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桃栗

Author:桃栗
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インマヌエルの預言の引用元と引用先に見られる微妙な違い その2
では、昨日の「その1」の続きを書きたいと思います。
最近仕事が非常に忙しいですが、この時期にどうしても書いておきたいので、
ブログの更新を優先させて、
コメントへのレスは大幅に割愛させていただいております。


以前、私がインマヌエルの預言は当っていないのではないかと書いた時、
何人かのクリスチャンからは、預言は当っているという反論がありました。
そのときに根拠として挙げられたのは、聖書の次の箇所です。

この方は(注)、初めに神と共におられた。(ヨハネ1:2 新改訳)
(注)新共同訳、口語訳では「この言(ことば)は」となっている。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、
だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ3:2)


「つまり、ナザレのイエスのことです。
神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。
イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、
悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、
それは、神が御一緒だったからです。」(使徒言行録10:38)

クリスチャン側の主張としては、
インマヌエルとは「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)という意味であり、
実際にイエスはそう呼ばれているのだから、
インマヌエルの預言は当っているというものでした。

しかし、残念ながらクリスチャンは都合よく意味を脳内変換していらっしゃいます。
マタイ1:23をよくお読みください。
そこには「神は”我々と共に”おられる」と書かれているのです。
英語の聖書(NRSV)にも‘God is with us.’とあります。
「イエス(この方、あなた)が神とと共におられる」ではないのです。

そして、本記事の「その1」に書きましたが、英語の聖書では、
イザヤ書7:14では「母親自身が息子をインマヌエルと呼ぶ(名付ける)」とあり、
マタイ1:23では「人々がその子をインマヌエルと呼ぶ(名付ける)」とあるのです。
ところが、母マリアが息子をインマヌエルと呼んだこともなく、
また「神が共におられる」と呼びかけたこともないのですから、
この預言は当っていないと考えざるを得ません。

英語の聖書がすべて絶対に正しい保障はありませんが、
このように英語訳でははっきりと主語が違うということは、
原文のヘブライ語(旧約)やギリシャ語(新約)にもそれ相当の違いがあると考えられます。
しかし、正統派キリスト教の聖書であるはずの口語訳、新改訳、新共同訳では、
いずれも主語をぼやかしたような訳し方になっています。

一方、この主語の違いを明確に区別している日本語訳の聖書があるのをご存知ですか?
それは、あのエホバの証人の新世界訳聖書です。

見よ,乙女が実際に妊娠して,男の子を産みます。
彼女はその名を必ずインマヌエルと呼ぶでしょう。(イザヤ7:14)

「見よ,処女が妊娠して男の子を産み,
彼らはその名をインマヌエルと呼ぶであろう」(マタイ1:23)


ご丁寧にもなぜかイザヤ書には「必ず」という副詞まで加わっています。
もっとも、新世界訳聖書は原典を参照しつつ英語から訳した聖書だそうですから、
言われてみると確かにいかにも英語から訳されたような感じがなくもありません。

さて、いわゆる正統派キリスト教側は、
エホバの証人の聖書を「改ざん聖書」だとして完全否定していますが、
もしも原典におけるインマヌエルの預言の主語がこの通りだったら、
キリスト教の聖書の方が実は改ざんされていたなんてことになりかねませんね。

話を元に戻しましょう。
日本語訳の聖書の問題点を指摘するクリスチャンは、
必ず英語の聖書を引き合いに出してきますが、
その英語の聖書では「インマヌエルと呼ぶ」の主語が違っています。
それでも預言は100パーセント当ったと言えるのでしょうか。
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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

クリスマスの疑問 | 23:59:26 | トラックバック(0) | コメント(16)
コメント
ユダヤ人の解釈
桃栗さま

メリークリスマス!


ユダヤ人もタイトルの件で伝道者からふっかけられて困ってるみたいですww


www.askmoses.com/en/article/255,531/How-should-I-answer-missionaries-who-say-that-Jesus-is-named-Immanuel-and-is-Messiah.html



一度彼らの議論を見てみるといいかもです。
2010-12-24 金 03:20:29 | URL | 未信者 [編集]
桃栗様

お仕事がお忙しいとのことですが、
体を壊さない程度に、頑張ってください!!

>残念ながらクリスチャンは都合よく意味を脳内変換
これって、まさにその通りです。
「キリスト教脳」って感じです。
大脳、小脳、キリスト教脳ってあるんじゃないのかと思うほど。
2010-12-28 火 21:32:16 | URL | ねこ [編集]
イエスはインマヌエルという名にふさわしい存在である-その1
 yomo です。 長文になり、失礼いたします。

 桃栗さんが、綿密に聖書を検討していることに敬意を表します。

 私は、聖書に対する純粋な関心、及び下記主題に限って記述いたします。
(桃栗さんのインマヌエル関係の記事を読みました。
2008-12-09、2009-12-25、2010-12-22、同23です。一連の論議全体に
関係があるので、本2010-12-23コメント欄に、分けて記します。)
[以下、翻訳は口語訳聖書1954年版を引用します]

【結論】
インマヌエルという名に関して:
1.イザヤ7:14は、当時の男子に人名として名付けられることを預言しており、その実現は、しるしとしての意味があった。
2.マタイ1:23は、インマヌエルという名の意味にふさわしい人物が出現したことを指摘している。

【理由】
マタイが引用したイザヤの預言と、実際にイエスと名付けられたことが不一致であるかについて

 桃栗さんの2008-12-09記事によると、不一致であるとする根拠は次の点になると思われます。
「天使の指示、および実際にイエスに名付けられた名前が、マタイが引用したイザヤの預言どおりではなかったから不一致であるし、インマヌエルと呼んだ証拠がないから預言は成就していない。」
以上の前提で検討します。

1.まず、聖書はマリアの初子がインマヌエルと名付けられるという趣旨で述べているかを検討します。

 マタイの記述によると、ヨセフが夢の中でマリアの出産の予告及び「イエスと名付けなさい」との
指示を受けたことを記述しており、続いて、ただちに「22 すべてこれらのことが起ったのは、主が
預言者に よって言われたことの成就するためである。すなわち、23 「見よ、おとめがみごもって男の
子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。 これは、「神われらと共にいます」
という意味である。」と書かれています。

2.そこで、「呼ばれる」との記載が、必ず名付けられることを意味するかについて検討します。

 マタイの記述をもう一度見てみます。すると、マタイは「イエスと名付けなさい」との主の使の
指示を知りながら、「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」との預言が成就した、と書いて
いることがわかります。ここで重要なことに気が付きます。

 (1)「イエスと名付けなさい」との指示は具体的な指示だった。
 (2)親は赤子に同時に二つの名を名付けることは普通はしない。

 すると、イエスと名付けられたにもかかわらず「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」との
預言が成就したとしていることは、「呼ばれる」との表現が、 必ず名付けられるとの趣旨であるか
否かを検討する手がかりといえます。

それで、ある名で「呼ばれる」「となえられる」という表現の意味を検討する必要があります。
(ただし「引用元と引用先に見られる微妙な違い」における論点とはやや異なります)

 私はここで、イザヤ書、ヨシヤ王、及びバプテスマのヨハネの記述を引用します。

 (1)イザヤ 9:6「 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、…まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。」
-「 ひとりのみどりご」はイエスにおいて当てはまるとされています。しかし、イエスは
文字どおり「平和の君」などとは名付けられませんでした。

 (2)列王紀上13:2「…主はこう仰せられる、『見よ、ダビデの家にひとりの子が生れる。
その名をヨシヤという。彼は…』」。
-この場合、列王紀下21:24で「そして…アモンの子ヨシヤを王としてアモンに代らせた。」と
書かれており、文字どおり名付けられる仕方で実現しました。

 (3)バプテスマのヨハネが「エリヤ」と見なされていた記述です。
 マラキ書4:5では「見よ、…わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。」とあり、
マタイ11:13-14では「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。
そして、…この人こそは、きたるべきエリヤなのである。」と言ったと書かれています。
-いうまでもなく、バプテスマのヨハネはエリヤと名付けられませんでした。
 もちろん「呼ばれる」とではなく「エリヤを」「エリヤなのである」と表現されています。
しかし、ある特定の人物について、予告された名と実際の人名が異なる事例といえます。

 すると、ある名で「呼ばれる」「となえられる」と予告されている場合、必ず人名として
名付けられるといえるでしょうか?
 上記のとおり、さまざまな場合があり、必ずそう名付けられるとは限りません。
(その2に続く) [3/4 若干の表記を訂正しました。]
2011-03-03 木 20:55:35 | URL | yomo [編集]
イエスはインマヌエルという名にふさわしい存在である-その2
 yomo です。たいへん長文になり、失礼いたします。

 では、インマヌエルと呼ばれることはどうなったのでしょう。

 イエスが“インマヌエル”と呼ばれるにふさわしい存在である、といえます。

 ただし、それをもってただちに「イエスは「神が私たちとともにおられる」
という名だからイエスという神様が来られた、だからイザヤの預言は実現した。」
との主張は採用できません。その理論はイザヤの当該預言の趣旨とは相容れません。

 この点は、桃栗さんの「引用元と引用先に見られる微妙な違い」の点とも関係が
あります。桃栗さんはとても注意深く調べておられるので感心しています。

3.そこで、インマヌエルの預言の趣旨を検討します。

 まず、イザヤ書の「インマヌエルの預言」をもう一度見てみます。すると、
イザヤ7:14は「 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。」
とのことばで始まっています。
この“インマヌエル”は、ある「しるし」として生まれるというわけです。

 何の“しるし”ですか。
 まず、しるしが与えられる経緯を見てみます。イザヤ7章はユダ(ダビデの王統)が
軍事的脅威にさらされた事件を記述しています。
 そこでイザヤが遣わされ、7節でユダを防御する旨の神の意志を伝えています。
そのとき、当時のユダの王アハズは次のように告げられます。
「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ」(11節)
ところが、この王「わたしはそれを求め…ません」と拒否します。
すると「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。」と言われ、
そのしるしは男子の誕生でありインマヌエルと呼ばれることだと書かれています。

 では、インマヌエルが「しるし」であるとはどういう意味ですか?
「インマヌエル」の字義は「神われらと共にいます」(マタイ1:23)ということです。
すると、イザヤ書に基づく当時の経緯に照らすと、しるしの意味は、神はダビデとの
契約を忘れたり、ユダを捨ててはいない、という趣旨のしるしであるに違いありません。

 ダビデとの契約とは、神の是認する方法で支配する王を実現する趣旨の契約であり、
つまりは、人類の被っている災いからの救出手段を実現する契約です。
 ゆえに、「しるし」は、神が人類を見捨ててはいない証拠という重要な意味を持って
います。

 以上、インマヌエルの預言は、ダビデの王統であるユダを防御することにより、
ダビデとの契約を履行し、もって神が立てる王を実現するという神の意志を確証
する「しるし」として子が誕生し、インマヌエルと呼ぶ、となえられるという趣旨
であるといえます。

 すると、マタイ1:23ではイザヤ書が引用されている以上、引用部分の趣旨は
イザヤ7:14の趣旨に合致していると見るのが相当でしょう。

 4.では、イエスはイザヤ7:14の趣旨に合致していたかを検討します

 まず、イエスは、神がダビデとの契約を履行することと関係がありましたか。
イエスがダビデの家系であることは、マタイ1:1ほか多くの証拠があります。
これは、イエスがダビデとの契約の当事者であることを裏付けています。

 もちろん、ダビデの子孫はイエスの他にも多数います。では、イエスには本当に資格が
あったといえますか。ここで、イエスの資格について直接言及する聖句があります。
マリアに語りかける場面のルカ1:32です。
「…主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、…その支配は限りなく続くでしょう。」
 (他にもイエスがダビデの王統を継承する趣旨の聖句があるのですが割愛します。)

 以上のとおり、家系、誕生時の御使いの宣言、イエスの生き方についての証拠を知り、
イエスの立場、役割、成し遂げたことの意味を理解し、受け入れた者たちは、
イエスの存在こそ、インマヌエルの名にふさわしい、合致していると認めるのです。
そのような意味で、マリアの初子はインマヌエルと「呼ばれ」ているといえるのです。

 ゆえに、マリアがインマヌエルと呼びかけなかったから預言が成就していないとの
見解は、預言の趣旨を考慮に入れずに、名付けたか否か、呼びかけたか否かだけで判断
しておられる、ということになるでしょう。

 桃栗さんは
>しかし、正統派キリスト教の聖書であるはずの口語訳、新改訳、新共同訳では、
>いずれも主語をぼやかしたような訳し方になっています。
>一方、この主語の違いを明確に区別している日本語訳の聖書がある…
と書いておられます。
 確かに、イザヤの当時のインマヌエルは、王になったわけでもなく、家族か
せいぜい関係者が「呼ぶ」程度だったといってよいでしょう。一方、イエスの場合は、
上記のとおり、ダビデの王座を与えられる立場であり、預言的な意味合いを持つ称号
として、はるかに多くのものたちによって「呼ばれる」ことになったといえるでしょう。
 桃栗さんの指摘は、上記の意味で理由があります。
 一方、預言の成否を、呼びかけたか否かだけで判断できないことを考慮すれば、
だれが文字どおり「呼ぶ」かは決定的な要素とはいえないでしょう。

 最後に、桃栗さんが2010-12-23記事で、クリスチャン側の主張に対して展開している
指摘は的確です。
>マタイ1:23をよくお読みください。
>そこには「神は”我々と共に”おられる」と書かれているのです。
>「イエス(この方、あなた)が神とと共におられる」ではないのです。
そのとおりです。

 なお、私のその1、その2のコメントを通して示した、イエスをインマヌエルと「呼ぶ」
ことの意味によれば、例えば「聖書がイエスをインマヌエルと呼ぶことによってイエスを
神としている」旨の主張は理由が無く、私は採用できません。

以上です。[3/5 表現を一部訂正]
2011-03-03 木 21:00:41 | URL | yomo [編集]
yomoさんへ

yomoさんのコメントを見て、考えてみました。

「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」

ですが、これは、どういうことかを考えてみました。

yomoさんが生まれる前に、母のお腹にいるときに、誰かが、

「これから生まれる子の名は、「勇気」と呼ばれるであろう。この勇気とは~こういう意味で~・・」

と預言された後、天使が

「その子の名は、「yomo」と名付けなさい。」

と言われた場合、やはり、その「その名は「勇気」と呼ばれるであろう」という預言に関して、前後等の意味や、「勇気」と言うことに関して理解する必要があるということでしょうか。


う~ん、いまいちよくわかりません。

「インマヌエル」を「勇気」、「イエス」を「yomo」と置き換えること自体が間違ってるのかな?


〇〇と▲▲にしようかな。

「その名は〇〇と呼ばれる」 VS 「その名は▲▲と呼ばれた」

〇〇⊇▲▲ 

っていうことでしょうか。

う~ん、やっぱり、預言通り、「その名はインマヌエルと呼ばれた」らすっきりかもね。

でもみんな「イエス」って言ってる。

2011-03-10 木 00:57:13 | URL | osiete [編集]
Re: イエスはインマヌエルという名にふさわしい存在である-その2
yomo様

せっかくのコメントですが、冗長で分かりにくく要点が分かりません。
コメントは長ければ良いというものではありません。
要点が大事なのです。

まず、私は
「預言は100パーセント当ったと言えるのでしょうか。」
と問いかけているのですから、
答えは「はい」「いいえ」の二つに一つではありませんか?
ところがyomoさんはどちらともはっきりおっしゃらず、
聖書の別の箇所をあれこれ引用し、
いろいろと理由付けをしたりして要点を得ていません。

そして、「呼ばれる」「となえられる」とはそういう意味ではないとか、
ちょっと都合が良すぎませんか?
あなたがクリスチャンかどうか知りませんが、
クリスチャンに聖書の矛盾点を指摘すると、
「その言葉はそういう意味でない」などと言い訳する習性があります。
yomoさんのコメントもそれと同じです。

もしも預言が「預言は100パーセント当った」という自身がおありでしたら、
はっきりと「はい、当たっています」と言えるはずだと思うのですが。
2011-03-21 月 18:12:51 | URL | 桃栗 [編集]
イエスはインマヌエルという名にふさわしい存在である-補足
桃栗様

yomoです。
「2011-03-21 月 18:12:51」のコメントを拝読しました。

桃栗さんは,

>まず、私は「預言は100パーセント当ったと言えるのでしょうか。」
>と問いかけているのですから、
>答えは「はい」「いいえ」の二つに一つではありませんか?
>ところがyomoさんはどちらともはっきりおっしゃらず、

と述べておられます。
失礼ですが,申し上げます。(聖書の内容関係に限り記述します。)

私が「当った」とか「当っていない」などの形で書かない理由は

・判断の理由が重要である。
・だれもが否定することができない事に基づいた理由を示していないなら,
 その判断の基礎は弱い。

と考えるからです。

桃栗さんは,「はい,いいえ」の二つに一つ,とおっしゃいます。
すると,それは「判断」の問題に相当し,判断には理由が必要です。
もし,「預言は当っている」との結論だけを示して,さしたる理由も
示さない場合,どうなるでしょうか?そうすることはカンタンですが,
たかだか「水掛け論」になるだけでしょう。
私は,そのような結果を生み出したくないのです。

聖書について論じる場合,だれもが否定することができない証拠が
あると思うなら,自分の責任でそれを示し,なぜそのように判断する
のか,その理由を示し,証明するべきなのです。

桃栗さんは私のコメントを「長い」「冗長」「要点がわからない」と
おっしゃいます。
確かに,私のコメントは短くはありません。しかし,どの部分も,
「インマヌエルは一体どこへ行ったの?」(2008-12-09 Tue)の趣旨に
沿っており,重要な点を含んでいます。どの部分も外せません。

イザヤ書7:14の預言が「成就したか/しないか」に限って言えば,
私のコメントの【結論】2にちゃんと書いてあります。
そこには「インマヌエルという名の意味にふさわしい人物が出現した」
と書いてあり,成就したと言っています。だから,タイトルに
「イエスはインマヌエルという名にふさわしい存在である」と書いて
いるのです。「インマヌエルという名にふさわしい理由」は何ですか。
その点は「その2」の4に記載しています。

桃栗さんは「100パーセント当った」とすることの基準を示していない
ので,よろしければ示されることをおすすめします。
どんな要件が満たされれば,「100パーセント当った」とすることに
なっているかを。

桃栗さんは「インマヌエルの預言の引用元と[…]微妙な違い その2
2010-12-23 Thu」の記事のページ中段で,
 「ところが、母マリアが息子をインマヌエルと呼んだこともなく、
 また「神が共におられる」と呼びかけたこともないのですから、
 この預言は当っていないと考えざるを得ません。」
と述べています。

では,桃栗さんが「文字どおり呼ぶ(名付ける)こと」を預言の当否の
判断基準となさる理由は何でしょうか?

私としては,「イエスはインマヌエルという名にふさわしい…その1」
の「2」において,その理由を示しました。すなわち,
 「ある名で「呼ばれる」「となえられる」と予告されている場合、
 必ず人名として名付けられるといえるでしょうか? 上記のとおり、
 さまざまな場合があり、必ずそう名付けられるとは限りません。」
と書いているとおりです。特に,その1「2」の(1)でイザヤ9:6に
言及し,イエスが文字どおり「平和の君」と“名付けられ”なくとも,
その預言の「みどりご」がイエスを指すことを識別するのに障害とは
なっていない事実に注意を引きました。

以上の次第で,私は前記コメントにおいて,なぜインマヌエルの預言
が成就したといえるか,その理由を示しました。また,適当に縮小して
書くのではなく,その判断の基礎になっている事実,すなわち,
「実際に聖書に書かれていることで,だれもが否定することができない
こと」を,十分とは言えませんが,ある程度示したつもりです。

もし,私のコメントの中に「聖書と違う」「事実と異なる」などの点が
ありましたら,その理由と根拠を具体的に示していただきたいと思います。

なお,桃栗さんは「その言葉はそういう意味でない」などと言い訳する」
ことについて述べておられますが,ひとこと注意を申し上げます。
それは,私のコメントを「言い訳」だと理由無く決めていることです。
私がいつ桃栗さんの発言を「都合が良すぎる」「言い訳」と理由無く
決めつけたことがありましたか?

「その言葉はそういう意味でない」とすることが問題になるのは,
前言を翻したりすることで責任を回避したり,相手を欺いたりする意図
が存在する場合でしょう。では,私がいつそのような意図を持ったので
しょうか。たいへん残念に思います。

 「聖書の意味」を検討する場合があることは当然ではありませんか。
もとより,人は「言葉」そのものにも責任を持つべきなのは当然です。
ご一考くださればうれしく思います。
2011-06-30 木 23:14:17 | URL | yomo [編集]
補足:「これらのことが起ったのは…成就するため」について
yomoです。

桃栗さんが「インマヌエルは一体どこへ行ったの?」
(2008-12-09 Tue)で,書いたことに関連して,預言の
成就を判断する根拠となる事実に気付いたことを補足します。

 それは,マタイが1章で記述している次の部分です。
(節)
21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。
  彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたこと
  の成就するためである。すなわち、
23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名は
  インマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」
  という意味である。

気付いたことの要点はこうです。

1.「預言者によって言われたこと」が先であり,包括的である
2.「イエスと名づけなさい。」は1を具体化したできごとである。
3.「『神われらと共にいます』という意味である。」の記述は,
   1の趣旨(預言が言わんとすること)を具体的に説明している。

1の預言はイザヤ書7:14で,もちろんマタイより先です。そして,22節では
「すべてこれらのことが」とあり,それは,名付けの指示,男子の役割告知,
の2つです。この2つのことが「起ったのは」,インマヌエルの預言
が「成就するため」である,と聖書に書かれているわけです。

 すると,「すべてこれらのことが起ったのは…成就するため」との記述は,
「これらのこと」とイザヤ書の預言には密接な関係があることを裏付けて
いることになります。この関係は非常に重要だということです。

 そうすると,バラバラに考えることは合わなくなります。
「イザヤではインマヌエルと言っているのに,天使はイエスとせよと,
…何だ,違うじゃないか。」という場合,「のに」という見方は,22節
の記述と合わない,ということです。(もちろん聖句の記述を無視すれば
どんな見方でも可能ですが,それでは証明にならないでしょう。)

 そして,密接な関係とはどんな関連かを23節が述べているわけです。
その関連とは,「神われらと共にいます」との預言が成就したんだよ,という
ことです。この点は,私の2011年3月コメントその1の3.「そこで、
インマヌエルの預言の趣旨を検討します。」以下に書かれているとおりです。

 「神われらと共にいます」とは,イエスが神だということではなく,神が
契約を結んだイスラエルの国民を見捨てていない証拠があるから,「共に」
いるんだよ,その証拠がイエスの誕生なんだよ,ということです。だから,
マタイは単なる翻訳を説明しているのではありません。
-「イエスの誕生は,古代イザヤの時と同旨なのだ。子が生まれて
インマヌエルととなえられる,それは神が共にいてくださる,つまり
わたしたちイスラエルを見捨ててはいないことのしるしだった。
それが表わしていたことがイエスの誕生で成就したんだよ。」-
そういう趣旨で,預言が言わんとすることを具体的に説明しているのです。

以上です。





2011-08-01 月 11:31:02 | URL | yomo [編集]
Re: イエスはインマヌエルという名にふさわしい存在である-補足
> 桃栗様
>
> yomoです。
> 「2011-03-21 月 18:12:51」のコメントを拝読しました。

残念ながら貴方には理論が通じないと判断せざるを得ません。
なぜわざわざそのように難しく考えるのでしょうか?
理解に苦しみます。
もっと単純に考えませんか?

要するにイザヤ書では、その子は「インマヌエルと呼ばれる」とあるのに、
新約聖書ではただの一度も「呼ばれていません」。
だからまったく預言通りにはなっていないのに、
それを実に長々と延々と理由をこねくり回し、
なんとかつじつまを合わせて預言が当ったかのように主張する。

なぜ素直に聖書に書いてある通りに読まないのでしょうか?
クリスチャンという人種は不思議なもので、
聖書のある箇所については文字通り信じるのに、
またある箇所については文字通り信じようとせず、
延々と理由を並べてこじつけをするのが大変お好きです。

つまり、聖書の解釈の仕方に「一貫性」がないのです。
聖書を文字通り信じていいのか、信じてはいけないのかどっちなのでしょう?
本当に不思議に思います。
2011-08-21 日 21:21:01 | URL | 桃栗 [編集]
Re:Re: イエスはインマヌエルという名にふさわしい存在である-補足
失礼ながら,率直に述べます。

桃栗さんは,
>要するにイザヤ書では,その子は「インマヌエルと呼ばれる」とあるのに,
>新約聖書ではただの一度も「呼ばれていません」。
>だからまったく預言通りにはなっていない

とのことですが,氏ご自身が,本名がありながらご自分を実名で呼ばず,
「桃栗」という実名でない名で呼ぶことをよしとしておられます。

本名がありながら,ご自分を実名で呼ばないことについては是認し,
聖書に対しては「そのとおりに呼ばれていないからチグハグだ」と言っておられます。
これでは,イザヤ書の預言が成就していない主張として意味を成さないのでは?

>聖書のある箇所については文字通り信じるのに,
>またある箇所については文字通り信じようとせず

とのことですが,氏ご自身が,実社会においては文字通りご自分を実名
で呼んでいるのに,ネットでは文字通り実名で呼ぼうとしていません。

桃栗さんにはご自分としての意図があり,それは桃栗さんの権利です。
桃栗さんは,ご自分の意図に沿って名前の呼び方を決めておられます。
そうすると,聖書に対して,著者の意図に沿って名前の呼び方を決めている
ことを認めないのは不公平ではないですか?

では,「私の名は,現在の名前で呼ばれると預言されてはいない。」とする場合は
どうでしょうか? 氏は「文字通り呼ばれていません」とおっしやっているので,
それが論点であり“預言されていた名前かどうか”は論点ではないことは明らかです。

使徒のペテロは,ペテロ第二1:21で
「聖書の預言はすべて,自分勝手に解釈すべきでないことを,まず第一に知るべき
である。なぜなら,預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に
感じ,神によって語ったものだからである。」と述べています。

桃栗さんが,ご自身の意志に沿って名前を用いておられるのであれば,神もご自身の
意志に沿って預言を語らせているのです。単純明快です。

イエスは預言のとおり,真実のクリスチャンから「インマヌエル」と認められています。

しかし,ペテロの続く部分を見ると,「偽教師」が現れる,と書いてあります。
聖書がおかしいのか,指導的立場にありながら,だれが見ても聖書に従っていない
「偽教師」の言動がおかしいのか,よく見極めなければなりません。

以上です。
2011-10-05 水 16:23:10 | URL | yomo [編集]
Re: Re:Re: イエスはインマヌエルという名にふさわしい存在である-補足
実に支離滅裂なコメントありがとうございます。
クリスチャンはキリスト教の矛盾や欠点を認めようとせず、
言い訳ばかりして他人に矛先を向けるという実例を示してくださって
どうもありがとうございます。


> 桃栗さんは,
> >要するにイザヤ書では,その子は「インマヌエルと呼ばれる」とあるのに,
> >新約聖書ではただの一度も「呼ばれていません」。
> >だからまったく預言通りにはなっていない
>
> とのことですが,氏ご自身が,本名がありながらご自分を実名で呼ばず,
> 「桃栗」という実名でない名で呼ぶことをよしとしておられます。
>
> 本名がありながら,ご自分を実名で呼ばないことについては是認し,
> 聖書に対しては「そのとおりに呼ばれていないからチグハグだ」と言っておられます。
> これでは,イザヤ書の預言が成就していない主張として意味を成さないのでは?

まったく理解できません。たとえが間違っています。
私が自分を本名で呼ばないこととこの記事の主旨がどう関係あるのでしょうか?
そもそも、ブログで自分を本名で呼ばなければいけない決まりがあるのですか?
それならば、あなたはyomoと名乗っていますが、それは本名ですか?


> >聖書のある箇所については文字通り信じるのに,
> >またある箇所については文字通り信じようとせず
>
> とのことですが,氏ご自身が,実社会においては文字通りご自分を実名
> で呼んでいるのに,ネットでは文字通り実名で呼ぼうとしていません。

私がネットで実名を呼ばないことがなぜいけないのでしょう。
では、「yomo」とは実名ですか? 変わった名前ですね。どこの国の方ですか?
他人に対しては本名で呼ばないことを非難しておきながら、
まさか貴方自身も自分を本名で呼んでいないなんてことはないですよね。


> 桃栗さんにはご自分としての意図があり,それは桃栗さんの権利です。
> 桃栗さんは,ご自分の意図に沿って名前の呼び方を決めておられます。
> そうすると,聖書に対して,著者の意図に沿って名前の呼び方を決めている
> ことを認めないのは不公平ではないですか?

では、聖書には「インマヌエルと呼ばれる」と預言されているはずなのに、
生まれた子供がそう呼ばれていないのも「聖書の権利」なんですね。
「著者の意図に沿って名前の呼び方を決めている」とのことですが、
イザヤ書では「インマヌエルと呼ばれる」と意図されているではありませんか?
ちゃんと聖書を読んでいますか?


> では,「私の名は,現在の名前で呼ばれると預言されてはいない。」とする場合は
> どうでしょうか? 氏は「文字通り呼ばれていません」とおっしやっているので,
> それが論点であり“預言されていた名前かどうか”は論点ではないことは明らかです。

何が「明らか」ですか?
「インマヌエルと『呼ばれる』」と「明らかに」書かれているではありませんか。
なぜ聖書に忠実に解釈しようとしないのか不思議でなりません。


> 使徒のペテロは,ペテロ第二1:21で
> 「聖書の預言はすべて,自分勝手に解釈すべきでないことを,まず第一に知るべき
> である。なぜなら,預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に
> 感じ,神によって語ったものだからである。」と述べています。

ですから、解釈とかそういうこと以前に、
イザヤ書に「インマヌエルと呼ばれる」とあるのに、
実際にはイエスはそう「呼ばれていません」。


そして、いかにクリスチャンが聖書を自分勝手に解釈しているか気付いていますか?
たとえば、イエスの誕生日は12月25日ではありません。
イエスが生まれた場所は馬小屋ではありません。
マリアはベツレヘム到着直後に出産したわけではありません。
東の国の博士(=占い師)はイエスの出生直後に来たわけではありません。
博士は3人とは書かれていません。
クリスマスに歌われる賛美歌「もろびとこぞりて」の歌詞に
「平和の君なる御子を迎え」とありますが、
イエスが生まれたがためにベツレヘムで幼児大量虐殺事件が起こっています。
すべて聖書を読めば分かります。
また成人したイエスは「私は平和をもたらしに来たわけではない」と言っています。
(マタイ10:34)
これのどこが「平和の君」ですか?

あと、聖書のどこに「三位一体」と書かれていますか?
イエス以外を「先生」と呼んではならないと聖書に書かれているのに、
なぜ牧師さんのことを「先生」と呼ぶのですか?

クリスチャンは聖書から離れて勝手な解釈ばかりしていますよね。


> 桃栗さんが,ご自身の意志に沿って名前を用いておられるのであれば,神もご自身の
> 意志に沿って預言を語らせているのです。単純明快です。

全然単純明快ではありません。
わざわざ難しい解釈を施してつじつまを合わせようとしているだけです。


> イエスは預言のとおり,真実のクリスチャンから「インマヌエル」と認められています。

ここで貴方の本音が露呈されてしまいましたね。
なぜ貴方は「呼ばれている」ではなく「認められている」という表現にしたのでしょうか。
要するに、貴方の潜在意識の中に、
インマヌエルの預言が当っているという自信がないからです。
もしも当たっていると堂々と自信を持っておっしゃるなら、
「インマヌエルと『呼ばれている』」と堂々と書けるはずです。
なのに、「認められている」という表現でお茶を濁そうとするのは、
それは貴方の潜在意識の中に自信のなさがあることの表れです。

そこまでインマヌエルの預言が当っているとおっしゃるなら、
これからはイエス・キリストではなく「インマヌエル・キリスト」と呼んでください。


> しかし,ペテロの続く部分を見ると,「偽教師」が現れる,と書いてあります。
> 聖書がおかしいのか,指導的立場にありながら,だれが見ても聖書に従っていない
> 「偽教師」の言動がおかしいのか,よく見極めなければなりません。

簡単です。聖書がおかしいのです。
以上。
2011-10-11 火 23:25:58 | URL | 桃栗 [編集]
yomo様へ
やはりクリスチャンは都合の悪いことは無視してしまう習性があるのですね。

この記事の「その1」について言及しないのはなぜでしょう。
英語の聖書では、誰がインマヌエルと呼ぶと預言されていますか?
「母親」が呼ぶことになっているでしょう?
ところが、マタイはそれを主語を変えて引用しているのは
聖書の「改ざん」に当たりませんか?

マリアが息子をインマヌエルと呼んだ記述もなければ、
「神はあなたと共にいる」と発言した記述もありません。
そうなると、まったくもってこの預言は当っていないことになります。
ところが、日本語のキリスト教の聖書は主語をあいまいにぼやかして訳し、
あたかも預言が当ったかのように訳していますが、
これは「誤訳」ではないのですか?
一方、異端とされるエホバの証人の新世界訳では主語を忠実に訳しています。

キリスト教側はエホバの証人の聖書を誤訳だとして非難していますが、
そういうキリスト教の方こそなぜ主語を忠実に訳さないのでしょうか。
それとも、英語の聖書の方が間違っているとでもおっしゃいますか?
英語の聖書はおそらく世界で一番出版数が多いはずですが。

おまけに、英語の聖書のNRSVでは、
イザヤ書では「若い女」となっているのがマタイでは「処女」になっています。
これも聖書の改ざんではありませんか?

あなたはインマヌエルの預言は当っているとしきりに主張されますが、
当たっているとか当たっていないとか議論する以前に、
聖書はこんなにも改ざんだらけなのに、
なぜこんないい加減な書物を「神の言葉」として信じられるのか
不思議で不思議でなりません。
2011-10-16 日 18:32:49 | URL | 桃栗 [編集]
前回のページ読みました
前回の自殺のページ読みました。
私もクリスチャンとしての大事な人を自殺でなくしました。
お話しできたらいいなとおもいます。
2012-06-06 水 18:00:53 | URL | jen [編集]
Re: 前回のページ読みました
> 前回の自殺のページ読みました。
> 私もクリスチャンとしての大事な人を自殺でなくしました。
> お話しできたらいいなとおもいます。

私は、貴方の書き込みを見て、
私がクリスチャンの知人を自殺で失った気持ちを理解してくれる人が現れたと思い、
本気でメールを差し上げようと思っていましたが、
後であなたが名前を変えて立て続けに書き込んでいるのを見てやめました。
2012-06-08 金 22:08:17 | URL | 桃栗 [編集]
預言
「預言」は当たったとか当たらない、というものではないことを一言、言わせてください。
預言は広辞苑によると
『キリスト教で、神の霊感に打たれたと自覚する者が神託として述べる言説』
他の辞書では
『神や死霊の意志を媒介し、人々に伝えること。また、その言葉。とくに、超越神によって示された世界の意味・救済の意味などを人々に述べ伝えることをいう。』

旧約聖書の預言者は神の言葉を預かり伝える者ですね。

「予言」は辞書によれば
『未来の出来事や未知の事柄をあらかじめいうこと。また、その言葉。 』

こちらは神の意思は関係ないので、当たったとか当たらないと言うことができると思いますが、「預言」は、この言葉とは違うということを理解していただきたいと思います。

「預言」は、成就したか、しないか、が問われることです。

インマヌエルの預言は成就されたと私は信じています。

エホバの証人は信じていないので、その聖書の言葉を信じる必要はないと思っています。

「インマヌエル=神われらと共にいます」 これは現在、私の身に起こっていることです。

「言(イエス・キリスト)は神であった」(ヨハネ1:1)

聖書の言葉を神の御言葉と信じている者にとって、聖書の御言葉が自分の心にある人は、神(イエス・キリスト)が共にいてくださっていると思えるのです。
桃栗さんのお陰で、聖書の御言葉と改めて向かい合うことが出来ています。感謝ですね。聖書に向かうことは神様に向かうことですから。

それから「三位一体」は
「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19~20)
「in the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit」

このnameが単数形であることから、Father,Son,Spiritは一つであると考えたようです。
何百年もの間、神学者が考えてきたことですから、間違いはないと私は信じています。
桃栗さんはその人達に異論を唱えているのですから、大変なことをされていると思っています。

前にも申し上げましたが「分かったから信じるのではなく、信じたから分かることがある。」
「信仰」なのですから、信じなければ分からないことがあるのではないでしょうか。
2012-12-25 火 22:20:05 | URL | Elle [編集]
Re: 預言
> 「預言」は当たったとか当たらない、というものではないことを一言、言わせてください。

(中略)

> こちらは神の意思は関係ないので、当たったとか当たらないと言うことができると思いますが、「預言」は、この言葉とは違うということを理解していただきたいと思います。
>
> 「預言」は、成就したか、しないか、が問われることです。

ですから、それを「当たった」「当たらなかった」と言うんでしょ???
成就した→当たった、成就しなかった→当たらなかった、
ただ言葉の表現を変えているだけです。


> インマヌエルの預言は成就されたと私は信じています。

では、インマヌエル預言の出てくるイザヤ書7章14節の後の17節によれば、
「アッシリアの王がそれだ」と書かれていますが、
イエスはアッシリアの王だったのでしょうか?


> 「インマヌエル=神われらと共にいます」 これは現在、私の身に起こっていることです。

それで、神があなたと共にいることによって何がどう違うのですか?
災難に遭わないとか病気にならないとか、
普通の人に比べて「物理的に」何がどう違うのでしょうか?
「神は私と共にいる」という主張は、個人的な「主観」でしかありません。
要するに「気持ちの問題」です。
日本人が「私にはご先祖様が守護霊として共にいる」と言っているのと同じです。
崇拝対象が違うだけです。


何度かこブログで発言してきたことですが、
別に私はキリスト教を100パーセント否定しようとまでは思っていません。
キリスト教はあくまでも「世界に数多くある宗教の中の一つ」でしかないのです。
2012-12-31 月 22:16:08 | URL | 桃栗 [編集]
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