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桃栗

Author:桃栗
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神様とはクリスチャン自身である
このブログを始めた理由の一つが、キリスト教を客観的に見つめてみたいと思ったことですが、
ブログを始めてから気付いたことがあります。
結局、全知全能の神って、誰のことだと思いますか?
そう、それはクリスチャン自身にほかなりません。


クリスチャンが良く使う決まり文句にこういう類のものがあります。
「神は~~~を望んでおられます」
「神は~~~と思っておられます」
「神は~~~と言っておられます」

冷静によくよく考えてみると、
これは自分自身の願望や意見を、神の名を使って正当化しているだけではないですか。
主語が神となっていても、結局は自分自身のことなのです。
その主語は、「私」に置き換えてもそっくりそのまま意味が通じます。
なぜクリスチャンがこういう言い回しをするのかというと、
それは自分の願望や意見を直接口にするのが後ろめたいからです。
だから、あたかも神が言っているかのような表現を使うのです。

また、次のような類の言い回しも良く目にします。
「神はあなたを裁きます」
これも、結局はクリスチャン自身が裁いているのです。
クリスチャンってこういう言い回しが好きですよね。
とにかく上から目線で人を裁きたがるクリスチャンのなんと多いこと多いこと。
私のブログにも時々現れますよね。
自分が神になったつもりで上から目線で私を裁きたがる人が。
神が裁いているのではないのです。
クリスチャンが裁いているのです。

はっきり言って神様など存在しません。
もしも本当に全知全能の神様が存在し、
世界中のクリスチャンにメッセージを送っているのならば、
誰もが同じことを口にするはずです。
ところが、実際は人によって言うことがてんでんばらばら。
これこそ、神が存在しないことの何よりの証拠です。

キリスト教が世界中に広まった理由は、
自分自身が神になったつもりで発言できるからではないかと思えてなりません。
「神がそう言っておられるから」と言うとなんでも正当化できてしまいますからね。
ヨーロッパの白人は、神の名のもとに植民地支配を正当化しましたよね。
それから、お隣りの韓国。
あれだけキリスト教が韓国に広まったのは、
あの国民性とよほど相性が良かったのでしょう。
日本のクリスチャンを見ていると、韓国人に似ていると感じることがあります。
何でも正当化するのが好きですし、
事実を見ようとせず、自分の妄想、願望の方を信じますからね。

あんな独り善がりで偽善的な宗教には二度と戻りたくありません。


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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

クリスチャンの独善性 | 23:46:42 | トラックバック(0) | コメント(29)
コメント
この話もよく理解できます。
しかし一部のクリスチャンはもっと先まで行ってますよ(笑)

残念な話ですが、ペンテコステ派のうちごく限られた少数派ですが(多分国外)、
「私たちは神である」
「私たちはキリストである」と告白する人たちもいます。

聖書で神が「私はあるという者である。」と説明するところがありますよね?
それを受けて、
「はい、私もある。」と告白するんです。

ペンテコステ派クリスチャンの私でも、ここまでくるととても承服できません。
とんでもない話です。

以上はネットで集めた情報ですが、私が実際に見聞きした(これは日本での話)最たるものは、
「未信者の金は信者のものになる!
ハレルヤ!アーメン!」
これもドン引きしましたが、反面ちょっと笑えました(笑)
2016-06-20 月 01:03:09 | URL | ペンテコスちゃん [編集]
Re: タイトルなし
> この話もよく理解できます。
> しかし一部のクリスチャンはもっと先まで行ってますよ(笑)
>
> 残念な話ですが、ペンテコステ派のうちごく限られた少数派ですが(多分国外)、
> 「私たちは神である」
> 「私たちはキリストである」と告白する人たちもいます。

イエスがまさにそれですね。
厳格なユダヤ教社会でそんなことを言ったら、
捉えられて処刑されるのは当たり前です。
イエスの言葉を日常的な日本語に訳したら、
相当おかしなことばかり言っています。

自分はキリストであると言った人の例では、
近年では統一教会の文鮮明がいい例です。


> 聖書で神が「私はあるという者である。」と説明するところがありますよね?
> それを受けて、
> 「はい、私もある。」と告白するんです。
>
> ペンテコステ派クリスチャンの私でも、ここまでくるととても承服できません。
> とんでもない話です。
>
> 以上はネットで集めた情報ですが、私が実際に見聞きした(これは日本での話)最たるものは、
> 「未信者の金は信者のものになる!
> ハレルヤ!アーメン!」
> これもドン引きしましたが、反面ちょっと笑えました(笑)

要するに、はっきり言って金が欲しいということですね。
神を味方に付ければ何でも正当化できてしまいます。
2016-06-21 火 22:39:20 | URL | 桃栗 [編集]
>ペンテコステ派クリスチャンの私でも、ここまでくるととても承服できません。
イエスを文鮮明と同列に扱っている偽りの元信者の意見は承服しているんだねw
本当にクリスチャン?それとも、桃栗さんのバーターかな?
ペンテコステ派って、聖書を逸脱した信者が多いのは確かだけれどね。
とにかく、このブログタイトルは、「あたまがへんだよモモクリ教」にすべきだよ。
2016-06-24 金 09:43:22 | URL | ニヒリスト [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2016-06-27 月 09:00:28 | | [編集]
ニヒリストさん、順序が逆ですよ(笑)
私のコメントに桃栗さんが返信したのであって、その中に書かれている文鮮明云々については私はまだ反応していないんですが...

ニヒリストさんのご質問にお答えしますと、私は一見クリスチャンには見えないようですが(一般人の評価)、クリスチャンです。
もっともペンテコステ派を否定する人たちが私たちをクリスチャンと認めるかどうかは別の問題です。
異端だとか、異端に近いとか言われたこともあります。

桃栗さんのブログは教会内の問題点を鋭く突いているところがあって、勉強になるんですが、全面的に承服しているというわけではないですよ。
というのは桃栗さんが教会を離れてからかなりの年月が経っているので(その間に教会は良くも悪くも変わってしまった)、現代の教会事情とは違うところもあるからです。
でもそれは、ご存知ないんだから仕方ないと思っています。

最後に桃栗さんのブログが私個人にとっては何なのか、敢えてタイトルを付けるとすれば、「気をつけようクリスチャン!ここが嫌われる」ということになります。
2016-07-01 金 16:22:34 | URL | ペンテコスちゃん [編集]
しばしばサタンである
ガンジーはこれ(神=キリスト教徒自身(=ほぼ悪魔))を見抜いていたようです。
 
『西洋のキリスト教が実際に行っていることを考えるに、キリスト教ヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している、というのは私の堅い信念である。そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、その口に神の名をのせて現れるときである』 (ガンジー)
 

ろくに修行もせず努力の必要性を投げ捨てている愚者だけが
即・神と直通になれるなら、人間が神によって腐り切ってしまうのも仕方がない… 自己の願望・自己愛が神の名で増長していくだけの、愚かで無効な信仰がキリスト教です。
 
「三位一体の神の御名において、売れる奴隷という奴隷をどんどん送り続けよう」(コロンブス)
2016-07-03 日 03:51:53 | URL | 秀和 [編集]
こんにちは
はじめてコメントします
ブログ、かげながら読んでおりました
わたしは5年前に教会に行き、クリスチャンと名乗る、ひとことでいうクズに踏みにじられました
その後はクリスチャンと名乗る人のことも、教会も、信じることができず、人間一般への不信感などに悩まされています
そのクリスチャンと名乗るおかしな男は、わたしが教会に通うようになり憧れていた女性のことを愛しているとわたしに告げ、
彼女は献身の想いのある人を待っているのだ、そしてわたしは献身の想いを神から与えられ、いまは、彼女と人生を共にしたいとおもっている
とまで言いました
そして、わたしの悪口を教会でしたり、わたしが彼女を独り占めしようとしているとか、わたしがはじめ彼を信用していたからこそ話した教会への愚痴をみんなに広めたりしました
そしてわたしは教会で嫌われ憎まれました
既に相当傷ついていたわたしは、彼に、あなたのしていることはおかしいのではないでしょうかと言いました
すると、あなたの気持ちに寄り添えなくてすみません
と言われました
わたしは既に彼のような偽善に満ちた人間に、わたしの心に寄り添ってほしいなどとは思いもしていません
ただ、彼の行動が、神とか献身の想いによって肯定されていると自分で思っているようだが、
一般的にはひどくおかしいということを認めてほしかっただけなのでした
そして、彼はさらに、あなたの気持ちに寄り添えなくてすみませんでしたが、あなたのことをフォローするのも、わたしにとって負担でしかありませんでした
と言いました
2016-07-03 日 11:31:31 | URL | クリスチャンへの嫌悪 [編集]
クリスチャンというのは、ひどく不気味です
すべての人ではないのですが、
自分の醜い行動さえも、肯定するため、神の教えを曲げて用いる人は確実にいるのです
わたしは、神を知っていたとしても、そのような人よりは、一般の善良な人のほうがはるかに神の教えに近く、美しいと思いますし、それは真実でしょう
記事に書いてあることに、今回はひどく共感いたしましたのでコメントいたしました
ちなみに、わたしは彼に負担をかけるつもりは毛頭ありませんでしたが、
偽善者らしく、彼のほうから声をかけ、なんでも話してくださいといい、踏み込んできたのです
わたしは教会のこともよくわからないので、そういうものなのかな?と思っていました
しかし何かを彼に求めたことなどありませんでした
むしろ、彼のほうが、鬱病を患っており、暗い話を何度も繰り返ししてきたり、ものすごい目で自分の好きな人(わたしの憧れていた人とは別の人)を見ていたり
わたしとしては、彼のため時間をさくのも辛い時はありました
しかし、友人だと思っていたので、なにも負担とは思いませんでした

いずれにしても、クリスチャンと名乗る偽善者とは、関わりたくありませんね
クリスチャンと名乗る、常識の通じる人とは関わってもなにも問題はありませんが
2016-07-03 日 11:40:30 | URL | クリスチャンへの嫌悪 [編集]
我々クリスチャンの異常性や人格破綻はひとまず置いて‥‥。
神はいます。人がてんでんバラバラの事を言っても、聖書のメッセージは一貫して、神は私たちを愛しておられると言う事です。「神はじつにそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」ヨハ3:16は有名ですよね。神は目に見えない存在ですが‥‥。その神が人となって見える形で地上に来て下さいました。私たちの罪をその身に背負い、十字架に架かって死ぬ為に‥‥。苦しみを受け墓に葬られ3日目によみがえられました。我々は信じてただ感謝し、救いを 受け取るだけですよ。
僕はこう言う話がしたいな。客観的に見てキリスト教の教理はココがへんだとか聖書のここは他の箇所と矛盾してるとか、そう言う話‥‥‥。
もし神が本当にいらっしゃれば管理人さんのクリスチャンホームでの生活は決して無駄でなかった事になる訳です。
神などいないと言う結論を出したので、「自分の青春はなんだったんだ!なんて無駄な時を過ごしたんだ」と言う嘆きになる訳です。
ですから神はいます。とあえて言わせて頂いてるのです。
ちょっと長くて大変ですがパウロのことばを新改訳聖書から‥‥。
「‥‥‥ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなた方の中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
そして、キリストが復活されなかったのなら 、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの 信仰も実質のないものになるのです。
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。‥‥中略‥‥
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。1コリ15:12〜20
パウロのことばに「あなたは嘘を吐いてる。気がおかしくなっている。」と言えるでしょうか?
聖書は史実です。神の御子イエス・キリストの目撃情報です。
長文失礼しました。


