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桃栗

Author:桃栗
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「キリスト教はご利益宗教ではない」は本当か? その2
しばらくブログの更新が滞っていましたが、久しぶりに更新したいと思います。
今年の3月に、「キリスト教はご利益宗教ではない」は本当か?のタイトルで記事を書きました。
今回は、キリスト教もご利益宗教に過ぎないということを実例を挙げて紹介したいと思います。


4年前の2010年10月に、
大阪で開催された関西フランクリン・グラハム フェスティバルに行ってきました。
詳しくは当時のブログに書いていますので探してみてください。

私が行った日のゲストの一人に、ベー・チェチョルという韓国のテノール歌手がいました。
彼は2005年に甲状腺がんになり、手術を受け、声を失ってしまったとのこと。
そして、神に祈り続けていると、神の力によって病は癒され、
再び歌手として活動を再開することができたそうです。
もう、これは典型的なご利益宗教以外の何物でもありませんね。

もう一人のゲストに、阪神タイガースのマット・マートン選手がいました。
彼も、日本の球界で大成功をおさめたのは、
イエス様のおかげだと誇らしげに語っていました。

このように、神やキリストを信じれば良いことが起こるかのように伝道するこの手法、
そんじょそこらの新興宗教とどう違うのでしょうか。
と、このように書くと、クリスチャンの皆さんはこんな風に反論しますよね。

「それは正しいキリスト教ではない」
「それは正しい伝道ではない」

クリスチャンは、キリスト教が世界中に広がり、
仲間がたくさんいることを誇らしげに語るのに、
いざ自分達に何か都合の悪いことがあると、
このように、あたかも他人事のように批判し、自分達との関係を否定したがります。
いくら反論したって無駄ですよ。
キリスト教はこのようにご利益があるかのように伝道されているのが現状です。
素直に認めませんか?

別の例をあげましょう。
北朝鮮拉致被害者の横田めぐみさんのお母様はクリスチャンなのだそうです。
実際に、教会でお祈りする姿がマスコミで紹介されていました。
結局、これも娘さんの早期発見を神に願っているわけですよね。
そして、もしも娘さんが発見されて日本へ無事帰ってきたとしましょう。
すると、その教会は必ず、娘さんが発見されたことは神のおかげだとして、
キリスト教の伝道のネタにするのは間違いありません。
そう思うと、私はめぐみさんの発見を素直に願えなくなってしまいました。

「キリスト教 ご利益」などのキーワードで検索すると、
とにかくキリスト教は御利益宗教ではないと主張するクリスチャンのなんと多いこと。
神にご利益を求めないのなら、
自分の願いが叶っても、神に感謝する必要はないはずですよね。
しかし、普段はご利益宗教ではないと言っていながら、
いざ願いが叶うと、それこそ全知全能の神のおかげだ、
ほら、神様はこうやってちゃんと祈りを聞いているのですよ、
神様にはできないことは何一つないのです、などと、
誇らしげに神の恵みについて説きたがるのです。
そういうクリスチャンの姿が滑稽でなりません。

素直にご利益宗教だということを認めましょうよ。
「主の恵み」「神の祝福」「キリストの愛」などともっともらしく言いますけど、
ただ言葉の表現が違うだけで、
求めているのは「ご利益」とまったく同じです。
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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

キリスト教一般の疑問 | 22:08:37 | トラックバック(0) | コメント(30)
コメント
横田早紀江
横田めぐみの母、横田早紀江は、娘、めぐみの失踪後に洗礼を受けたようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E6%97%A9%E7%B4%80%E6%B1%9F

酷いことを言うようですが、娘の代金として献金を払うから、返してくれよ、というつもりで洗礼を受けたというようにしか思えないですよね。しかも、娘の失踪で落ち込んでいたときに、「ヨブ記」を読むように進められて、読んでみたところ感銘を受けた、というのですから、どうやらちょっと頭に隙間があるのではないかと疑われます。

キリスト教徒だというのであれば、もうこの世では諦めます、となぜ言えないのでしょうか。キリスト教を理解していれうのであれば、この世でひどい目に合えばあうほど、神の慰めは手厚いはずだと理解するはずです。死ねば天国で親子仲良く過ごすことができるはずなのではないのでしょうか。この世の苦しみは神のめぐみであると理解するはずなのに、実際はそのように考えることはできないようですね。

一体何のために毎週教会へ行って説教を聞くのでしょうかね。バカ牧師のたわごと聞きながら居眠りすると気持ちがいいから、とかだったりして(笑。
2014-09-18 木 22:47:23 | URL | クッキングホイル [編集]
ご利益宗教です。
お試し期間を設けて、自分でやってみればいいんです。

得したら続ければいいんです。
損したらやめればいいんです。
それだけのことですよ。
2014-09-19 金 00:49:44 | URL | 上から目線 [編集]
Re: 横田早紀江
> 横田めぐみの母、横田早紀江は、娘、めぐみの失踪後に洗礼を受けたようです。
>
> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E6%97%A9%E7%B4%80%E6%B1%9F
>
> 酷いことを言うようですが、娘の代金として献金を払うから、返してくれよ、というつもりで洗礼を受けたというようにしか思えないですよね。しかも、娘の失踪で落ち込んでいたときに、「ヨブ記」を読むように進められて、読んでみたところ感銘を受けた、というのですから、どうやらちょっと頭に隙間があるのではないかと疑われます。

> キリスト教徒だというのであれば、もうこの世では諦めます、となぜ言えないのでしょうか。キリスト教を理解していれうのであれば、この世でひどい目に合えばあうほど、神の慰めは手厚いはずだと理解するはずです。死ねば天国で親子仲良く過ごすことができるはずなのではないのでしょうか。この世の苦しみは神のめぐみであると理解するはずなのに、実際はそのように考えることはできないようですね。
>
> 一体何のために毎週教会へ行って説教を聞くのでしょうかね。バカ牧師のたわごと聞きながら居眠りすると気持ちがいいから、とかだったりして(笑。

結局、人間は「困った時の神頼み」なんですよね。
それでもクリスチャンは世間の宗教を「ご利益宗教」だとして見下し、
あくまでもキリスト教だけが特別だと主張する。
本当に排他的な宗教です。
ところで、横田夫人の旦那さんはクリスチャンではないようですが、
間違ってもキリスト教に入信しないで欲しいですね。
2014-09-19 金 23:36:34 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> ご利益宗教です。
> お試し期間を設けて、自分でやってみればいいんです。
>
> 得したら続ければいいんです。
> 損したらやめればいいんです。
> それだけのことですよ。

ところが、キリスト教では人が神から離れることは大きな罪だと教えます。
そして罪を犯す者は神の罰を受けると洗脳されます。
そうして、人を教会から離れられなくさせてしまいます。
私が長い間信仰を捨てられなかったのは、
まさにこの教えが頭の中にあったからでした。
私はその「呪縛」から解放されるまでずいぶんと年月を無駄にしました。
2014-09-19 金 23:39:20 | URL | 桃栗 [編集]
私はプロテスタントです。いろいろ検索しているうち、こちらのブログにたどり着き読ませていただいた者です。
キリスト教は、神様にご利益を求めるという意味においては当然ご利益宗教です。しかし、困った時にお賽銭やお参りをしてご利益を願うという意味では、全くそれらの宗教とは違います。なぜならご利益(キリスト教では「恵み」にあたるでしょうか)はすでにあるからです。恵みはすでに神様から与えられているのです。
しかし与えられることと、得られることとは別です。私たちが神様を信じようが信じまいが、祈ろうが祈るまいが、私たちのことをよくご存じですから、必要なものは全て与えようとされているのです。
たくさん祈った人や献金をたくさんささげた人、たくさん善い行いをした人が、恵みをたくさん受けるのではないのです。
全てを神様にささげ、委ねること。これができるようになりたいと、全てのクリスチャンは思っているはずです。でもなかなかできないのです。人間は弱いですから。でも聖書には「頑張れ」という言葉は一言も出てきません、残念ながら。全編にわたり、信じよ、委ねよ、従え、なのです。
2014-09-20 土 10:18:28 | URL | 名前を入れてください [編集]
もしかしたら、桃栗さんの通われた教会は律法主義的な傾向が強かったのかもしれません。
教会の様子、かなりガチガチな印象を受けるんですが…

この点については教会によってある程度の温度差があるので、クリスチャンホームに育っても桃栗さんほどの苦悩を味わわない人もいるんです。

でも育った環境からして、自分の教会を他と比較することができず、自分の行ってる教会がキリスト教そのものだと思いこんでしまった(子供時代だからしかたないですが)のが良くなかったのかもしれませんね。
今みたいにインターネットもありませんし・・・
2014-09-20 土 11:14:49 | URL | 上から目線 [編集]
Re: タイトルなし
皆さん、またまた典型的なクリスチャンの反応がありました。
つまり、一見、私の記事に同意しているかのように見せかけ、
結局は言い訳をタラタラと並べて私の主張を否定するというもの。
では、ご覧いただきましょう。

> キリスト教は、神様にご利益を求めるという意味においては当然ご利益宗教です。

このように、一見、私の記事を認めるかのように発言していますが、
その後、「しかし」という接続詞と共に長々と言い訳が続きます。

> しかし、困った時にお賽銭やお参りをしてご利益を願うという意味では、全くそれらの宗教とは違います。なぜならご利益(キリスト教では「恵み」にあたるでしょうか)はすでにあるからです。恵みはすでに神様から与えられているのです。

では、すでに与えられているのなら、わざわざ求める必要はありませんよね。
クリスチャンは信仰に何も求めないのでしょうか?
つまらない信仰生活ですね。
では、この言葉と矛盾しませんか?

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。マタイによる福音書/ 07章 07節」

この言葉こそ、キリスト教がご利益宗教であることの証明です。

> しかし与えられることと、得られることとは別です。私たちが神様を信じようが信じまいが、祈ろうが祈るまいが、私たちのことをよくご存じですから、必要なものは全て与えようとされているのです。

では、横田めぐみさんは、必要でないから神は与えて(救出して)下さらないのですね。
どうぞお母様の前でそうおっしゃってください。
東日本大震災では多くの方々が被災し、家族、知人、友人を失いました。
必要でないから神は奪われたのですね。
どうぞ被災者の前でそうおっしゃってください。

> たくさん祈った人や献金をたくさんささげた人、たくさん善い行いをした人が、恵みをたくさん受けるのではないのです。

では、献金しても、善い行いをしても無意味だということですね。
それだったら私は何もしないことにします。

> 全てを神様にささげ、委ねること。これができるようになりたいと、全てのクリスチャンは思っているはずです。でもなかなかできないのです。人間は弱いですから。でも聖書には「頑張れ」という言葉は一言も出てきません、残念ながら。全編にわたり、信じよ、委ねよ、従え、なのです。

