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桃栗

Author:桃栗
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牧師を「先生」と呼んではならない?
皆さんご存知の通り、プロテスタントの教職者のことを「牧師」と呼びます。
実際に呼びかけるときは「先生」または名前を付けて「○○先生」と呼び、
礼拝中や式典など改まった場以外では「○○牧師」と呼ぶことはほとんどないでしょう。
私の知る範囲では、牧師さんは日常的には常に「先生」と呼ばれていました。
しかし、主イエス・キリストの言葉に従うならば、
牧師のことを「先生」と呼んではいけないかもしれないのです。


マタイによる福音書23章で、イエスがこう説いている箇所があります。

(律法学者たちやファリサイ派の人々は)聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。(中略)『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
(マタイによる福音書 23章5節~10節)


ここでイエスは聖職に就く者が傲慢になることを批判しているわけですが、
よくよく考えると、これは「牧師の姿そのもの」ではありませんか?

カトリックの神父ほど豪華ではないにせよ、
プロテスタントの牧師にも立派な衣装があります。
教派や教団、教会によって衣装は異なり、
その牧師によって常に着る人と特別な礼拝にのみ着る人がいますが、
ともかく牧師にも聖なる雰囲気を演出するため(笑)の衣装があります。
そして、教会で会食が行われるとき、牧師はたいてい上座に座りますよね。
周囲のクリスチャンからは「先生、先生」と呼ばれ、
牧師もそれが当たり前だと思っていますよね。

しかし、イエスは自分以外を先生と呼ぶことをはっきりと禁じているのです。
クリスチャンや牧師さんはこのことをご存じないのでしょうか?
また、クリスチャンで学校の教職に就いている方も多いと思いますが、
そういう人たちも「教師」とは呼ばれてはならないそうです。

こういった質問を突きつけたところで、
それは翻訳の問題だ、イエスの話はたとえ話だ、
その言葉の意味はそうではなく実はこうこうである云々と、
あれこれ言い訳をするのでしょうけど。

さて、世の中には聖書を文字通り一字一句信じる
「キリスト教原理主義者」と呼ばれる人たちがいますが、
そういう人たちは自分たちの教会の牧師を何と呼んでいるのでしょうね。
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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

新約聖書の疑問 | 22:31:27 | トラックバック(0) | コメント(21)
コメント
桃栗さん
まったくもって同感です。

なぜか、聖職者は先生と呼ばれるのが好きみたいですね。

先生というよりは尊師とか、師匠とか言う言葉があっているような気がしますが

どういうわけか先生ですから、不思議なものです。

聖書を教えるから先生なのかと、勝手に解釈して
そうだと思い込んでいましたけどね、クリスチャンの頃は・・・、
2011-10-06 木 12:33:49 | URL | すすき [編集]
確かに先生と言われてました。
教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬っていう言葉として、
使われているのだろうと思うけど・・・。
ノンクリの私が「○○先生」と呼ばれているのを聞いてると、
バカにするような意味の「先生」に感じていました(笑)

>こういった質問を突きつけたところで、
>それは翻訳の問題だ、イエスの話はたとえ話だ、
>その言葉の意味はそうではなく実はこうこうである云々と、
>あれこれ言い訳をするのでしょうけど。

そういう風に言うでしょうね。
聖書の文言が都合のいいように解釈されていると、
認めているようにも思える。
特に新興のプロテスタントでは(笑)
2011-10-06 木 15:21:04 | URL | カエル [編集]
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011-10-08 土 08:49:57 | | [編集]
Re: タイトルなし
> 桃栗さん
> まったくもって同感です。
>
> なぜか、聖職者は先生と呼ばれるのが好きみたいですね。

結局、牧師さんもクリスチャンもちゃんと聖書を読んでいないのでしょうね。
あるいは読んでいたとしても、
イエスの話は「たとえ話」だということにして
自分達を正当化するのでしょうね。
2011-10-16 日 18:13:37 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> >こういった質問を突きつけたところで、
> >それは翻訳の問題だ、イエスの話はたとえ話だ、
> >その言葉の意味はそうではなく実はこうこうである云々と、
> >あれこれ言い訳をするのでしょうけど。
>
> そういう風に言うでしょうね。
> 聖書の文言が都合のいいように解釈されていると、
> 認めているようにも思える。
> 特に新興のプロテスタントでは(笑)

カトリックなど他の宗派のことは良く分かりませんが、
プロテスタントは教派やその個人個人によって解釈が異なり、
しかもそれぞれが自分の解釈が真理だと信じているようなところがあります。
2011-10-16 日 18:38:35 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
>  亀谷氏は近江兄弟社の学校で神学教育を受けたそうで、そこでは創設者のウイリアム・メリル・ヴォーリズ氏と他の生徒は同じ地位で、決して「ヴォーリズ先生」ではなく、「ヴォーリズさん」であり、決して「ヴォーリズ先生」と呼ばないようにしていたそうです。
>
>  でも亀谷氏は牧師になり、信者から先生と呼ばれるようになっているので、矛盾しています。
>  要は、誰でも先生と呼ばれたいのだと思います。

結局、師匠の教えは弟子に正しく伝わっていないということですね。
キリストの教えも何世代にも渡って現在まで伝わっているわけですが、
たった2代で重要な教えが忘れられるということは、
2000年も前のキリストの教えが正しく現在まで伝わるはずがありません。

ウィキペディアで経歴を見てみましたが、
ご本人は究極の筋金入りの仏教徒だったようですね。
キリスト教的には、そんな仏教徒だった亀谷氏がクリスチャンになったのは、
まさに神の奇跡だとでも言いたいでしょうけれど、
それにしてもそんな大きな力を持つ?キリスト教を信じる人が
日本ではたった1パーセントの域を出ないのはなぜでしょう。
亀谷氏のケースは「たまたま」としか言いようがありません。
もともと宗教体質だった人が、崇拝対象を仏様からキリストに変えただけです。
もしもキリストの力が本物ならば、
日本中の住職がみんなキリスト教に改宗していますよ(笑)。
2011-10-17 月 22:49:38 | URL | 桃栗 [編集]
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2011-10-18 火 15:45:20 | | [編集]
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2011-10-18 火 20:08:58 | | [編集]
初コメントします。
私はプロテスタント派信徒です。でも日本キリスト教界の矛盾を強く感じています。
新約聖書福音書には教会指導者が、「先生!」と呼ばれて得意気になってはいけないと記されています。でも現状では、日本人牧師の多くが、高慢傲慢に振舞い、「牧師先生」と呼んでもらえなければ、とても不機嫌な顔をします。日本人牧師の多くは、教会責任者とは言わず一信徒を名乗ってはいますが、教会の中では独裁者になり果てています。日本人牧師の自尊心プライドの強さは、世界的に有名です。他宗教に対する優越心と他宗教への蔑視。カトリックに対する蔑視差別。時代錯誤も甚だしい宗教対立を煽る行為ばかりしています。
主イエス様を、この上なく悲しませて続けている日本人牧師達です。
2011-10-28 金 20:54:24 | URL | 仁愛奉献 [編集]
Re: タイトルなし
> 私はプロテスタント派信徒です。でも日本キリスト教界の矛盾を強く感じています。
> 新約聖書福音書には教会指導者が、「先生!」と呼ばれて得意気になってはいけないと記されています。でも現状では、日本人牧師の多くが、高慢傲慢に振舞い、「牧師先生」と呼んでもらえなければ、とても不機嫌な顔をします。日本人牧師の多くは、教会責任者とは言わず一信徒を名乗ってはいますが、教会の中では独裁者になり果てています。日本人牧師の自尊心プライドの強さは、世界的に有名です。他宗教に対する優越心と他宗教への蔑視。カトリックに対する蔑視差別。時代錯誤も甚だしい宗教対立を煽る行為ばかりしています。

ご訪問ありがとうございます。
結局、趣味の世界も宗教の世界も、
組織が大きくなってくるとその中で「仕切りたがる人」が出てくるものです。
私も、クリスチャンが他宗派や他教団のことを悪く言うのを何度も目にしました。


> 主イエス様を、この上なく悲しませて続けている日本人牧師達です。

日本だけではなく、どこの国も似たようなものでしょう。
私は、日本と西洋は世間で言われているほどには変わらないように思えます。
あちにも本音と建前がありますしね。
ともかく、キリスト教に矛盾を感じていらっしゃるなら、
おやめになった方がいいですよ。
2011-11-01 火 21:36:03 | URL | 桃栗 [編集]
はじめまして。
私は一応カトリックですが、
司祭を神父様と様付けするのにはかなり疑問を感じます。

そしてプライドが高く司祭と信徒の差を強調する人も多い。

最近信徒が減少してるらしく潰れる潰れると危機感が語られていますが、
元々司祭のための宗教なので、潰れるとしても当たり前だと思います。
2011-11-03 木 22:05:01 | URL | かな [編集]
Re: はじめまして。
> 私は一応カトリックですが、
> 司祭を神父様と様付けするのにはかなり疑問を感じます。
>
> そしてプライドが高く司祭と信徒の差を強調する人も多い。

こんにちは。
私はプロテスタントなのでカトリックの世界を体験したことがないのですが、
なんとなくカトリックの聖職者はお高く留まった印象を持っていました。
やはり「神父様」はプライドが高いのですね。
イエスは聖職者が豪華な衣装を着ることを非難しているのに、
カトリックの神父の衣装は豪華ですよね。
もしもイエスがタイムマシンに乗って現代にやって来たとして、
豪華な衣装に身を包んだローマ法王や神父たちを見たら、
果たしてイエスは彼らを賞賛するでしょうか?
答えはおそらくノーでしょう。
聖書の中の祭司長、律法学者、パリサイ人の時と同じように非難したに違いありません。


> 最近信徒が減少してるらしく潰れる潰れると危機感が語られていますが、
> 元々司祭のための宗教なので、潰れるとしても当たり前だと思います。

最近、クリスチャンホームに育ったというアメリカ人と話をしましたが、
「クリスチャンが多かったのは私の親の代までで、
今の若い人は教会に行かない人が多い」と言っていました。
ほかに、ニュージーランドのクライストチャーチのカトリックの家庭に育ったという人も、
「キリスト教は偽善的」と言っていました。
日本でも西洋でも「キリスト教離れ」は起こっているようです。

ただし、誤解のないように付け加えておきますが、
私はキリスト教を全面否定まではするつもりはありません。
あくまでも「数多くある宗教の中の一つ」に過ぎないと言いたいのです。
例えば、風水、占い、迷信、言い伝えなどにこだわるのと同じように、
あくまでもキリスト教は現実逃避の手段の一つに過ぎないのです。
2011-11-05 土 22:52:05 | URL | 桃栗 [編集]
聖職者の救済でしかない
>あくまでもキリスト教は現実逃避の手段の一つに過ぎないのです。

桃栗様のおっしゃるとおりです。 キリスト教の矛盾や疑問点をズバリ見抜いていらっしゃるので、驚いている反面、痒いところに手が届くような
爽快感があって、見ていて飽きないですね。

私もキリスト教はあまりいいイメージをもてない人間です。
特にキリスト教は「聖職者の救済」という気がしてならないのは
私だけでしょうか?

教会内でご都合主義を貫くような独裁王国のような組織を作り上げているようにも感じられます。

私たちみたいな心の弱い人々に「罪の意識」という重荷を背負わせておきながら救いを説く、それで毎日毎日、罪の悔い改め(懺悔)と献金を捧げ続けることを習慣化し、その事があたりまえのように教える、
今の私から言わせると、くだらないとしかいえません。

罪を毎日悔いる生活・・・、いったいいくら神様に罪を悔い改めたら、私たちの罪がゆるされるんだろう?

桃栗さん、疑問に感じませんか? 懺悔を日々繰り返すことじたい この時からどうもおかしいと感じるとおもうんですが?

アダムとイブの原罪はイエスの十字架の購いによって清められたと
ある聖職者が言っていたのを思い出しましたが、
キリスト教の罪って考え自体、「やっかいもの」だと感じます。

聖職者らにとっては、キリスト教自体、自分自身を救う救済でしかないでしょう。 献金が少なかった教会は他の教会から金の援助があるので、
生活資金には困らないのではないでしょうか?

2011-11-24 木 15:22:35 | URL | すすき [編集]
Re: 聖職者の救済でしかない
> >あくまでもキリスト教は現実逃避の手段の一つに過ぎないのです。
>
> 桃栗様のおっしゃるとおりです。 キリスト教の矛盾や疑問点をズバリ見抜いていらっしゃるので、驚いている反面、痒いところに手が届くような
> 爽快感があって、見ていて飽きないですね。

私は信仰を捨てた頃を境目にして、物の見方がガラッと変わったと思います。
私の目から「信仰という名のフィルター」が取れたせいか、
キリスト教だけでなく、一般社会のいろんな矛盾が透けて見えてしまうのです。
実は、キリスト教だけではなく、
社会の矛盾に突っ込みを入れるブログもやりたいと思っていますが、
時間の都合で無理でしょう。
ともかく、いろんな矛盾が目に付いて、気になって仕方がないので、
なんだか暮らしにくくなったなあと思います。
自分がずぼらで大ざっぱな性格だったらいいのにと思うことがあります。


> 私もキリスト教はあまりいいイメージをもてない人間です。
> 特にキリスト教は「聖職者の救済」という気がしてならないのは
> 私だけでしょうか?
>
> 教会内でご都合主義を貫くような独裁王国のような組織を作り上げているようにも感じられます。

カトリックがその好例ですね。
もはや政治組織か軍事組織みたいなものです。


> 私たちみたいな心の弱い人々に「罪の意識」という重荷を背負わせておきながら救いを説く、それで毎日毎日、罪の悔い改め(懺悔)と献金を捧げ続けることを習慣化し、その事があたりまえのように教える、
> 今の私から言わせると、くだらないとしかいえません。

まったくくだらないですね。
教会では「キリストの愛」「罪からの救い」などをしきりに説きますが、
わざわざ「あなたは罪びとです」という思想を植え付け、
その上でキリストの愛を説くのですから、
本当に恩着せがましい宗教です。
キリスト教は「罪の意識」という重荷を背負わせる宗教です。


> 罪を毎日悔いる生活・・・、いったいいくら神様に罪を悔い改めたら、私たちの罪がゆるされるんだろう?
>
> 桃栗さん、疑問に感じませんか? 懺悔を日々繰り返すことじたい この時からどうもおかしいと感じるとおもうんですが?

私も、いつまで懺悔をすればいいのだろうかと不安でした。
いつ、どのぐらいの頻度で、どのぐらい、どんな風に、いつまで懺悔すればいいのか、
教会では教えてくれませんでしたから。
とにかく、全知全能の神は神は四六時中、
人の心の中まですべて見ておられると教わってきたので、
常に自分は「神の監視下」にいるのだという感覚がありました。


> アダムとイブの原罪はイエスの十字架の購いによって清められたと
> ある聖職者が言っていたのを思い出しましたが、
> キリスト教の罪って考え自体、「やっかいもの」だと感じます。

聖書自体がやっかいな書物ですね。
これまで人類がどれほどこの書物に振り回されてきたことでしょう。


> 聖職者らにとっては、キリスト教自体、自分自身を救う救済でしかないでしょう。 

聖職者の自己満足ですね。

> 献金が少なかった教会は他の教会から金の援助があるので、
> 生活資金には困らないのではないでしょうか?

これはその教会や教団によるかもしれません。
私の知る例では、ある地方の教会が、少子高齢化で信徒数が減り、
閉鎖になったところがあります。
少子高齢化だけが原因ではなく、
キリスト教が時代に合わなくなったのかも知れません。
2011-11-27 日 20:34:40 | URL | 桃栗 [編集]
www.shindharmanet.com/japanese/chapter1.htm
こちらは亀谷氏とは逆で、
キリスト教から浄土真宗に改宗したアルフレッド・ブルーム氏の例。
もともと根本主義者で、日本で宣教師として活動する直前まで至っていたそうです。
人によってどこでなにがツボに入るか、わからないものですね。

欧米ではハレ・クリシュナ運動が話題になったことがありますが、
あれも従来のバラモン教と異なり、厳格な修行なしでも信仰だけで
社会人として暮らしつつ救済される、というギーターの教えによるものでした。
キリスト教や浄土真宗とも通ずるメッセージ性です。
自分の知らない異文化から見知った教えが提示されると
新鮮に見えてくるものなのでしょうか。

ここで「普遍的」と捉えるか「ありふれた、陳腐な」と捉えるかで
道は分かれてくるのでしょうね。
2011-12-11 日 07:06:47 | URL | ごおや [編集]
キリスト教は、ほかの宗教より複雑
桃栗さん、返答ありがとうございます。

身にしみて感じさせられることは、
キリスト教は、複雑すぎて、難しい宗教だなと思うところです。
難しいゆえに、心が折れることもあります。

何でキリスト教が難しいかというと・・・、
これはわたしの思い込みかとおもいますが・・・、
ズバリ言うと、「キリスト教を信じるだけでは決して救われない・・・!!」と
感じてしまったからです。

教会では、教えを説きますけど、ただ単に信じるだけでは救われないようなカラクリがあるように思えて、
牧師や神父とか聖職者の教えは、救いを語っておきながら、救われるために、さらなる条件や問題を信者たちに吹っかけてくるように感じるんです。
たとえば、毎日罪の悔い改めとか、献金を多めに捧げるとか
聖書を毎日5ページ読むとか、

私が行っていた教会なら、断食をしたり、夜が明ける前の祈り(朝の5時)とか、大変でした。
それを信者たちに、そうしなさいと教えるわけですから、たまりません。

ですから、単に信じるだけでは救われないというのは、そういった教えに追加条件を付けて信仰をより難しいものにしてしまっていると思います。


桃栗さん、聖職者たちって、本当に自分本位だと思います。
救われて簡単に心が満たされることがないように、希望というものを、
信者の手の届かないところに、わざと置くのですから
だからあんなにも無理難題の条件を付け加えるとおもう。
2011-12-23 金 14:36:53 | URL | すすき [編集]
あと、牧師の思惑にまんまとハメられて
精神的に追い詰められるような、奉仕をさせられたり

とにかく牧師に絶対服従することが、唯一の救いの道みたいな
そんな宗教は、本当にカンベンしてほしいです。
私もそこまではタフな人間ではありませんので・・・・、

人間、耐えられないときは、心が折れますから・・・、

2011-12-23 金 14:53:27 | URL | すすき [編集]
Re: タイトルなし
> www.shindharmanet.com/japanese/chapter1.htm
> こちらは亀谷氏とは逆で、
> キリスト教から浄土真宗に改宗したアルフレッド・ブルーム氏の例。
> もともと根本主義者で、日本で宣教師として活動する直前まで至っていたそうです。
> 人によってどこでなにがツボに入るか、わからないものですね。

この方も元々宗教体質だったために、
崇拝対象をキリストから仏様に変えただけでしょうね。
2011-12-25 日 12:16:22 | URL | 桃栗 [編集]
Re: キリスト教は、ほかの宗教より複雑
> 桃栗さん、返答ありがとうございます。
>
> 身にしみて感じさせられることは、
> キリスト教は、複雑すぎて、難しい宗教だなと思うところです。
> 難しいゆえに、心が折れることもあります。

同感です。
キリスト教は、複雑で難しくて抽象的で理解しにくいのに、
教会の中ではあたかもちゃんと理解したように振舞わなければなりません。


> 何でキリスト教が難しいかというと・・・、
> これはわたしの思い込みかとおもいますが・・・、
> ズバリ言うと、「キリスト教を信じるだけでは決して救われない・・・!!」と
> 感じてしまったからです。
>
> 教会では、教えを説きますけど、ただ単に信じるだけでは救われないようなカラクリがあるように思えて、
> 牧師や神父とか聖職者の教えは、救いを語っておきながら、救われるために、さらなる条件や問題を信者たちに吹っかけてくるように感じるんです。
> たとえば、毎日罪の悔い改めとか、献金を多めに捧げるとか
> 聖書を毎日5ページ読むとか、

まったくもってその通り。
教会では、牧師が礼拝で次のような言葉を引用して、
キリストを信じる者は誰でも救われると説きますよね。


疲れた者、重荷を背負う者はだれでもわたし(イエス)のもとに来なさい。
休ませてあげよう。(マタイ11:28)

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマの信徒への手紙 10:13)


ところが、キリストを信じれば誰でも救われるかのように説く一方で、
実際には毎週日曜の礼拝を守りなさい、献金しなさい、
いつも祈りなさい、いつも神に感謝しなさい、
あなたは生まれながらにして罪びとだからいつも懺悔しなさい等等、
救いを得るための様々な義務を背負わされることになるのです。
挙句の果てには、
「救われて天国に行けるかどうかは私たちには分からない。
それは神の御心によって決められるのです」
などとのたまう始末。
では、いったいどうしろと言うのでしょう。
一般向けのパンフレットなどには「重荷を背負う者は~」の言葉を引用して人を釣り、
いざ教会へ行けば様々な信仰上の義務を背負わされるのですから、
これは詐欺以外の何物でもありません。


> 私が行っていた教会なら、断食をしたり、夜が明ける前の祈り(朝の5時)とか、大変でした。
> それを信者たちに、そうしなさいと教えるわけですから、たまりません。

私の所属していた教派には断食の習慣はありませんでしたが、
我が家には毎週日曜の礼拝はもちろん、朝晩のお祈りの習慣がありました。
普通の子供は日曜日は自由に遊べるのに、私には日曜日がなかったのです。
私の日曜日を返して欲しいです。


> ですから、単に信じるだけでは救われないというのは、そういった教えに追加条件を付けて信仰をより難しいものにしてしまっていると思います。

その通り。
ああいなさい、こうしなさいと後付けでいろいろと押し付けられるのですから、
たまったものではありません。


> 桃栗さん、聖職者たちって、本当に自分本位だと思います。
> 救われて簡単に心が満たされることがないように、希望というものを、
> 信者の手の届かないところに、わざと置くのですから
> だからあんなにも無理難題の条件を付け加えるとおもう。

いい例えですね。
手が届きそうで届かないところに「救い」を置き、
信者はその届かない目標に向かって一生走り続けているのです。
そんな信仰生活に私は疲れました。
私の青春を返して欲しいです。
2011-12-28 水 22:58:49 | URL | 桃栗 [編集]
クリスチャン出て行け。
私も教会に通っていた物ですが、ホントクリスチャン大嫌いです。神の御心だと言って努力する事を否定したり、クリスチャンはクリスチャン同士で結ばれる事を好きでもない同士で無理やり結婚させたりそれでお互いいが、不幸なっても神の御心です。ハレルヤと言ってくるクリスチャン、本当に大嫌いです。
全てのクリスチャン 牧師 宣教師 貴方方は本当に人の幸福や痛みや喜び悲しみを理解してますか?愛だ愛だ口先ばかりで自分達が格好いい存在だと勘違いしてせんか?
2015-09-22 火 22:02:47 | URL | 偽善もいい加減にせーよ [編集]
Re: クリスチャン出て行け。
> 私も教会に通っていた物ですが、ホントクリスチャン大嫌いです。神の御心だと言って努力する事を否定したり、クリスチャンはクリスチャン同士で結ばれる事を好きでもない同士で無理やり結婚させたりそれでお互いいが、不幸なっても神の御心です。ハレルヤと言ってくるクリスチャン、本当に大嫌いです。
> 全てのクリスチャン 牧師 宣教師 貴方方は本当に人の幸福や痛みや喜び悲しみを理解してますか?愛だ愛だ口先ばかりで自分達が格好いい存在だと勘違いしてせんか?

ええ、勘違いしていますね。
まるで自分たちが特権階級だと思っているようです。
キリスト教の特徴の一つは、
「非信者」にまでその価値観を押し付けることです。
そんなことをするのはキリスト教ぐらいなものです。
例えば、アジアの仏教圏の人は、
「欧米人は仏様を信じていないから成仏できない。何と罰当たりな!」
なんて言いませんよね。
他に、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教なども、
それを信じていない国民を見下したりはしませんよね。
非信者を見下す宗教の代表格がキリスト教です。
2015-12-15 火 21:29:06 | URL | 桃栗 [編集]
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