■プロフィール

桃栗

Author:桃栗
このブログでのコメントは承認制です。原則として、書き込まれた順に承認・公開していきますが、承認までお時間をいただきます。★コメントへの返事は割愛させていただく場合がありますが★、寄せられたコメントはすべて目を通しています。初めての方はカテゴリーの中の自己紹介をお読みください。記事に直接関係のないご意見・ご感想・批判・賛同などはゲストブックへお願いします。多忙時は一時的にコメントの書き込みを制限する旨をお知らせすることがありますのでご了承ください。

■最近の記事
■最近のコメント
■最近のトラックバック
■カテゴリー
■FC2カウンター

■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
キリスト教独特の言い回し
どこの宗教にも当てはまるのかもしれませんが、
キリスト教の世界では、日常的な表現を使わず、
キリスト教独特の言葉遣いや言い回しをすることが多々あります。
別に、それが悪いことだと言うつもりはありません。
ただ、冷静に考えると滑稽に感じてしまうのです。
要するに、日常とは違う「仰々しい言葉」を使うことによって、
「宗教らしさ」を演出しているわけです。
(↑他のキリスト教批判系ブログの受け売りです)
実例を見てみましょう。


・交わりを持つ
キリスト教の世界では、他教会や他教会の信徒と交流することを、
「交わりを持つ」と言う習慣があります。
また単に名詞としての「交流」を「交わり」とも言います。
なぜ普通に「交流する」「お付き合いする」と言わないんでしょうね。

・伝道する
世間一般では、宗教を広めることを「布教」と言いますが、
キリスト教、特にプロテスタントでは「伝道」という言葉を使い、
私がクリスチャンだった時代に
教会で「布教」という言葉を聞いたことはただの一度もありません。
また、伝道という言葉をキリスト教以外の場で聞いたことも一度もありません。
なお、カトリックでは「布教」「宣教」と言うそうですが、
プロテスタントで「宣教」と言うと、日本から海外に伝道に行く、
または海外から日本に伝道に来るというニュアンスがありますが、
この辺のところは宗派、教派、教団などによって見解が違うかもしれません。

・兄弟姉妹
キリスト教の世界では、名前に独特の敬称を付ける習慣があります。
山田という男性には「山田兄弟」、
鈴木という女性には「鈴木姉妹」といった具合に、
○○兄弟、○○姉妹という敬称を付けて呼ぶ習慣があります。
「呼ぶ」とはいっても、直接本人に呼びかけるという意味ではなく、
この場合は人の名前を口にするという意味です。
ただし、時には直接呼びかけるときに付ける場合もあります。
特に、礼拝など「公式の場」では「○○さん」と呼ぶことはまずなく、
直接呼びかけるときにも兄弟、姉妹を付けて呼びます。
礼拝後の雑談などでは普通に「~さん」と呼ぶことが多いですが、
それでも兄弟、姉妹を付けて呼ぶこともまた多いです。

・病が癒される、傷が癒される
日常的には「病気が治る」「怪我が治る」と言うところを、
キリスト教の世界では「病が癒される」「傷が癒される」と言います。
例えば、「私の病は祈りによって癒されました」のように使います。
「~が治った」という直接的な言い方は避ける傾向があります。

・~が与えられる
クリスチャンが何か望んでいるものがあって神に祈っていたとして、
それが実現したとします。
そんな時によく言う言い回しです。
例えば、仕事での成功を望んでいる人が職場で重要なポストに就いたときに、
「主によって仕事が与えられました」のように言います。
他に、不妊治療を続けていたクリスチャン夫婦に子供ができた時は
「主によって子供が与えられました」と言います。
または「主」を主語にして「主が~を与えて下さった」とも言います。

ほかにもいろいろと独特の言い回しがあったように思いますが、
ざっと思い出せるのはこれぐらいです。

別にこういう言い回しを使うことが悪いと言っているわけではありません。
独特の言い回しを使う理由は、
キリスト教の神聖なる雰囲気を演出するためです。
要するに、いかにも特別なことをしているかのように見せかけているのです。
聖書の翻訳だってそうです。
わざわざ非日常的な難しい言い回しを使って、
いかにも神聖なことが書かれているように見せかけていますが、
聖書を日常的な言葉で翻訳すれば、
エホバの神もイエス・キリストも大したことは言っていません(笑)。
宗教なんて、かなり言葉のマジックに騙されている部分があるのです。
スポンサーサイト

テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

キリスト教一般の疑問 | 21:44:09 | トラックバック(0) | コメント(16)
コメント
パターン化
そういう言い回しがパターン化してしまっていますよね。

「主に愛されて」 とか
「わたくしたち兄弟姉妹」 とか 気持ち悪いですよね。

僕の所属教会では、〇〇兄(ケイ) とか 〇〇姉(シ) と言う風につけていました。そんなことを言いながら、どうせお互い、お前なんかと兄弟でたまるか、なんて心の中で罵っているんですよ。バカみたいですね。教会は偽善の大安売り会場です(笑。
2013-11-07 木 22:59:46 | URL | クッキングホイル [編集]
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2013-11-07 木 23:06:31 | | [編集]
教会用語
 私は教会に約20年間通いましたが、今は全く行っていません。
 初めて教会に行ったとき、確かに「兄弟姉妹」というのに違和感を覚えました。そのほかにも、私の行っていた教会では、役員のことを「長老」と呼ぶので、若い役員であっても長老と呼ぶのにはずっと抵抗がありました。
 私が伝道集会などの司会をするときには、あえて兄弟姉妹や長老という言葉を使わず「〇〇さん」と言っていました。
 それから、声を出して祈るときに「天のお父様」という言い方をほとんどの信徒がしていましたが、あまりにも「お父様、お父様」と言うのも気持ち悪かったです。
 しかも、私ごとながら、私は父親に対してとても複雑な感情を持っていましたので、お父様という言葉を聞くのが嫌でした。
 長文お許しください、もう一つ思い出しました。私が初めて教会に行った頃、教会ってどんなところかちょっと覗きに来たという感覚でしたが、教会の人たちから、勝手に「求道者」呼ばわりされたのには、閉口しました。。。
 
2013-11-08 金 04:08:35 | URL | Y.N [編集]
兄弟姉妹という言葉は違和感ありますね。お前なんか嫌いだと思う信徒でも兄弟姉妹になるのですから。

伝道という言葉には押しつけがましさが感じられます。教えてもらうほどの大した内容ではないので。

他にも、救われた、おわりのとき、永遠の命、祈りましょう、神との対話といった変なことばがありますね。

2013-11-10 日 13:15:46 | URL | まねきねこ [編集]
思い出したことを追加します。

・(困ったことが起きた時)私は神の試練を受けている。
・神にゆだねる。
~自分で考え、行動することを放棄する勧めの言葉です。

・教会は罪びとの集まり
~素行の悪いクリスチャンを批判するとかえってくる言葉です。そうならば教会なんてなくてもいいのでないと思いますね。

また思いついたことがあれば書き込むのでよろしくお願いします。
2013-11-10 日 13:55:57 | URL | まねきねこ [編集]
お邪魔します

おっしゃる意味がよく判ります
でもそれはある意味素晴らしいと思います
何故なら…

ロレックスは偽物が沢山造られる と一緒だと思ってますので
偽物づくりの人たちほどある意味 ホンモノの良さ がよく判っていると思います

宗派にいて 曲がらないことは中々むづかしいです
その中でも必死にもがいている人もいるので 
…いろいろ複雑な心境です

イエス様の言われた 私は乾く ですが…
צמא  は 乾く ですが
צמאת  は 探す だそうです
乾いている じゃなくて 探している の聞き間違いってあるのかもと思いました
2013-11-12 火 21:51:46 | URL | 青井涎掛 [編集]
牧師や牧師夫人は何か話し合いや相談事をしているとすぐに「祈りましょ」とまとめてきます。トラブルを防ぐにはあとは神様におゆだねしましょというのは確かに良い方法かなと思います。戦争をしている国々もみなそうであると戦争はおきません。でもなんだか違和感が、、、努力をして何かを成し遂げても神様のご計画。失敗しても神様のご意志。とても都合の良い宗教であることは確かです。私は今とても迷いの中にいます。
2013-11-17 日 19:46:12 | URL | 求道中 [編集]
アドバイスをください。神様につまづくというより牧師や教会員につまづいています。信仰に迷いがあるのですがみんなが私のために「お祈りしています」というので、求道をやめると何か悪いことがおきそうで怖いです。これが洗脳なのでしょうか。私は小さな静かな教会で人とではなく神様とむきあってみたいと思っていました。今の教会はゴスペルやバンドなど派手な活動が多く落ち着きません。牧師も牧師夫人も派手な活動に忙しく、本来の「病むものを救いにきた」というイエス様のみちびきから遠く離れているように思います。現に派手な活躍もできず笑顔を振りまいて幸せそうにしている人以外にとってはたいへん居心地が悪く、自然と来なくなる人も多いです。しかし牧師はいつも明るく前向きで見た目の良い人が大好きで対応が全く違います。所詮人間ですから仕方のないことですよね。
2013-11-21 木 22:00:22 | URL | 求道中 [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013-11-22 金 21:55:05 | | [編集]
Re: パターン化
> そういう言い回しがパターン化してしまっていますよね。
>
> 「主に愛されて」 とか
> 「わたくしたち兄弟姉妹」 とか 気持ち悪いですよね。

そうそう、思い出せば本当にきりがありませんよね。
「主によって満たされています」
「主のお導きによって」「霊的な体験」等等、
わざわざ独特な用語を使って特権階級気取りをしているのです。
教派によっては「リバイバル」なんて言い方もありますよね。


> 僕の所属教会では、〇〇兄(ケイ) とか 〇〇姉(シ) と言う風につけていました。そんなことを言いながら、どうせお互い、お前なんかと兄弟でたまるか、なんて心の中で罵っているんですよ。バカみたいですね。教会は偽善の大安売り会場です(笑。

私が言っていた教会もそうでした。
口に出すときは~兄弟、~姉妹ですが、
書くときは確かに~兄、~姉と書く習慣がありました。
しかし、信者でない外部の人にはそう呼びませんね。
結局、「汝の隣人を愛せよ」の「隣人」とは、
クリスチャン同士のことなのです。
非クリスチャンは隣人でないのです。
2013-11-26 火 23:35:36 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 教会用語
>  私は教会に約20年間通いましたが、今は全く行っていません。
>  初めて教会に行ったとき、確かに「兄弟姉妹」というのに違和感を覚えました。

一般社会に比べて違和感を覚えるのは当然です。
ただ、私は生まれた時からクリスチャンホームで育ってきたので、
それが当たり前だと思っていました。


> そのほかにも、私の行っていた教会では、役員のことを「長老」と呼ぶので、若い役員であっても長老と呼ぶのにはずっと抵抗がありました。


私が所属していた教団では長老という呼び方はしなかったと思いますが、
確かにそういう呼び方もあり得るでしょうね。
長老派という教派もありますし。


>  私が伝道集会などの司会をするときには、あえて兄弟姉妹や長老という言葉を使わず「〇〇さん」と言っていました。

おそらく他のクリスチャンたちは、
「Y.N.さんはなんて礼儀を知らない人なんだろう」
と思っていたでしょうね。


>  それから、声を出して祈るときに「天のお父様」という言い方をほとんどの信徒がしていましたが、あまりにも「お父様、お父様」と言うのも気持ち悪かったです。
>  しかも、私ごとながら、私は父親に対してとても複雑な感情を持っていましたので、お父様という言葉を聞くのが嫌でした。

私の通っていた教会ではそれほど頻繁に「お父様」とは呼ばなかったと思いますが、
たまに他の教会の牧師や信徒がそう呼んでいるのを見て、
なんだか思いっきり神様を「ヨイショ」しているように見えました。


>  長文お許しください、もう一つ思い出しました。私が初めて教会に行った頃、教会ってどんなところかちょっと覗きに来たという感覚でしたが、教会の人たちから、勝手に「求道者」呼ばわりされたのには、閉口しました。。。
>  

たとえ本人が軽い気持ちでのぞきに来たつもりでも、
教会側にとっては「これは偶然ではなく、神がこの方を教会に導いて下さった」
と勝手に都合よく解釈されてしまうのでしょうね。
だから「神のお導きで来た者=求道者」にされてしまうのです。
まったく大きなお世話ですね。
わたしも冷やかしで教会に行ってやろうかとたまに思いますが、
それが怖くて(笑)行っていません。
3年前には大阪のフランクリン・グラハム大会に潜入しましたが、
あやうく勧誘されて奴らの餌食になりかけるところでした(笑)。
2013-11-26 火 23:54:20 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 思い出したことを追加します。
>
> ・(困ったことが起きた時)私は神の試練を受けている。
> ・神にゆだねる。
> ~自分で考え、行動することを放棄する勧めの言葉です。

良いこと言いましたね。
全くもってその通りです。
自分が考えられなくなると、「神に(主に)委ねましょう」などとごまかすのです。
クリスチャンの常套句ですね。
震災が起こった時のローマ法王もそうでしたよね。
「なぜこのようなこと(震災)が起こったのかわからない、
しかし神は日本を愛しておられる」。
キリスト教では、「神」という言葉を出せば何でも正当化されてしまいます。
実に便利な宗教ですね。
韓国でクリスチャンが増えた理由がよくわかります。


> ・教会は罪びとの集まり
> ~素行の悪いクリスチャンを批判するとかえってくる言葉です。そうならば教会なんてなくてもいいのでないと思いますね。

まさにこれです。
私がネット上でクリスチャンの矛盾を指摘すると、
決まってこういう類の言葉が返ってきます。
クリスチャンでない人は「罪びと」
クリスチャンになった人も「罪びと」。
だったら、同じじゃん(笑)。
わざわざクリスチャンになるメリットがありません(笑)。


> また思いついたことがあれば書き込むのでよろしくお願いします。

こちらこそ。
2013-12-08 日 22:32:39 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 牧師や牧師夫人は何か話し合いや相談事をしているとすぐに「祈りましょ」とまとめてきます。トラブルを防ぐにはあとは神様におゆだねしましょというのは確かに良い方法かなと思います。戦争をしている国々もみなそうであると戦争はおきません。

まったくおっしゃる通りです。
私が、キリスト教の掲示板に悩みを打ち明けた時もそう。
私の受けた心の傷を理解しようとせず、
「桃栗さんのためにお祈りをしています」とまとめられるのがオチです。
そのことについては以前ブログで取り上げました。
http://exchristian.blog80.fc2.com/blog-entry-169.html


>でもなんだか違和感が、、、努力をして何かを成し遂げても神様のご計画。失敗しても神様のご意志。とても都合の良い宗教であることは確かです。私は今とても迷いの中にいます。

これもまったくおっしゃる通り。
自分の努力が実っても「神のお力」、
実らなくても「神の御心」「神の御計画」、
あまりにも都合が良すぎます。

迷っていらっしゃるのでしたらすぐに信仰を捨ててください。
もうすぐお正月ですね。
地元のお寺に除夜の鐘を聞きに行くか、
神社に初詣に行かれてはいかがでしょうか。
私は今年の元日は全国的に有名な神社に初詣に行き、
心が洗われるような気持になりました。
ああ、日本人で本当に良かったと思いました。
ところが、拡声器を持ったあのキリスト教団体が、
見事にその雰囲気をブチ壊してくれました。
やれやれ。。。。って感じですね。
2013-12-15 日 21:30:56 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> アドバイスをください。神様につまづくというより牧師や教会員につまづいています。信仰に迷いがあるのですがみんなが私のために「お祈りしています」というので、求道をやめると何か悪いことがおきそうで怖いです。

ほかのコメントにも書きましたが、おやめになった方が良いですよ。
本来、心の平安を得るための宗教なのに、
宗教を信じているがために不安をお感じになるのでしたら、
本末転倒になってしまいます。
それから、信仰をやめたからと言って、「神」は何もしませんよ。
現に、私だってこんなブログを書いていますが、何も起こりません。

ただし、問題なのは教会関係者から引き戻される可能性があることです。
お話によりますと、どうも活動が派手なタイプの教会のようですね。
それなら、なおさら厄介ですね。
本人たちは貴方の幸せのために引き戻しに来るのでしょうけど、
そういう人たちは「キリスト教につまづいた人」の気持ちなど理解しません。
むしろ、教会に戻れば貴方が幸せになれると信じて疑わない人たちですから、
本当に始末に負えません。
心を鬼にしてでも関係を絶つ心構えが必要かもしれません。


>これが洗脳なのでしょうか。

そうですね。洗脳と言うより「呪縛」とでも言った方が良いでしょう。
貴方の「求道をやめると何か悪いことがおきそうで怖い」の言葉が物語っています。
一般人が迷信や言い伝えを気にする感覚、あれに近いですね。
私も、教会から離れ、しかしまだ信仰が残っていたころ、
「教会に戻らないと何か起こりそうで怖い」と思っていました。
しかし、実際には何にも起こりません。
あの(心の)苦労は一体何だったのだろうと思いました。
要するに、「取り越し苦労」だったわけです。
本当に無駄なことにエネルギーを使ったものだと思います。
2013-12-15 日 22:17:18 | URL | 桃栗 [編集]
気取り声
こんばんは

お父様お父様というのは韓国のカルトで教祖のこともそう呼びますね。


クリスチャン同士の話で「**さんは天に召されたのよ~」という言葉を何度か聞きました。
それも(私の思い込みかもしれませんが)頭のてっぺんから出すような気取った声で。
率直に「亡くなった」とは言わず特別な、天国に行ける特権?のように聞こえるのは邪推でしょうか。

ミッションスクールに行っていた人が、先生に進路相談をしたところ「教会に行って祈りなさい」と言われて切れてしまい、抵抗したらそれからずっと睨まれて卒業まで嫌な思いをしてしまったそうです。


私が車椅子を押して教会に行ったり病院に付き添ったりしたのは、ただ単に物理的に移動させる人間が必要と思ったからです。

しかしクリスマス礼拝の時には必ず入り口で名前を書かされます。
「**さ~ん。名前を書いて」と言われるので「私は付き添いで信者ではありませんから」と拒否するのですが勝手に書かれます。
あれは怪しげな人間に侵入されないためでしょうか?
教会というのは万人に門戸を開き受け入れるのですから、たとえ罪人・泥棒であろうと入らせるはずですが?

その教会独特なのかもしれませんが、牧師夫人も同じトーンの声を出します。他にも何人も(頭の天辺からの気取った)同じ声を出すのです。
ネットリまとわりつくような。

施設を訪問しているとき、教会の人が来ました。
「ねえ~?教会に来ない?」と例の声で。
「私は俗物ですから・・・」とヤンワリと断わりましたが、「あら~イエス様は俗物がお好きなのよ~」
「いつお会いになったんですか?」と言いたいところをぐっと我慢したため憮然とした顔をしたようで、しらけた雰囲気になってしまったことがあります。
それとなく小さな聖書を渡してきますし(お菓子と思い込んだ私は賤しくも受け取ってしまって)。


クリスチャンでなくても、できる範囲で他人のために役立とうと思う人間はいるのです。
しかし私はそういう場面に出会うと「もうやめた!」と思ってしまうのです。

まあ、私は本当のボランティアとはいえないのでしょうね。
ゾクブツですし。

ところで、始めについ宗教臭いヘンなハンドルネームを使ってしまい後悔しております。
2014-09-21 日 19:57:52 | URL | [編集]
Re: 気取り声
> こんばんは
>
> お父様お父様というのは韓国のカルトで教祖のこともそう呼びますね。
>
>
> クリスチャン同士の話で「**さんは天に召されたのよ~」という言葉を何度か聞きました。
> それも(私の思い込みかもしれませんが)頭のてっぺんから出すような気取った声で。
> 率直に「亡くなった」とは言わず特別な、天国に行ける特権?のように聞こえるのは邪推でしょうか。


以前取り上げましたが、
キリスト教ではどんな死に方をしても「天に召された」と言うのです。
自殺した人のことまでそう言うのをこの目ではっきり見ましたから。


> ミッションスクールに行っていた人が、先生に進路相談をしたところ「教会に行って祈りなさい」と言われて切れてしまい、抵抗したらそれからずっと睨まれて卒業まで嫌な思いをしてしまったそうです。

こうやって人間が努力をすることを否定し、
神に祈れば解決すると教えておきながら、
いざ解決しなかったら
「祈りが足りない」「信仰が足りない」などと戒めるのがお約束です。


> 私が車椅子を押して教会に行ったり病院に付き添ったりしたのは、ただ単に物理的に移動させる人間が必要と思ったからです。
>
> しかしクリスマス礼拝の時には必ず入り口で名前を書かされます。
> 「**さ~ん。名前を書いて」と言われるので「私は付き添いで信者ではありませんから」と拒否するのですが勝手に書かれます。
> あれは怪しげな人間に侵入されないためでしょうか?
> 教会というのは万人に門戸を開き受け入れるのですから、たとえ罪人・泥棒であろうと入らせるはずですが?
>
> その教会独特なのかもしれませんが、牧師夫人も同じトーンの声を出します。他にも何人も(頭の天辺からの気取った)同じ声を出すのです。
> ネットリまとわりつくような。

その雰囲気、私にはよくわかります。
私はクリスチャン時代だったころはそういうものだと思っていましたが、
今考えて見えるとああいう人たちには近寄りたくないです。
2014-09-23 火 22:04:00 | URL | 桃栗 [編集]
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad