば、イエスを論破できたのに、誰一人そうはしませんでした。

> これこそ
> 「アダムの原罪を重要視する考えはパウロによって作られたものであり、
>  イエス自身も、当時のユダヤ教徒も、アダムの原罪など全然重要視していなかった。」
> という何よりの証拠ですよね?

鋭い突っ込み、有難う御座います。
記事にも書いた通り、私はくまなく聖書を読んでいるわけではありませんので、
このようなコメントは非常にありがたいですね。
また一つ新しい発見がありました。
こういう矛盾をクリスチャンにぶつけたらどんな言い訳をするのか見ものですね。
ほんと、聖書って読めば読むほど新しい発見があって
別の意味で面白い書物です。
2014-10-25 土 21:58:22 | URL | 桃栗 [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014-10-26 日 11:34:31 | | [編集]
父と子と牧師の三位一体
お久しぶりです。
前にも書いたかと思いますが、三位一体説の根拠とされるのは、ヨハネ断章です。これは、他の部分と語彙・文体も異なり、古い写本には全く異なることが書いてあるそうです。

さて、私の知人のアメリカ人のゲイは、子供の時、実父と牧師に同時に性的虐待をされました。一人に掘られながら、もう一人に口の中に入れられて、「父と子と牧師の三位一体」になっていたのでした。成人してからは男娼(掘られ役専門)になり、壮年になって売れなくなってからは、金を貯めてはタイに行って美少年に掘ってもらっているそうです。
彼に言わせると、「掘る方は安いけれど、掘られる方は高い。」のだそうです。私はゲイではないので、その真偽はわかりませんが、いずれにせよ、彼はキリスト教の犠牲者です。
2014-12-06 土 09:39:19 | URL | 巨大虎猫 [編集]
>天国
キリスト教だと「神の国」じゃありません?
このワードを入れて検索するといっぱい出てくるみたいですが
2014-12-08 月 18:29:48 | URL | 名前を入れてください [編集]
Re: 父と子と牧師の三位一体
> お久しぶりです。
> 前にも書いたかと思いますが、三位一体説の根拠とされるのは、ヨハネ断章です。これは、他の部分と語彙・文体も異なり、古い写本には全く異なることが書いてあるそうです。

印刷技術が発明されるまでは聖書は手書きで伝承されていましたから、
どこで手違いや改ざんがあるか分かりませんね。
正統派を名乗るキリスト教では、
「聖書は原典において誤りがない」と信じられていますが、
原典など存在しないのによくそんなことが言えるものだと思います。

それに、正統派聖書とされている文語訳、口語訳、新改訳、新共同訳だけを見ても、
ずいぶんと訳に違いがありますね。
これでは何を信じてよいか分かりませんね。
2015-01-04 日 19:20:14 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> >天国
> キリスト教だと「神の国」じゃありません?
> このワードを入れて検索するといっぱい出てくるみたいですが

ええ、知っていますよ。
字数の関係でそれについては触れませんでした。
別の機会に取り上げます。
タイトルは「天国はどんなところ?」になる予定ですのでお楽しみに。

2015-01-04 日 19:45:10 | URL | 桃栗 [編集]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad