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桃栗

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あるクリスチャンの自殺死 その3
前回の続きで、これで最後にします。


キリスト教会が伝道する時にしばしば引用される有名な聖句があります。

疲れた者、重荷を背負う者はだれでもわたし(イエス)のもとに来なさい。
休ませてあげよう。(マタイ11章28節)


この聖句が教会の看板やHP、チラシ、パンフレットなどでよく見受けます。
こうして教会側は、キリスト教が「癒し」の宗教であると説きます。
しかし、Aさんはクリスチャン2世であったにもかかわらず、
その「重荷」を降ろすことなく自ら命を絶ったのです。

憤りを感じたのは、牧師さんが説教でこのように説いていたことです。
「Aさんは、この世で多くの重荷を背負っていました。
しかし、今、天国へ召され、キリストの愛によってその重荷は降ろされたことでしょう」

マタイ11章28節で説いている「癒し」とはそういう意味なのですか???
重荷を背負って自殺し、天国で重荷を降ろすのが「癒し」なのですか????
それが神の愛でありキリストの愛なのですか??????
あたかも教会側は、現世において重荷が降りるかのように説いておきながら、
「この世」で重荷を降ろせず自殺した人に関しては
「あの世」で重荷を降ろしたことにして
人の自殺を「美化」しているだけではないですか。
こんな「ご都合主義」の宗教を「この世の真理」だと信じていた私が馬鹿でした。

ともかく、私はこの葬儀の一部始終を冷ややかな目で観察しながら、
感情を抑えて平静を装っていました。
葬儀が執り行われている間は、私は悲しみの感情はあまりなく、
まったく泣きたくなる気持ちにもなれず、
キリスト教やクリスチャンに対する憤りや疑問の気持ちで一杯でした。
このときは私は強気でいたつもりでした。

しかし、教会を後にして一人で電車で帰途に就いたころ、
緊張の糸がぷっつりと切れたのでしょう、
涙が止まらなくなってしまったのです。
周囲に大勢の人がいて恥ずかしいいのは分かっているのに、
もう自分の感情を抑えることが出来なくなっていました。
「涙がとめどなく流れる」という表現がありますが、まさにそれです。
Aさんを失った悲しみとキリスト教やクリスチャへの怒り、
そして私がAさんの力になってあげられなかった後悔の念が入り混じり、
私は帰宅するまでの数時間の間泣き続けました。

自宅にたどり着くまでの間、本当に胸が苦しかったです。
実際の時間以上に長く感じられました。
こんなにも泣き通したことは一度もなく、またこれからもないでしょう。
やっとの思いで自宅に着き、鏡を見たとろ、
私の目は信じられられないぐらいに真っ赤に染まっていました。
白目の部分が血を塗ったかのように真っ赤になっていたのです。
私は次の日は仕事に行くつもりでいましたが、
ショックで休んでしまいました。

私は信仰を捨てて以来、もうキリスト教へは戻りたくないと思っていましたが、
このAさんの葬儀の一部始終を見て、
もうこの宗教には二度と戻らないという決意を新たにしました。
何でもかんでも「神の御心」の言葉で美化するご都合主義の宗教を
この世の絶対的な基準だと信じていた私が大馬鹿でした。

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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

キリスト教の事件簿 | 22:02:18

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