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桃栗

Author:桃栗
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津山シオン教会 舛田光男牧師がひき逃げ
先日、ブログの常連さんからの書き込みで知ったのですが、
12月20日に岡山県の日本アドベント・キリスト教団の津山シオン教会の、
(岡山県津山市茅町85-14。[電話番号:0868-23-7132])
舛田光男牧師がひき逃げをしたそうです。
気の毒なことに被害者の男性(おそらく非クリスチャン)は亡くなられたとのこと。
読売新聞からの記事を引用し、私の考えを書かせていただきます。


 死亡ひき逃げ事故を起こしたとして、岡山県警美咲署は19日、岡山県津山市東一宮、「津山シオン教会」牧師舛田光男容疑者(64)を自動車運転過失致死と道交法違反(ひき逃げ)の疑いで逮捕した。

「人をはねたという認識はなかった」と容疑を否認しているという。

 発表によると、舛田容疑者は18日午後11時10分頃、美咲町原田の国道53号で、道路を歩いて横断していた近くの会社員小田泰弘さん(42)を乗用車ではねて、そのまま逃げた疑い。小田さんは約15メートル飛ばされて間もなく死亡。舛田容疑者は事故の約45分後、同署に「動物に当たったが、事故の情報は入っていないか」と連絡していた。同署が、車の破損状況と現場の遺留品などから逮捕した。

 教会関係者によると、舛田容疑者は約35年間、津山市の教会で牧師を務めてきた。倉敷市の教会の牧師も兼ねており、この日は倉敷からの帰宅途中だったという。伝道師の女性(63)は取材に対し「クリスマス前で忙しく、疲れがたまっていたのだと思うが、あってはならないこと。本当に申し訳ない」と話した。

 小田さんは、自宅近くのごみ置き場にごみを捨てに行った帰りとみられる。

(2011年12月20日12時10分 読売新聞)




この記事を読む限り、よくある典型的なひき逃げのパターンですね。

>「人をはねたという認識はなかった」と容疑を否認しているという。

ひき逃げ犯の常套句ですね。
どんなに隠し事をしても、神様は天国から見ているはずですよね?

>舛田容疑者は事故の約45分後、
>同署に「動物に当たったが、事故の情報は入っていないか」と連絡していた。


なんとわざとらしい行動なのでしょう。不自然すぎます。
動物だと思ったことにしておけば罪が軽くなるとでも思ったのでしょうね。
そもそも、被害者は15メートルも跳ね飛ばされたのですから、
かなりの衝撃があったはずですし、
動物だった思ったとしても、普通ならすぐに車を停めて確認するはずです。
ひき逃げ犯 舛田光男牧師の車
上の画像をご覧ください。これが事故を起こした舛田牧師の車です。
フロントガラスにひびが入り、さらにドアミラーまでが外れているのですから、
普通はすぐに車を停めて点検しますよね。
すぐに通報しなかったのは、まさかお酒でも飲んでいて、
それを隠すためだったのではないかと勘ぐりたくもなります。

さて、ここからが本題。
キリスト教の教義では、人間はすべて生まれながら罪びとということになっています。
しかし、神とキリストを信じ、洗礼を受け、罪を悔い改めた者だけが救われ、
死後、天国に行けて神から永遠の命を与えられることになっています。
もちろん、舛田光男牧師は心から懺悔の祈りをすることでしょう。
そして、奥様や教会の信者さんたちも一緒に祈るでしょう。

そうして加害者側は神に懺悔して罪を赦されて救われたとしても、
被害者の非クリスチャンの男性はどうなるのでしょうか?
彼は神を知る機会もなく、つまり罪を背負ったまま死んだわけですから、
神に裁かれて地獄に行ったことになります。

ケガ一つしていない加害者は罪を悔い改めて天国に行けて、
被害者は罪を背負ったまま地獄に行ってしまうとは、
何と不公平なのでしょう。
それ以前に、事故が起こったときに神様もイエス様も何をしていたのでしょうか?
ただ黙って天国から見ていただけですか?
ずいぶん冷たい全知全能の神様ですね。

こんな疑問をクリスチャンに投げかけたところで、
ダンマリを決め込むのがお約束です。
8月と9月にアメイジング・グレイスの記事を書いた時もそうでした。
結局、クリスチャンは自分たちや自分たちの仲間が救われることしか眼中になく、
キリストに出会う機会もないままに死んでいった人たちのことは無関心なのです。

さて、舛田光男牧師のいる津山シオン教会がどんなところか調べようとしたら、
あきれたことにHPが削除されていました。
一般社会では、企業が不祥事を起こした場合HP上で謝罪文を掲載します。
ところが、津山シオン教会は公に謝罪しないどころか
HPまで削除して雲隠れするとはなんと卑怯なのでしょう。
Googleに残ってたキャッシュから推測すると、
事故を起こした直後に削除したようです。
こういうときだけは行動が早いのですね(笑)。

さらに、Wikipediaの「日本アドベント・キリスト教団」のページ
早速この事件のことが追加されていました。

> 2011年12月18日、岡山県美咲町でひき逃げと見られる死亡事件が発生、美咲警察署は容疑者として日本アドベント教団の津山シオン教会に所属する牧師を逮捕した。牧師は事故を起こしたことは認めたが、ひき逃げについては容疑を否認している。

おかしなことに、クリスチャンは神に対しては罪を認めて謝罪(懺悔)するのに、
人に対しては罪を認めないのですね。
こういうクリスチャン独特の習性をいつかブログで取り上げようと思っていましたが、
こんなにもいい例に出会うとは思っていませんでした。
本当にいい例を見させていただきました。
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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

キリスト教の事件簿 | 17:32:48 | トラックバック(0) | コメント(29)
コメント
「地獄に行って当然」
かつてラス・カサスの『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』を引用し、コンキスタドールに虐殺された先住民、インディオが地獄に行って、虐殺者・破壊者のコンキスタドールが天国に行くのはおかしいのでは?とクリスチャンの集会の席上で問題提起したことがあります。すると、全会一致状態で、「コンキスタドールには司祭が随行していた。神の教えを本当に求める意思があれば、その司祭から学ぶ機会が十分にあったはず。それもしないで死んで行った人は、地獄に行っても仕方がない。」と一笑に付されました。この論法に従えば、「ひき逃げの被害者は42年間も生きてきたのだから、その間にキリスト教に接するチャンスは十分あったはずだ。それをしないまま死んだのは、自分が悪い。地獄に行って当然だ。」ということになるのでしょうね。こんな恐ろしい宗教と決別できて本当に良かったと思います。
2011-12-25 日 22:45:01 | URL | 巨大虎猫 [編集]
なんとそそら寒い出来事でしょうね。この牧師は64という年からしてかなり長きに渡って神を信じ神の愛とやらを説いてきたでしょうにこの有り様ですか?結局自己保身ですね。神を愛する前に自分がはねた瀕死の人間に対して救急車を呼ぶくらいの思いは持ちましょうよ。クリスチャンじゃなくても自分に関係ない溺れた人を助けようとして亡くなった方もいますよ。人間は自分の思いと人の支え、持ち前の力と資質、それに努力。それで自分をつくりあげるんじゃないですか?神の愛などではなく。
2011-12-25 日 23:57:03 | URL | オレンジ [編集]
Re: 「地獄に行って当然」
> かつてラス・カサスの『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』を引用し、コンキスタドールに虐殺された先住民、インディオが地獄に行って、虐殺者・破壊者のコンキスタドールが天国に行くのはおかしいのでは?とクリスチャンの集会の席上で問題提起したことがあります。すると、全会一致状態で、「コンキスタドールには司祭が随行していた。神の教えを本当に求める意思があれば、その司祭から学ぶ機会が十分にあったはず。それもしないで死んで行った人は、地獄に行っても仕方がない。」と一笑に付されました。

「過ちを犯してもキリストを信じて罪を告白して懺悔すれば救われる」
「キリストを信じない者は善人であっても救われない」
というキリスト教の教義に忠実に従えばそうなりますよね。
しかし、クリスチャンがそんな強気なことを言っていられるのは、
教会の世界の中だけでしょう。
表社会に向かってはとても言えないはずです。
そんなことを言えば世間に対するキリスト教のイメージが悪くなりますから。
強いて言うなら、非クリスチャンの死後の行方については
「神の御心により判断される」などと無難な回答に持っていくのがお約束です。

以前、佐世保のクリスチャン銃撃事件について知恵袋で質問をしたことがあります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313912503
このときも、非クリスチャンの被害者の死後の行方については、
あいまいにぼやかす回答でした。


> この論法に従えば、「ひき逃げの被害者は42年間も生きてきたのだから、その間にキリスト教に接するチャンスは十分あったはずだ。それをしないまま死んだのは、自分が悪い。地獄に行って当然だ。」ということになるのでしょうね。こんな恐ろしい宗教と決別できて本当に良かったと思います。

クリスチャンたちは、
誰にも何も教わらないで自分で全知全能の神やキリストの存在に気付いたのでしょうか?
違いますよね。
教会で「教育」されたから知っただけのことです。
もしも何もしなくても聖書や神やキリストの存在がが分かるなら、
アメリカ大陸先住民にもすでにクリスチャンがいたはずです。
2011-12-29 木 17:46:23 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> なんとそそら寒い出来事でしょうね。この牧師は64という年からしてかなり長きに渡って神を信じ神の愛とやらを説いてきたでしょうにこの有り様ですか?結局自己保身ですね。

ネットで調べたところ、
2009年に千葉県柏市の福音シオン柏キリスト教会の下瀬隆司牧師も
ひき逃げ事件を起こして逮捕されていることが分かりました。
このときもやはりホームページは直後に削除されたそうです。
(現在は牧師が変わってHPも復活していますが)
「私たちには守ってくださる神がいる」などと教会の中では言っているのでしょうが、
表社会に対しては、事件を起こしたら雲隠れなのすから、
本当にあきれたものです。
結局、「教会の中の教え」というものが、表社会では通用しないことの実例です。
2011-12-29 木 17:55:20 | URL | 桃栗 [編集]
聖書に忠実なら・・・。
>>桃栗さま

だいたい、牧師が自動車を乗り回すというのがおかしな話ですよね。
聖書には
「それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。
 (ヨブ記37章 24節 新共同訳)」
とあるのに、「すべて顧みるに値しない。」人の知恵によって作られた、
自動車に乗っていたのですから。
本当に「聖書に忠実」なら、人の知恵の結晶である自動車など顧みず、
どこに行くにも、神から与えられた二本の足でこなすべきでしょうに。

それに、聖書には
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、
 あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
(マタイによる福音書10章 29節 新共同訳)」
とありますが、この文に忠実に解釈するならば、
交通事故が起きたのも、被害者が死亡したのも、いや、この世の始まりから
終わりまでに起きる、あらゆる不幸、事故、災害が「父(神)のお許し」のもとに
起きたということになりますよね。
「愛ある神」が、そんなことを許すものでしょうか。
クリスチャンの方々は、こんな無慈悲なことを「許し」ている神を、
「愛あるお方」と呼ぶことに矛盾は感じないのでしょうかね。
2011-12-30 金 08:27:38 | URL | ササキエル。 [編集]
こんな記事がありました。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111230/mds11123016380003-n1.htm

 産経なので差し引いて読む必要があるように思いますが、こういう内容は産経しか報じていません。

 「汝の隣人を愛せよ」という教えはどこへ行ったのでしょうか??
2011-12-30 金 19:47:58 | URL | 沢野忠庵 [編集]
口では偉そうなことを言っていても、行動が伴わないといういい例ですね。
こんなのは、教える立場にある人間に多いと思いますよ。

が、全部が全部そうでもないので、
「キリスト教は・・・」「牧師は・・・」と
早々に決め付けることもないと思います。
2011-12-31 土 07:10:17 | URL | 名前を入れてください [編集]
Re: 聖書に忠実なら・・・。
> だいたい、牧師が自動車を乗り回すというのがおかしな話ですよね。

ずいぶんと高級そうな車ですね。
そんなお金があるなら聖書の教えの通り貧しい者に施せばいいのに。
実際には「神が素晴らしい車を与えてくださった」と喜んでいるのでしょうね。
神の名を出すと何でも正当化されてしまいますから便利なものです。

> 聖書には
> 「それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。
>  (ヨブ記37章 24節 新共同訳)」
> とあるのに、「すべて顧みるに値しない。」人の知恵によって作られた、
> 自動車に乗っていたのですから。
> 本当に「聖書に忠実」なら、人の知恵の結晶である自動車など顧みず、
> どこに行くにも、神から与えられた二本の足でこなすべきでしょうに。

その通りですね。
クッキングフォイルさんがブログに書かれていたことと重なりますが、
本当に聖書が正しいと信じているなら聖書の世界に忠実に生活するべきです。
例えば、聖書に記述のない幼児洗礼なんか授けないで、
イエスがされたのと同じように「割礼」でも授けたらどうでしょうか。
ところが、そんなことをすれば幼児虐待だのカルトだのと騒ぐ。
不思議ですね。


> それに、聖書には
> 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、
>  あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
> (マタイによる福音書10章 29節 新共同訳)」
> とありますが、この文に忠実に解釈するならば、
> 交通事故が起きたのも、被害者が死亡したのも、いや、この世の始まりから
> 終わりまでに起きる、あらゆる不幸、事故、災害が「父(神)のお許し」のもとに
> 起きたということになりますよね。

この世のすべての出来事は、すべて神のご計画だと教わりました。
したがって、この世に「偶然」というものはなく、
すべてが神によって予定されていたことだと言うことです。
しかし、クリスチャンは幸福な出来事があったときだけ
「これは神が私たちのために計画されておられたのだ」と喜び、
不幸な出来事の場合は「神の御心は私たちに分からない」とダンマリを決めます。
そんじょそこらの新興宗教と変わりません。
2012-01-05 木 22:32:41 | URL | 桃栗 [編集]
Re: こんな記事がありました。
> http://sankei.jp.msn.com/world/news/111230/mds11123016380003-n1.htm
>
>  産経なので差し引いて読む必要があるように思いますが、こういう内容は産経しか報じていません。
>
>  「汝の隣人を愛せよ」という教えはどこへ行ったのでしょうか??

あらら、キリスト生誕の地ベツレヘムで司祭100人が乱闘騒ぎですか。
しかもこんなごくごく些細なことで。
こういう記事を読むと、
結局、クリスチャンにとって「汝の隣人」とは、
「自分たちの仲間」のことでしかないのだなあということが分かります。
そして、乱闘騒ぎを起こしても懺悔すれば済みますから、
キリスト教は便利な宗教ですね。
2012-01-06 金 00:21:10 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 口では偉そうなことを言っていても、行動が伴わないといういい例ですね。
> こんなのは、教える立場にある人間に多いと思いますよ。
>
> が、全部が全部そうでもないので、
> 「キリスト教は・・・」「牧師は・・・」と
> 早々に決め付けることもないと思います。

ハンドルネームは固定してくださいね。
2012-01-07 土 12:04:40 | URL | 桃栗 [編集]
いやはや
この牧師が人として許されないことは当然です。その前提の上でお話しますが、キリスト教にも色々な教派があり、そしてどの教会にも色々な人がいるのに、クリスチャン全体を十束一からげにして、全てを悪と決め付ける思考回路には、知性を一切感じませんね。何か個人的な恨みによる発言としか思えません。

文章には人間のすべてが出ます。人間性も、知性も、読む側に判断されてしまいます。こんなブログを「鵜呑み」にする人は、その程度の知性です。

嫌いなものを「誹謗」ではなく、聞くに値する「批判」にするには、貴方自身を随分と磨く必要がありますね。
2012-01-10 火 12:31:29 | URL | ʅ(´◔౪◔)ʃ [編集]
Re: いやはや
> この牧師が人として許されないことは当然です。その前提の上でお話しますが、キリスト教にも色々な教派があり、そしてどの教会にも色々な人がいるのに、クリスチャン全体を十束一からげにして、全てを悪と決め付ける思考回路には、知性を一切感じませんね。

キリスト教は全人類を十把一絡げにして「罪びと」として、
すべてを悪と決め付けていますが。
つまり生まれたばかりの赤ちゃんも罪びとだと決め付けているわけです。


> 文章には人間のすべてが出ます。人間性も、知性も、読む側に判断されてしまいます。こんなブログを「鵜呑み」にする人は、その程度の知性です。

ʅ(´◔౪◔)ʃ
↑このハンドルネームに知性は感じませんけど。
2012-01-15 日 21:42:43 | URL | 桃栗 [編集]
あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい
ヨハネの福音書8章7節
2012-02-14 火 17:19:17 | URL | 名前を入れてください [編集]
Re: タイトルなし
> あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい
> ヨハネの福音書8章7節

それは誰へ向けての言葉ですか?
名も名乗らず、挨拶もなく、
ただ聖書の言葉を張るだけの書き込みしか出来ないのですか?

貴方が聖書の言葉を持ち出すなら、
私も聖書の言葉で反論させていただきます。


人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。
家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。
人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。
骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。
(レビ記20:17~20)


つまり、神のの言葉に従うならば、
舛田光男牧師は人をはね殺したのですから、
それと同一の傷害、つまり「死」の罰を受けなければならないことになりますよね。
神の言葉は正しいのでしょう?
2012-02-29 水 23:41:39 | URL | 桃栗 [編集]
こんな事件も
風俗店員、「宣教師」に偽装=不法入国手助けの牧師ら逮捕-警視庁

青山容疑者は「教会をつぶしたくなくて金に目がくらんだ。逮捕は神のお導きだ」と話している・・・

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012022100723

書ける言葉が見付からない事件です。
2012-03-12 月 10:56:17 | URL | カエル [編集]
凄いのを見付けたので、お知らせします。
聖書の教えとは?面白すぎます(笑)
-------------------------------------------------

【社会】 性風俗店で働く韓国人の女を「宣教師です」とウソついて不法滞在させる…東京

「宣教師として働かせる」などと韓国人の女の不法滞在を手助けしたとして、東京・葛飾区にある教会の牧師の男らが逮捕されました。

牧師の青山金信容疑者ら2人は一昨年9月、26歳の韓国人の女に長期滞在資格を得させるため、「自分の教会で宣教師として働いている」としたうその書類を東京入管に提出させた疑いが持たれています。警視庁によりますと、女は実際には性風俗店で働いていました。

青山容疑者らは、これまでに少なくとも4人の韓国人の女を不法滞在させていて全員が性風俗店で働いていたということです。取り調べに対し、「逮捕されたのは神のお導きだと思う。反省している」と話しています。

http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220221022.html
2012-03-22 木 17:43:02 | URL | カエル [編集]
Re: こんな事件も
> 風俗店員、「宣教師」に偽装=不法入国手助けの牧師ら逮捕-警視庁
>
> 青山容疑者は「教会をつぶしたくなくて金に目がくらんだ。逮捕は神のお導きだ」と話している・・・
>
> http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012022100723
>
> 書ける言葉が見付からない事件です。

「神のお導き」とは、クリスチャンの常套句ですね。
ほかに、「神の御心」「神の思し召し」などの言葉があります。
この言葉を使うと、良いことも悪いことも、
すべて正当化されてしまいますから便利なものです。

逮捕されたのは「自分が悪いから」となぜ素直に認めないのでしょう。
そもそも、韓国人の風俗嬢の不法滞在をほう助したというのも不自然です。
聖書では姦淫は厳しく禁じられているはずです。


姦淫してはならない。(出エジプト記 20:14)

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
(マタイ 5:27)


それなのに、なぜその牧師は風俗嬢の便宜を図ったのでしょう。
本当は愛人関係にあったのではないかと勘ぐりたくもなります。
2012-03-25 日 20:46:05 | URL | 桃栗 [編集]
キリスト教には、地獄はありません
キリスト教には、地獄はありません。天国の教えのみ存在します。
クリスチャンが答えないのではなくて、あまりにも周りの人々がキリスト教を知らなすぎるのです。

キリスト教の教えは、「イエス様を信じてイエス様を通れば神様の元に行ける」と言うものであり、信じなければ信じないまま終わるのです。

聖書の訳は、一つだけではありません。ですから、たくさんの聖書を読めば《信じた者だけが救われる》と言う内容についての誤解が分かります。


信じれば救われるとは書いてあるが、信じなければ救われないとは書いて無いです。信じなければ信じないまま火の中に投げ込まれると俗に言われていますが、聖書にある《火の中》とは即ち《天の父である神の中》と言う内容で私は理解しています。

信じないまま終わるケースは日本は特にそうですが、信じないまま終わる場合には、イエス様の前でその人々は火の中に入ります。言わば、たくさんの神様の愛を身に受けてイエス様を通り神様の国に招かれるのです。

そういう意味で、神様を疑うより信じないまま終わり最終的には赦されて《神の国》に招かれると思う方が楽ではありませんか?


2014-08-31 日 05:55:44 | URL | 及川奈穂 [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014-10-26 日 21:38:09 | | [編集]
気持ちはわかります。でも。どうか僕の意見も参考にしてみてください
桃栗さんのブログを少し拝見させていただきました。理にかなっていることを書かれている気もします。でもこの批判は、ほとんどキリスト教の宗教団体や個人を批判的に見て感じられることだと思います。そして、キリスト教団体も個人も罪にまみれています。キリストに信仰を持つ僕自身もそうです。肉によって生きては罪しか行えません。良いことをしてるつもりでもそうです。その動機として、自分の満足やいい人になった気分を求めている時もあれば、競争心からいい人ぶるかもしれません。それも神の目には卑しい精神であり罪です。でも神の霊を冒涜するのはお勧めしません。本当に神がおられるのを信じる僕は個人として忠告します。神は罪深いクリスチャンらとは違い、全知全能の神で罪もなく、許すことも、裁くことも本当にできるんです。万物の創造主で今も、桃栗さんの魂に対する聖なる怒りを愛と憐れみによってこらえ、命に必要なものを提供しつづけ、その魂を見守っていらっしゃると思います。いま戦争がおきて、テロが起きて、銃撃されたらどうでしょう?経済が大崩壊して餓死したら?いまがん細胞が知らず知らずに発達していたらどうでしょう?人は実はちっぽけで日本や先進国の諸外国のように平和な環境で暮らしていると、偽りのセキュリティーの中で、感謝もせず生きています。人は罪という悪の問題因子を抱え、弱いくせに自分が神であるかのように、偉そうな発想をします。僕もですよ。だから神の目にはみんな等しく卑しい生き物に映るんです。罪のせいで。神は憐れみによって、正義を妥協しない形で卑しい人間らを赦すために、イエスキリストをいけにえとして屠り、その死刑をキリストを信じる者らの代用として受付け、赦しを与え、聖霊の力によって、日々それを実感し、感謝と平安と愛があふれるようにしたんです。でもおっしゃるとおり一部の人のためです。全員ではないです。その分かれ目は罪の重さ軽さですらないです。なんせ全員が死罪に価する罪を犯していますから。それは結局、神の憐れみが注がれるか注がれないかです。その神の憐れみは、聖霊です。神の霊そのものです。この神が、心の奥底から、キリストを通して示された無償の清らかな愛を理解させ、それを理解した時に人は、この世のものではない喜びと平安に包まれます。聖霊を受けて、神の愛を理解し、そんな幸せにありつきたい。そう思われるのならば祈りましょう。祈りは神への叫びです。桃栗さんの心の奥底にある苦しみを、神を頼る意味で、泣きむさぶ時、神はそれを聞かれます。生意気な周囲のクリスチャンをみてもしょうがありませんよ。それを理由に神がいないなどとはなりません。神は王座に頑として座っておられます。信じる力も大切です。希望をもって神に赦しと聖霊を与えてくださるように頼んでみましょうよ。聖書にこう書いてありますよね。あなたたちは悪でありながらも、子供には最高のギフトを与えることをしっている。魚を欲しがる子に、蛇をやりはしない。ましてや神は聖霊をもとめる者には聖霊を与えられる。より正確な文節はマタイ7章7節から12節にあります。たくさんの疑問があるとお見受けします。どうか神と向き合って、判断を誤らないでください。クリスチャンを名乗る人たちから散々な目にあわされたようでお気の毒です。神はだから罪人を簡単には許しません。クリスチャンだと名乗る多くの人が本当に神に受け入れられるかは最後までわかりません。本当に天国に入る人と、教会員名簿は一致しません。神は本物です。嘘の教えに惑わされないでください。神は僕をそして桃栗さんをとりまくあらゆる環境に働かれます。これから誰に会うのか、どこで暮らし、何をするのか、全ては神の導きによります。自分で決断したようで、何事も定められています。人間はちっぽけです。救いようがない存在です。でも神の力は偉大です。もし、この文を読まれたなら幸いです。神に祈ると神は聞かれます。聖霊が注がれ、キリストにおける神の愛を味わえるはずです。その時こそたくさんの疑問が解決し、人生を通してみえる神の力があまりにリアルで、細かい疑いも落ち着くでしょう。その時は良い教会に導かれ、一切の疑問や信仰上のアドバイスを親身に聞いてくれる牧師さんに出会えるといいですね。そして祈り合う友も与えられるといいですね。聖霊が送られてもすぐに綺麗な生き方ができるのではなく、むしろ死ぬまで罪は起こし続けるでしょう、でも罪を憎み自分の内から消えるように努力したくなります。毎日キリストの赦しを受け、神のみ言葉を聞き、毎日祈りましょう。いや、しましょうというか、聖霊を受けると勝手にそういう生き方を望みます。神に喜ばれることが自然にしたくなります。でも、それでも大それた罪は消えていくでしょうが、卑しい精神はこの世に生きる間は死ぬまで消えません。でもキリストを信じる者にはキリスト自身の正義をその個人のものとして塗り替えるシステムがありますので、神の裁きは下りません。全ての罪が、過去現在未来に渡って、パソコンのゴミ箱がファイルを削除するように消去されます。キリスト教を批判したって、べつにもう二度とクリスチャンになれないこともないし、桃栗さんが昔クリスチャンであっていまそうじゃなくなったわけでもないんだと思います。神の目にはそうは写ってないでしょう。今も昔もずっと求道してあるという状況と言えます。要は今からでも遅くないです。使徒言行録9章のサウロの回心をご存知ですか?キリスト教迫害者にもイエスは救いを与えられます。今はまだ遅くないです。が、いつキリストが再臨するかはだれも知りません。もしくはこの世で桃栗さんが生きるべき時間が終わってしまっても同じです。その時がいつかは神を除いて誰も知りません。その時が来てしまっては遅いです。もう次はないです。裁きの日になってはもう憐れみはこれっぽちも残りません。悪は滅びろ、と正義が火を吹きます。祈っていますは嫌いな言葉のようですので、僕と永遠に平和条約を結んだ全権力を包括する「わたしはわたしである」という方に桃栗さんに聖霊を送り、人生の微細な場面場面に魂の救いの必要性とキリストの愛と救いを指し示す工夫を仕込み、桃栗の努力に左右せず、キリストの労苦と正義と権力に免じて、万事安全に天国まで導いていただけないか、一言懇願しておきますから。
2015-01-15 木 15:18:56 | URL | 拓也 [編集]
さらに一言だけ…疑問の助けになれば
先ほど投稿させていただいた拓也ですが、桃栗さんのブログが気になって、読み進めている内に救いについての疑問が強いようだと思い、僕がクリスチャンとしてきっぱり答えたいと思いました。キリストの福音を受けずに死んだ人はどうなるのか、何も悪いことをしてない子供が福音を知らずに死んだらどうなるのか、キリストの生贄の効力に預かっていない限り、罪の下にあり、正義によって裁かれる。これが聖書の答えです。ただし、新約聖書時代以前の人物などはキリストの贖いの効果が現代に示されている一般的な方法ではなく有効になるケースもあるようです。そうした例外がどれだけ人の目に憐れに映る人々(流産した胎児やどこかの部族民族で福音を聞いていない人)にもあてはまるのか、僕にはわかりません。勉強不足も認めます。しかしながら一般にはキリストの福音として示されている救いを受け入れずこの世の人生を終えた場合は裁きを受けると信じています。それは宗教の自由を保障された日本の場合はなおさら例外なくそうだと言えるでしょう。不幸な事件、災害、そうです、全部神の摂理のもとに起きています。でも、一番憐れなのは肉体的な死ではありません。魂の死が一番酷いんです。そして神を信じない人は神を舐めすぎている部分もあります。憐れみがあるからこわくないと思ったら大間違いです。聖書に肉体を滅ぼしても魂を滅ぼすことができない敵を怖がることはない、だが、肉体も魂も地獄で滅ぼすことができる方を恐れなさいと書いてあります。さらには、ローマ書9章にはすごいことが書いて有ります。このまま神を冒涜するならもう知りませんよ。そこにはこう書いてあります。14節。わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ。18節、このように、神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思うものをかたくなにされるのです。え!そんな勝手なと思うでしょう。僕もです。でもさらに続きます。19節、ところであなたがたは言うでしょう。ではなぜ神はなおも人を責められるのだろうかと。いや本当にそういいたくなりますよ。でもそれは人が神を舐めすぎてるからです。20節で戒めがあります。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か?要するに、しょうがないじゃないか、神がすべての創始者で人が口を挟める身分かと。ある人は救われ喜びに満たされ、神を崇め、ある人は神を憎み、神はそれを悪と定め、力の限りそいつをぶっつぶす。「おまえがそれをどうこう言える立場か?これが現実だ、ついて来たい者は俺様が優しく微笑んで迎え入れる内に来いよ。」と。これが多くのクリスチャンが真っ直ぐ語るのを恐れるような現実です。そしてもうひとつ、これはどこかで耳にした言葉で僕の言葉ではないですが、もし仮に僕がこれら全部を信じていて結局全部が嘘っぱちだったとします。僕は笑い者になって、僕自身も呆れて自分を笑い、桃栗さんに謝り、恥じ入ります。でももし反対にやっぱり全部本当で神がいらっしゃり、その前に桃栗が立たされることになったら、ずっと取り返しがつかない結果ですよ。邪道な発想ですが、打算的にみても信じておいたほうがましだっていう言い分ですね。まあとにかく忘れてならないのは、神様はふわふわな雲の上に優しい顔をしている妖精さんじゃないということです。偉大な神への畏敬の念。これもキリスト教から忘れられてはいけない大切な精神ですね。
2015-01-15 木 18:54:27 | URL | 拓也 [編集]
Re: 気持ちはわかります。でも。どうか僕の意見も参考にしてみてください
> 桃栗さんのブログを少し拝見させていただきました。理にかなっていることを書かれている気もします。
(以下略)

これまた典型的なクリスチャンの反応ですね。
すなわち、私の記事に一見賛同しているかのように言っておいて、
結局はまったく賛同していないのです。
貴方の場合、「気持ちはわかります。」と書いておいて、
結局は私の記事に否定的なことを長々と書き連ねるだけ。
結局、私の気持ちなど分かっていないのです。
それに、ちゃんとプロフィールを読みましたか?

記事に直接関係のないご意見・ご感想・批判・賛同などはゲストブックへお願いします。
2015-01-18 日 22:01:27 | URL | 桃栗 [編集]
Re: さらに一言だけ…疑問の助けになれば
> これもキリスト教から忘れられてはいけない大切な精神ですね。

そんなことより、トップ画面左上のプロフィール読みましたか?

「記事に直接関係のないご意見・ご感想・批判・賛同などはゲストブックへお願いします。」

管理人からのお願いはちゃんと読んでください。
そういう大切な精神は忘れているのですね。
2015-01-18 日 22:06:02 | URL | 桃栗 [編集]
僕の意見も参考にしてみてください
>結局全部が嘘っぱちだったとします。僕は笑い者になって、
 
嘘っぱちですよ。
調べればわかるから早く「呆れ果てて自分を笑い」なさい。

復活の記事が聖書の中で最も信頼できない。
聖書の間違い
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/resurection4.html
>顕現の出来事の時と場所に注意して、ルカの記録を調べてみましょう。  特にイエスの顕現そのものに関する記録は、… その証言がほとんど一致しません。
 
 
イエスはガリラヤに現れたのか(マタイ伝)?
エルサレム周辺なのか(使徒行伝)?
120km以上離れている。電車の無い時代にマラソン3本分の距離ですよ。バカバカしい、こんな紙で人様を脅してないで、もっと寛容と人間性を磨きなさい。君の言うものは"神"でも何でもない。低級な悪魔だろう。

●マタイの加筆(脚色)
墓に着いた時、「墓が開いていた」(マルコ16:4 ルカ24:2 ヨハネ20:1)
ところが マタイ28:2
「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」

●墓に行った女が会ったのは(WHO)?
マタイ「石に座る天使がいる」(マタ28:2)
マルコ「中に座っている青年がいる」(マル16:5)
ルカ「輝く衣を着た2人の人がいる」(ルカ24:4)
ヨハネ「2人の天使がいる」(ヨハ20:12)
2015-01-21 水 01:55:20 | URL | 秀和 [編集]
こんばんは。僕の記事を読んでいただいて光栄です。ずいぶんと真剣にお調べされてあるようですね。議論しようとは思いません。信仰は論理的な考えにも基づいていると思いますが、単純な直感や愛によるものもとても大きく、本能的な直感で神の愛を信じ、そして神の霊が確信を心に産むのがはっきり感じられるから、強く信じざるを得ません。この記事をご覧になる人が今後いらっしゃれば、それぞれの選択をされればいいことです。どんな聖書学者も霊によって生まれ変わらなければ天国に入ることができないと、ある人にとっては宝でありある人にとってはゴミである聖書という書物ははおしえています。
2015-01-24 土 23:24:35 | URL | 拓也 [編集]
この牧師の姑息な対応に呆れて物が言えません。
例え走行中に他の車と、擦っただけの物損事故であっても、自分が悪いかどうかは即時に判断出来るはずです。
ましてや夜間人を跳ねたのですから、余程の衝撃があり即座に判断出来るでしょう。
はっきり言って相当の速度に、飲酒運転ではないかと思います。
往生際が悪すぎる!としか言えません。
やはり、ただの宗教の一つとしてのキリスト教ですし、心底イエスと言う人物に共鳴していない、指導者としては失格の男であったとしか、言えないと思います。
もちろん、真理などはありませんけれど!
2015-01-25 日 18:59:19 | URL | マリック [編集]
なんというか・・・・
動物をはねても普通はとまって確認するはずで、そこから逃げたのは人をはねたのを知っていて、牧師のキャリアに傷がつくのが怖くて逃げたのでしょう。

人は咄嗟に本音を出す傾向があって、彼の咄嗟の嘘が「動物をはねた」、この牧師は日本人でありながら、キリスト教の暗黒面の影響によって日ごろから、日本人なんかどうせ動物くらいにしか思っていなかったのだろう。

そして言い訳のネタが「クリスマス」だった。 「イエス様のために忙しかったから・・・。 この牧師はこの瞬間キリストを自ら十字架につけてしまったのです。

キリスト教には確かに良い面もあるが、暗黒面も大きいのです。 クリスチャンたちと対話すればすぐわかるが、暗黒面をなめている、あるいは知っていても暗黒面を見ないようにしているクリスチャンが多すぎる。

なにやら大量の文章と聖典を使って恐怖で反撃されているおそらくクリスチャンがおられるようですが、擁護にもなんにもなってません。 そんなんだから、日本のクリスチャン人口はどんどん減って行ってるのです。
2016-02-04 木 18:24:21 | URL | TH [編集]
なんというか・・・・
訂正「クリスマス」を良い訳に持ち出してイエスを自ら十字架につけたたのは、この伝道師さんでした。

牧師が言うべきだった言葉は、「居眠りで」または「スピード出しすぎで」または「飲酒して人を轢いた」であるべきであって「動物をはねた」ではなかったはずです。

伝道師が本来言うべきだった言葉は「牧師がこんな事故を起こして申し訳ありませんでした」「ご遺族にいくらお詫びしても許されないことをしてしまいました」であるべきであって、「クリスマスのせい」ではなかったはずです。


それから常々思うことですが、何でも主の御心であるのなら、この牧師がひき逃げ事故で自分のキャリアに傷がついたり、キリスト教全体の評判が落ちることも、主の御心であると、当人は本気で思えてるのでしょうかね。 
2016-02-04 木 19:13:57 | URL | TH [編集]
Re: なんというか・・・・
> 動物をはねても普通はとまって確認するはずで、そこから逃げたのは人をはねたのを知っていて、牧師のキャリアに傷がつくのが怖くて逃げたのでしょう。
>
> 人は咄嗟に本音を出す傾向があって、彼の咄嗟の嘘が「動物をはねた」、この牧師は日本人でありながら、キリスト教の暗黒面の影響によって日ごろから、日本人なんかどうせ動物くらいにしか思っていなかったのだろう。
>
> そして言い訳のネタが「クリスマス」だった。 「イエス様のために忙しかったから・・・。 この牧師はこの瞬間キリストを自ら十字架につけてしまったのです。
>
> キリスト教には確かに良い面もあるが、暗黒面も大きいのです。 クリスチャンたちと対話すればすぐわかるが、暗黒面をなめている、あるいは知っていても暗黒面を見ないようにしているクリスチャンが多すぎる。
>
> なにやら大量の文章と聖典を使って恐怖で反撃されているおそらくクリスチャンがおられるようですが、擁護にもなんにもなってません。 そんなんだから、日本のクリスチャン人口はどんどん減って行ってるのです。

どんどん減っていってほしいですね。
その代り、お墓参りや初詣など、
日本の伝統文化は守っていきたいものです。
国際化社会の今だからこそ、
日本の文化をもっと世界に誇る風潮があってもいいと思います。
2016-02-08 月 22:40:06 | URL | 桃栗 [編集]
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