残念ながら、教会では聖書に書いていないことを教えたがるものです。
すなわち(頑張って)信じよ、(頑張って)委ねよ、(頑張って)従え、なのです。
それより、少しぐらい記事の内容についてコメントしてくださってもよろしいのではないでしょうか?
結局、記事の内容には反論する自信がないから、
そうやって関係ない話を長々と並べて反論できた気分になっているだけです。
2014-09-20 土 12:18:46 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> もしかしたら、桃栗さんの通われた教会は律法主義的な傾向が強かったのかもしれません。
> 教会の様子、かなりガチガチな印象を受けるんですが…

> この点については教会によってある程度の温度差があるので、クリスチャンホームに育っても桃栗さんほどの苦悩を味わわない人もいるんです。

これは私の性格に大きな原因があると思います。
私は小さい頃は大人の言うことを何でも素直に、
悪く言うと「真に受ける」性格だったと思います。
大人が言った軽い冗談を、真に受けて深刻に悩んだりもしました。
今から考えれば、子供を対象にした「日曜学校」は
大人が子供を洗脳する格好の場だったと思います。
先生たちは、子供の関心を引き付けるために、
聖書の話を大げさにして子供に教えていたと思います。
価値観を判断する能力が身に付いていない私は、
そういう話をフィルターなしに信じ込んでいたようです。
今から考えると、なんとバカな子供だったんだろうと思います。

> でも育った環境からして、自分の教会を他と比較することができず、自分の行ってる教会がキリスト教そのものだと思いこんでしまった(子供時代だからしかたないですが)のが良くなかったのかもしれませんね。
> 今みたいにインターネットもありませんし・・・

その通りですね。
当時はインターネットなどという便利なものはありませんでしたから、
自分が見ている世界がすべてだと思っていました。
しかし、ネットを始めてから、世の中がキリスト教をどう思っているかが分かり、
私のキリスト教離れが一気に加速しました。
2014-09-20 土 12:27:54 | URL | 桃栗 [編集]
先ほど投稿したプロテスタントのものです。ごめんなさい。名前を入れるのを忘れてしまいました。「タカ」としてください。
いろいろとありがとうございます。記事についても触れたいところなのですが、できないのです。なぜなら分からないからです。横田さんのことも、東北の震災のことも。
教会でも震災の時にはもちろん議論がありました。「主よ、なぜ!」というわけですね。被災された方の中には、私などより余程信仰深い方もおられたでしょう。でもその方々は被災され、亡くなり、私は生きている。結論は出ないのです、なぜこんなことが起きるのか。「今回の震災は神様は関係ない」とか「神様なんかいない」という人さえいました。でも私は神様が関係していないことは何一つないと思っています。特に自然災害においては。神様の罰という人もいましたが、それも違います。神様は罰など与えません。罰は全てイエス・キリストが受けてくださっています。キリストの十字架によって全て赦されれているのですから。
じゃあ、なぜ?と問われても解らない。ですから被災者のために祈ることしかできない。横田さんについても同じです。私たちにできるのは、主の慰めと導きを祈り、「イエス様はこういう方」と微力ながら伝えていき、共に祈る方たちが増えるように用いてくださいとお願いすることだけなのです。解らないと言って逃げるな、とおっしゃるかも知れませんね。お役に立てず申し訳ないと思っています。
ですのでこれで失礼します。ただ、最後にご利益宗教という点についてだけ述べさせてください。
やはり、「ご利益」と「恵み」は違います。ご利益の定義が今一つはっきり解らないのですが、例えば神社にお参りに行ったり、お布施や賽銭をあげたりお守りを持ったりしなければ与えられないものが「ご利益」であるなら、明らかに「ご利益」と「恵み」は違います。「恵み」は一方的に神様から与えられるものです。日々、恵みは与え続けられています。それを得るために私たちがすることはキリストを信じ、受け入れること、それだけです。私たちの「行い」や「努力」に対して与えられるならば、それは「報酬」です。「恵み」ではありません。「ご利益」とは「報酬」に近いのかな、と思います。(引用された「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・」という「求める」という行為は、神の国と神の義を求めよ、ということだと思います。しかも努力して求めるのではなく、聖霊の導きによって求めることです。)
これらのことから、キリスト教はやはりご利益宗教では無いと考えます。(と言いますか、私たちはキリスト教を信じているのではなく、キリストを信じているのです。ダメな私を、そのまま愛してくださるイエス様を信じています)
それと献金をされないこと、全くの自由だと思います。ただ、お金も含めて今私たちが持っているものは全て、神様のものであり神様からの恵みであるということもまた事実です。
このブログが主に祝福され、豊かに用いられますように。
2014-09-20 土 14:34:16 | URL | タカ [編集]
桃栗さんはご自分の性格を問題視しておられるようだけど、要するに真面目、感受性が強い、素直、ということだからどれも長所ですよ。
だから劣等感を持つ必要などなく、むしろ自信持ってほしいです。
そして子供とは本来そうあるべきものですが、最近はそうでない子供が増えてきたから世の中おかしくなってきたと私は考えています。
2014-09-20 土 15:19:44 | URL | 上から目線 [編集]
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2014-09-20 土 22:50:35 | | [編集]
「キリスト教はご利益宗教じゃない」という言葉、私も、教会で耳にしていました。
そのうちの一つを挙げてみましょう。
その教会の近くには地蔵が置かれており、近所のお年寄りが、お花などをお供えしに来る。
そしてその人達が時折「そちら様も、たまには、お地蔵様のお世話などお願いしますね」と牧師等に言ってくる。それが気に入らない、というような話。
牧師の妻が「クリスチャンである私たちが、なぜ地蔵の手入れをしなければならないのか。それに、キリスト教は、彼等のするようにご利益宗教ではない。」と言った。
近所の人からすれば、恐らく、同じ地域の住民として、親しみを込め、悪気などなしに言ったことでしょう。それを「ご利益宗教と一緒にされてたまるものか」とでも言いたげな反応。
そんな言葉を、周りのクリスチャンも、牧師も、当たり前のことのように聞いていました。
地域に馴染めない、いや、馴染む気のない、教会の在り方。
地域どころか、日本にも、「この世」という名の付けられた社会にも馴染む気のない在り方を、感じてしまいました…
2014-09-21 日 15:21:10 | URL | まめ [編集]
Re: タイトルなし
> じゃあ、なぜ?と問われても解らない。ですから被災者のために祈ることしかできない。横田さんについても同じです。私たちにできるのは、主の慰めと導きを祈り、「イエス様はこういう方」と微力ながら伝えていき、共に祈る方たちが増えるように用いてくださいとお願いすることだけなのです。

結局、神様にお願いしているではありませんか。

> ただ、最後にご利益宗教という点についてだけ述べさせてください。
> やはり、「ご利益」と「恵み」は違います。ご利益の定義が今一つはっきり解らないのですが、例えば神社にお参りに行ったり、お布施や賽銭をあげたりお守りを持ったりしなければ与えられないものが「ご利益」であるなら、明らかに「ご利益」と「恵み」は違います。「恵み」は一方的に神様から与えられるものです。

ですからね、クリスチャンは病気になったり悩み事があったら、
その「恵み」を求めて神に祈りますよね?
言葉の表現が違うだけです。

> (引用された「求めなさい。そうすれば、与えられる。・・・」という「求める」という行為は、神の国と神の義を求めよ、ということだと思います。しかも努力して求めるのではなく、聖霊の導きによって求めることです。)

ですから、結局は「求める宗教」なのでしょう?

> これらのことから、キリスト教はやはりご利益宗教では無いと考えます。

いくらあなたが否定しても、
無意識に「願う」「求める」という言葉が出てくるのですから、
キリスト教は紛れもなくご利益宗教です。
素直に認めてください。
2014-09-21 日 22:01:52 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 桃栗さんはご自分の性格を問題視しておられるようだけど、要するに真面目、感受性が強い、素直、ということだからどれも長所ですよ。
> だから劣等感を持つ必要などなく、むしろ自信持ってほしいです。
> そして子供とは本来そうあるべきものですが、最近はそうでない子供が増えてきたから世の中おかしくなってきたと私は考えています。

私の個性をほめてくれる人がいたら、
どんなに私の人生は違っていただろうかと思います。
私は親に否定され続け、学校でも担任から「ダメな子」のレッテルを貼られ、
友人にも恵まれず、自分で自分を否定しながら生きてきたように思えます。
そんなわけで、実社会では自分をうまく表現できず、
ストレスが溜まってしまいます。
このブログが自分を表現できる場所ですね。
2014-09-21 日 22:08:00 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 違いますよ
> 賽銭は願いを叶えてもらうための対価じゃないですよ。
>
> 寺社という聖域に立ち入るに当たって、俗世の『厄』を金銭に託して祓うための儀式です。賽銭箱に『浄財』と書いてあるのを御存知でしょうか?厄を祓うための金銭なので、『浄財』なんです。
>
> 金額の多寡で御利益が決まると思って多額の寄付をする人がいますが、ああいう人こそが厄まみれ、と言えますね。

よくぞ言ってくださいました。
クリスチャンは、他宗教はあくまでも低俗なご利益宗教であり、
キリスト教だけが高貴で特別という意識がやはり強いようですね。
2014-09-21 日 22:54:04 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> たくさん祈った人や献金をたくさんささげた人、たくさん善い行いをした人が、恵みをたくさん受けるのではないのです。

それでは、イエスがこんなことを言っているのは「大ウソだった」ということですね。

> 「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、
> 貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。
> それから、わたしに従いなさい。」(ルカによる福音書 18章23節 新共同訳)

>イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、
>両親、子供を捨てた者はだれでも、 この世ではその何倍もの報いを受け、
>後の世では永遠の命を受ける。」(ルカによる福音書 18章29~30節 新共同訳)

この大ウソを真に受けて「全財産も家庭も捨てなければいけないのか?」と真剣に悩んだ人々や、
実際に上記の言葉通りにして、苦しんで飢え死にしたり家庭を滅茶苦茶にしてしまった人々に対し、
イエスはどう責任を取ってくれるのでしょうか。
2014-09-22 月 04:48:45 | URL | ササキエル。 [編集]
Re: タイトルなし
> 「キリスト教はご利益宗教じゃない」という言葉、私も、教会で耳にしていました。
> そのうちの一つを挙げてみましょう。
> その教会の近くには地蔵が置かれており、近所のお年寄りが、お花などをお供えしに来る。

結局、キリスト教もやっていることは同じなのですよね。
礼拝堂の前には大きな十字架を飾り、
礼拝の時には花束をお供えして大きなロウソクを灯す。
聖書にそのようにしろとでも書かれているのでしょうか。
結局、やってることは日本古来の風習と同じですね。
モーセの十戒(出エジプト記20章)には

あなたはいかなる像も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

と書かれているというのに。


> そしてその人達が時折「そちら様も、たまには、お地蔵様のお世話などお願いしますね」と牧師等に言ってくる。それが気に入らない、というような話。
> 牧師の妻が「クリスチャンである私たちが、なぜ地蔵の手入れをしなければならないのか。それに、キリスト教は、彼等のするようにご利益宗教ではない。」と言った。
> 近所の人からすれば、恐らく、同じ地域の住民として、親しみを込め、悪気などなしに言ったことでしょう。それを「ご利益宗教と一緒にされてたまるものか」とでも言いたげな反応。
> そんな言葉を、周りのクリスチャンも、牧師も、当たり前のことのように聞いていました。
> 地域に馴染めない、いや、馴染む気のない、教会の在り方。
> 地域どころか、日本にも、「この世」という名の付けられた社会にも馴染む気のない在り方を、感じてしまいました…

やはりクリスチャンには特権階級気取りの人が多いようですね。
日本の文化が低俗に見えてしまうのでしょう。
2014-09-22 月 22:52:44 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 恵み
タカという名前で「霊験あらたか」を連想しましたが
人々の祈りに応えて神様(超自然的存在)が力を振るい、祝福が際立っていると言うならご利益でしょう。

> 「ご利益」と「恵み」は違います。「恵み」は一方的に神様から与えられ....

要するに対価なしに自分達だけ恵みが得られるということですか。
一切の努力もなく、委ねるだけ、、、うまい話ですね。
しかし新約聖書を降らせたのはローマ皇帝です。(397年カルタゴ会議)

■イエス死後の地震 
イエスが大声を出して息を引き取ると、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。(マルコ15:37-38)
「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」(マタイ27:51-)

(*マタイ伝のみの加筆)
イワシの頭を祀って「主の恵みが降る!」と言うのは自由ですよ。
しかし実態は迷信と錯覚を奉じ、バカのたわ言を述べているだけの場合があります。自力を捨てて霊験ばかり得られる甘い話には注意が必要です。
2014-09-23 火 00:33:25 | URL | 土屋秀和 [編集]
Re: Re: タイトルなし
> > たくさん祈った人や献金をたくさんささげた人、たくさん善い行いをした人が、恵みをたくさん受けるのではないのです。
>
> それでは、イエスがこんなことを言っているのは「大ウソだった」ということですね。
> ↓
> > 「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、
> > 貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。
> > それから、わたしに従いなさい。」(ルカによる福音書 18章23節 新共同訳)
>
> >イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、
> >両親、子供を捨てた者はだれでも、 この世ではその何倍もの報いを受け、
> >後の世では永遠の命を受ける。」(ルカによる福音書 18章29~30節 新共同訳)
>
> この大ウソを真に受けて「全財産も家庭も捨てなければいけないのか?」と真剣に悩んだ人々や、
> 実際に上記の言葉通りにして、苦しんで飢え死にしたり家庭を滅茶苦茶にしてしまった人々に対し、
> イエスはどう責任を取ってくれるのでしょうか。

クリスチャンは宗派、その人、その時によって言うことが違うんですよ。
しかも、それぞれが自分が思っていることが「真理」だと思っている。
信者の数だけ「真理」がある宗教です。
なぜキリスト教はそういう傾向が強いか?
それは、神の名のものとに何でも正当化できる宗教だからです。

2014-09-25 木 22:42:28 | URL | 桃栗 [編集]
Re: Re: 恵み
> タカという名前で「霊験あらたか」を連想しましたが
> 人々の祈りに応えて神様(超自然的存在)が力を振るい、祝福が際立っていると言うならご利益でしょう。
>
> > 「ご利益」と「恵み」は違います。「恵み」は一方的に神様から与えられ....
>
> 要するに対価なしに自分達だけ恵みが得られるということですか。
> 一切の努力もなく、委ねるだけ、、、うまい話ですね。
> しかし新約聖書を降らせたのはローマ皇帝です。(397年カルタゴ会議)
>
> ■イエス死後の地震 
> イエスが大声を出して息を引き取ると、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。(マルコ15:37-38)
> 「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」(マタイ27:51-)

まるでゾンビみたいなお話ですね。
生き返った人たちはどこへ行ったのでしょう。
クリスチャンは聖書に書かれていることは実話だと言っておきながら、
死者が大量に蘇った話に触れたがりません。

> (*マタイ伝のみの加筆)
> イワシの頭を祀って「主の恵みが降る!」と言うのは自由ですよ。
> しかし実態は迷信と錯覚を奉じ、バカのたわ言を述べているだけの場合があります。自力を捨てて霊験ばかり得られる甘い話には注意が必要です。

結局、日本人に合っている宗教との付き合い方は、
お墓参りや初詣など、生活の節目で習慣的に付き合うことかもしれません。
2014-09-25 木 22:48:42 | URL | 桃栗 [編集]
タカさんの言うこと、典型的なキリスト教徒ですね。
形だけ、上辺だけ、綺麗に取り繕った言葉。
その一方で中身はお節介、上から目線、不自然、偽善、詭弁。中身がない。
牧師を代表とした、あのキリスト教徒の独特の話し方はいったい?
あの表面の無個性さが、胡散臭さをより感じさせる。表面の下に隠れる恨みや怒り、ドロドロしたものは、非キリスト教徒より酷いものであることが多いのに。
非キリスト教徒は、人を嫌いになったとして、正直にそれを認める。キリスト教徒は、人を嫌っていることや自分が偽善的で他人には不気味に映っていること等、聖書に反することは認めようとしないことが多い。
とても不自然である。
日本人は本来、偽善を善とは見なさない民族だと思う。何事もなかったかのように、良いことを行う、それが日本人が善とするものだと思う。
2014-09-26 金 09:07:39 | URL | 名前を入れてください [編集]
Re: タイトルなし
> タカさんの言うこと、典型的なキリスト教徒ですね。

> 非キリスト教徒は、人を嫌いになったとして、正直にそれを認める。キリスト教徒は、人を嫌っていることや自分が偽善的で他人には不気味に映っていること等、聖書に反することは認めようとしないことが多い。

まさにこれなんですよね。
クリスチャンは、なぜか神に対しては自らの罪をこれでもかというほど認めるのに、
人間に対しては認めようとしない傾向があります。
そして、人に謝らなくても、神に謝る(懺悔する)と
罪が赦されて帳消しになると思っているアッパレな人たちです。

> 日本人は本来、偽善を善とは見なさない民族だと思う。何事もなかったかのように、良いことを行う、それが日本人が善とするものだと思う。

イエスもそういうことを言っています。
善い行いとは、人に見せびらかすためにするものではない、
という内容のことをマタイ6章で言っていますね。
あのイエスの言葉を読んでみると、
クリスチャンはイエスの教えとは逆のことばかりしているように見えます。
2014-09-30 火 21:37:30 | URL | 桃栗 [編集]
以前、福音的教会に行っていた者です。
クリスチャンの最大の御利益は天国へ行ける(と信じている)ことではないでしょうか。
で、ノンクリスチャンは皆地獄へ落とされるということも信じているわけです。周囲の人の大部分が、地獄へ行って永遠の炎で焼かれる苦しみを受けるのを信じながら、自分らだけは天国へ行くことを喜び、神様をほめたたえるのがクリスチャン。(だからこそ伝道すると言っていますが)
イスラム国過激派とそう変わらないんじゃないの?
2015-02-08 日 16:39:50 | URL | motokuri [編集]
Re: タイトルなし
> 以前、福音的教会に行っていた者です。
> クリスチャンの最大の御利益は天国へ行ける(と信じている)ことではないでしょうか。

全くその通りです。
「救い」「神の恵み」などと言葉を変えて言いますが、
要するに「ご利益」とまったく同じです。

> で、ノンクリスチャンは皆地獄へ落とされるということも信じているわけです。周囲の人の大部分が、地獄へ行って永遠の炎で焼かれる苦しみを受けるのを信じながら、自分らだけは天国へ行くことを喜び、神様をほめたたえるのがクリスチャン。(だからこそ伝道すると言っていますが)

全く同意です。
私も同じ考えを持っていて、
以前、別館に記事を書きました。
http://ameblo.jp/antichristian/entry-11564631333.html

> イスラム国過激派とそう変わらないんじゃないの?

イスラム教以上にキリスト教はタチが悪いです。
今でこそキリスト教は愛の宗教を装っていますが、
かつての蛮行はイスラム教の比ではありません。
2015-02-16 月 22:19:45 | URL | 桃栗 [編集]
桃栗さん初めまして。私は元信者です。
キリスト教は、どんな悪人や凶悪犯罪者であっても信じた人は
皆さん死んだら天国に行けると説くのですから、
普通の日本人の感覚で言うとありがたい御利益宗教ですよね。

一般的に御利益という言葉にネガティブな意味はないと思いますが、
何故かキリスト教ではこの御利益という言葉に無理矢理ネガティブな意味を込めて他宗教との差別化を図り、
キリスト教は他の低俗な御利益宗教とは違う、
と一方的で独善的な優越感に勝手に浸っているだけの気がします。

しかも逆に、キリスト教を信じない非信者は、
例えどんなに真面目に生きようが、世のため人のため尽くした人者であっても、
炎と硫黄の地獄に行って永遠に苦しまなければいけない、という
キリスト教はかなり偏った御利益宗教です。
2015-06-29 月 18:19:27 | URL | 途中下車 [編集]
Re: タイトルなし
> 桃栗さん初めまして。私は元信者です。
> キリスト教は、どんな悪人や凶悪犯罪者であっても信じた人は
> 皆さん死んだら天国に行けると説くのですから、
> 普通の日本人の感覚で言うとありがたい御利益宗教ですよね。

まったくその通りですよ。
天国で「永遠の命」がもらえるわけですから、
まさに史上最強のご利益宗教にほかなりません。

> 一般的に御利益という言葉にネガティブな意味はないと思いますが、
> 何故かキリスト教ではこの御利益という言葉に無理矢理ネガティブな意味を込めて他宗教との差別化を図り、
> キリスト教は他の低俗な御利益宗教とは違う、
> と一方的で独善的な優越感に勝手に浸っているだけの気がします。

まるで私が書いたかと思うほど同感です。
キリスト教では、「ご利益」と言う代わりに「救い」「恵み」のような表現をやたらに好み、
いかにも「ウチらはそんじょそこらの低俗な宗教とは違いますよ~」
と、他の宗教との差別化を図っているとしか思えません。

> しかも逆に、キリスト教を信じない非信者は、
> 例えどんなに真面目に生きようが、世のため人のため尽くした人者であっても、
> 炎と硫黄の地獄に行って永遠に苦しまなければいけない、という
> キリスト教はかなり偏った御利益宗教です。

全くその通りです。
人を殺しても交通事故を起こしても、
加害者は心から罪を悔い改めれば罪が赦されて天国に行ける一方、
キリストを信じていない被害者は罪を背負ったまま地獄に行くのですから、
本当に偏ったご利益宗教です。
讃美歌のアメイジング・グレイスなんか、その典型ですね。
http://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-132.html
奴隷船の船長が改心して牧師になったことは
「美談」としてクリスチャンの間で語り継がれるのに、
神を信じることなく死んでいった黒人奴隷のことは全く語ろうとしません。
本当に、「自分達さえよければ」な宗教です。
2015-07-12 日 22:11:44 | URL | 桃栗 [編集]
利己的な祈りと真の祈り
真のキリスト者(キリスト教徒と違う?)が主イエスの御前にあって祈る時、利己的な事をを嘆願請願すること(敵の粉砕、我欲を満たそうとする卑しい願い事)は慎むべきであると私は考えます。参考になるかわかりませんが、フレデリック・マイヤーズの通信(梅原伸太郎氏訳)の「人間個性を超えて」第3部「祈りと神秘体験」には次のことが述べられています。

「祈りに関して言われるべきことのすべてはキリストによって完全に言われているので、このテーマについて書くことは難しい。そこで私が〈至高者〉との霊交の方法について何かを言うとすれば、それは福音書のことばの深い意味を充分に理解しているキリスト教徒がほとんどいない――殊に礼拝者の心の態度に関して述べている件については――ことを言いたいためである。
 われわれキリスト教徒は、数世紀に亙って、祈りの実践を蔑み誤用してきた。われわれはそれを自己の利己的な目的のために用いてきたのである。敵の破壊を祈願し、神が選良――それは社会のほんの一握りの人のことである――のみを心に留めるよう懇願した。そして他者すなわち人類全体を無視したのである。さもなければわれわれは口先だけの饒舌家よろしく、言っていることについては何も考えず、ずっと昔に死んだ人の作った文句を、まるでそれらに魔術的な意味でもあるかのように、また、ことばの音そのものが望みの効果をもつとでもいうかのように機械的に唱えてきた。おそらく歴史上で今ほど福音書に立ち帰り、祈りの真の性質と働きを再発見する必要のある時はあるまい。
 私は不滅への道を地上の人よりも幾らか永く旅してきた者である。死後の生活において私は祈りの効果はそのことばにあるのではなくそのときの心の態度によるのだということが分かった。神を呼び、神に己が心を開かんとする者はまず厳しく己れの心を浄めなければならぬ。自らの創造者の前に祈願や嘆願の祈りをしようと決したときは、利己心の混入や己れの利益を計る気持ちがあってはならぬことを心に銘記しておかなければならない。そのときは人類同胞への想い、宇宙の奇《くし》びに触れる想いに満ち溢れた状態でなければいけないのである。言い換えれば、自分自身の小さな個我から出て、あらゆる生命あるものの魂と融合しようとしなければならない。そこで初めて彼は神の前に立ち、祈りのことばを口にし、他人を傷つけたりするものでない限りにおいて、自分の赤心からの願いを述べることができるのである。
 祈りを無価値にする最たるものは疫病、戦争、経済的圧迫等のある時である。このようなときに神の前に立てば、それはいと高きものへの冒涜であり罪である。しかし人生の苦難、その孤独、危険な圧迫に際して、心からの援助と慰めを願うなら、それは誤りではなく、扉は開かれるであろう。しかしそれはいつもというわけではなく、また願いのままに聴き入れられるというわけでもない。というのも、魂は永遠への旅の巡礼であり、彼の通らなければならない道は例外的な場合を除いては、人生が困難で環境が耐え難いというだけでは変更できないものだからである。
 あなた方が自分のために祈るときは、本霊が賜物を下すようにと祈りなさい。ただ他人のために祈るときのみ、物質的窮乏の軽減を願いなさい。もしあなた自身を幼子のようにして、繰り返し天の父への祈りをするなら、その祈りごとの中にあるように、日々の糧を願っても無駄にはならないであろう。しかしあらゆる祈りのうちでも最も大きなこの祈りを口にするとき、あなたは大人の心を奇麗に片づけて、キリストが彼の前に呼んだ子供たちの聖なる単純さに自分を戻さなければならない。キリストはその御言葉の中で「幼子のごとくなければ、神の国に入ることはできない」〔マタイ18:3〕と言ったのである。
 祈りの行為をなしつつある人は、今まさに神の国に入らんとしているのだということをよく心に留めておかなければならない。」

参考サイトURL: http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-9-4.html

 祈りの目的は主との霊的交わりであると思います。利己的な祈りはしようとすれば可能ではありますが、御心に叶わない祈りは即却下されると思います。叶った場合は邪霊が関与しているのかもしれません。真のキリスト者はそのような祈りを慎む必要があると思います。
2017-04-16 日 09:33:10 | URL | さすらうX [編集]
神について
神は存在すると思います。しかしキリスト教をはじめ従来の宗教の説く人間的性質を帯びた慈愛深さや嫉妬深い存在ではなく、善悪を超えた存在ではないかと思います。マイヤーズ通信(梅原伸太郎氏訳)「不滅への道」23章「神は愛よりも偉大」に神の御性質について言及されています。

23章:「神が愛や善であるとして語られるのは、私には神が妬《ねた》みや、復讐心を持つものとして語られるのと同じように、奇妙に思われる。神はそのようなものではない。神はあらゆる生命にとって不可避の「究極点《オメガ》」である。それは善でもなければ悪でもなく、残酷であったり親切であったりするような存在でもない。神とはあらゆる目的の彼方の目的であり、愛も憎しみも持たない。したがって神を表現する思想もありえないのである。なぜなら、私には、神は創造のすべてでありながら、創造物の一切から離れたものと見えるからである。神は無慮無数の世界と宇宙の背後に控える観念《イデア》なのである。
 愛や憎しみについて語る時、われわれは人間のことばの限界内で考えているのである。そのような時想い描くのはおそらく、息子に対する母親の愛、妻に対する夫の献身、恋のための英雄的な行為といったものか、あるいはそれが憎しみの場合には、裏切り、だまし、果てには凶悪な犯罪さえも犯す者への怒りといったものである。
 人間の愛憎は、それがいかに高貴なものであったとしても、なおかつそれが神のものであると言うことはできない。なぜなら、愛というものにはすべて欲望の影がさしているからである。それゆえ、愛には神に結びつくべき純粋さが欠けているのである。たとえ最も高尚なるべき悪への憎悪といえども汚れに染まっていないものはなく、それを神の御名の下に言うことが冒涜であることに変わりはない。
 つまり、こうした感情と神を結びつけて語ることはできないのである。われわれは「無限の同情、無限の優しさ」などというが、神は祈祷書に言われているような「愛深き父」のようなものではないのである。神とはもっと高貴で偉大なものだ。「愛深き父」――世間で一般的に言う意味での――とは、自分の子供だけを可愛がる人のことである。例えば、戦争においては、英国は神の愛は自分たちのものだと主張し、ドイツもまた同じことを主張するであろう。人はある特定の人とか物に対して、身も心も捧げていることを示したい時に、この「愛」ということばを用いる。そして何の気もなしに、神は創造物のすべてを愛するなどと言うが、それを神などと呼ぶことによって創造者の観念を安っぽくしてほしくないものである。なぜかといえば、そう呼べば神の観念を限定してしまうことになるからで、神を人間のことばの中に閉じ込めつまりは神を人間にしてしまうからである。
 否、神は愛などではない。愛は人間の美徳であって、時として炎のように燃え上がったり衰えたりし、一生のある時には燃え盛るが、その火勢を維持することはできないのであるから。愛はまたどのように善良な男女の仲にあっても、苛立ちや、ある種の不平や、利己的な憂鬱に彩られている。
 神は変化するようなものではない。宇宙の御親《(みおや》としての働きは、躓《つまず》いたり失敗したりするようなものではありえないのである。もし神が愛であるならば、生命のあの驚倒すべき創造は決してあのように完璧に維持されるはずはなく、あなたがたが愛と呼ぶその変わりやすい性格に従わなければならないことになる。そして天地間の生命の成長はしばらく休止させられたことであろう。すなわち、もし神の心が変化するものであったとしたら、雨は大地を潤さず、豊穣たるべき秋は収穫をもたらさず、大地は不毛に横たわる。海の潮はみはるかす地平の大方を浸し、山々はその頂から崩れ落ちて、何百万という生命が瞬時に損なわれるであろう。もし神が、人がそのことばで理解しているようなうつろいやすい「愛」を持っていたとすれば、世界の歴史は善よりも悪の方に変わっていたであろう。「神は愛よりも偉大である」。これこそまさに愛よりも神にふさわしいことばなのだ。
 私は、われらが師たるキリストが「神は愛なり」と説いたことを承知している。キリストにとっては神はまさに愛であったのだ。なぜなら、キリストはそのことばの中にこれまでこの地上に出現した人々が考えたような人間的な意味はこめなかったからである。イエスが神の子であるという主張は、彼が神の神秘を知り、「神は愛なり」ということばによって、全人類中ただ独り、この言葉の意味するところを真に理解したという事実に基づくのである。」

2017-04-16 日 10:41:59 | URL | さすらうX [編集]
Re: 利己的な祈りと真の祈り
> 真のキリスト者(キリスト教徒と違う?)が主イエスの御前にあって祈る時、利己的な事をを嘆願請願すること(敵の粉砕、我欲を満たそうとする卑しい願い事)は慎むべきであると私は考えます。参考になるかわかりませんが、フレデリック・マイヤーズの通信(梅原伸太郎氏訳)の「人間個性を超えて」第3部「祈りと神秘体験」には次のことが述べられています。
>
(中略)
>
>  祈りの目的は主との霊的交わりであると思います。利己的な祈りはしようとすれば可能ではありますが、御心に叶わない祈りは即却下されると思います。叶った場合は邪霊が関与しているのかもしれません。真のキリスト者はそのような祈りを慎む必要があると思います。

「真のキリスト者」とはどういう意味ですか?
貴方がその真のキリスト者でしょうか?
記事にも書きましたが、私がキリスト教の都合の悪いことを書くと、
クリスチャンたちから決まって
「それは正しいキリスト教ではない」
「それは正しい伝道ではない」
「それは正しいクリスチャンではない」
といった類の反論が返ってきます。
私がそう書いたそばから貴方は「真のキリスト者」という言葉を使いますが、
もういい加減そういう類の言葉は聞き飽きました。


2017-04-17 月 22:47:27 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 神について
> 神は存在すると思います。しかしキリスト教をはじめ従来の宗教の説く人間的性質を帯びた慈愛深さや嫉妬深い存在ではなく、善悪を超えた存在ではないかと思います。マイヤーズ通信(梅原伸太郎氏訳)「不滅への道」23章「神は愛よりも偉大」に神の御性質について言及されています。

(中略)

>  私は、われらが師たるキリストが「神は愛なり」と説いたことを承知している。キリストにとっては神はまさに愛であったのだ。なぜなら、キリストはそのことばの中にこれまでこの地上に出現した人々が考えたような人間的な意味はこめなかったからである。イエスが神の子であるという主張は、彼が神の神秘を知り、「神は愛なり」ということばによって、全人類中ただ独り、この言葉の意味するところを真に理解したという事実に基づくのである。」

記事の主旨とは関係ない、無駄に長いだけのコメントはおやめください。
記事に基づいた発言をお願いします。
なぜクリスチャンは記事に関係のない無駄に長いコメントが好きなのでしょう。
要するに、記事の内容が図星だったがために、
論点をぼやかすためにそういう投稿をしているだけです。
クリスチャンにはよほど触れられたくない内容だったのでしょうね。
2017-04-18 火 22:32:26 | URL | 桃栗 [編集]
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