2016-07-03 日 16:54:24 | URL | 高階武夫 [編集]
昔、学生の頃に通っていた教会では、牧師のしゃべる言葉は全て神の言葉だ、
牧師の話しは全部神が話していると思って聞け、みたいな事を教えられていました。
ですから、牧師の言う通りに従っていれば、絶対に間違いが無い、牧師の言うこと
には全て服従するように、牧師の言葉に逆らうことは神に逆らうことになるとも
教えられていたのです。
当時、割と純粋に信じていた私もさすがに、牧師が話す言葉イコール神の言葉、
というのはおかしいと感じていました。
2016-07-05 火 00:35:06 | URL | 途中下車 [編集]
Re: しばしばサタンである
> ガンジーはこれ(神=キリスト教徒自身(=ほぼ悪魔))を見抜いていたようです。
>  
> 『西洋のキリスト教が実際に行っていることを考えるに、キリスト教ヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している、というのは私の堅い信念である。そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、その口に神の名をのせて現れるときである』 (ガンジー)

まったくその通りですね。
そして、現に旧約聖書では、
サタンよりも神が殺した人の人数が圧倒的に多いという話があります。
http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/7170025.html
そのサイトによると、ノアの洪水など殺された人数が数えられないものを除き、
具体的に数えられるだけでも2,476,633人が神に殺されているそうです。
これに大洪水や飢饉などで殺された人を含めるととんでもない数字になります。
一方で悪魔が殺したのはわずか10件ということです。
もはや、これでは神が悪魔そのものとしか言いようがありません。
 
>
> ろくに修行もせず努力の必要性を投げ捨てている愚者だけが
> 即・神と直通になれるなら、人間が神によって腐り切ってしまうのも仕方がない… 自己の願望・自己愛が神の名で増長していくだけの、愚かで無効な信仰がキリスト教です。

その通り。
クリスチャンは自分が神になった気分でいるので始末が悪いです。
 
> 「三位一体の神の御名において、売れる奴隷という奴隷をどんどん送り続けよう」(コロンブス)

歴史上、もっとも人を殺した人種は、間違いなく白人のクリスチャンでしょう。
2016-07-09 土 22:41:58 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> クリスチャンというのは、ひどく不気味です
> すべての人ではないのですが、
> 自分の醜い行動さえも、肯定するため、神の教えを曲げて用いる人は確実にいるのです

初めての書き込みどうもありがとうございます。
まさにおっしゃる通りですよ。
聖書の都合の良い聖句を自分の都合の良いように捻じ曲げ、
自分の主張が神のお墨付きをもらったかのように物を言うのがクリスチャンです。

> わたしは、神を知っていたとしても、そのような人よりは、一般の善良な人のほうがはるかに神の教えに近く、美しいと思いますし、それは真実でしょう

まったくその通りです。
クリスチャンやキリスト教が批判されると、
「知り合いのクリスチャンは良い人ばかりです」と反論する人がいますが。
これもまったく説得力がありません。
なぜなら、クリスチャンでなくても善良な人の方がはるかに多いからです。

> 記事に書いてあることに、今回はひどく共感いたしましたのでコメントいたしました
> ちなみに、わたしは彼に負担をかけるつもりは毛頭ありませんでしたが、
> 偽善者らしく、彼のほうから声をかけ、なんでも話してくださいといい、踏み込んできたのです

自分から親しげに話しかけてくる人は要注意です。
「何でも話してください」という言葉は私は信用しません。

> わたしは教会のこともよくわからないので、そういうものなのかな?と思っていました
> しかし何かを彼に求めたことなどありませんでした
> むしろ、彼のほうが、鬱病を患っており、暗い話を何度も繰り返ししてきたり、ものすごい目で自分の好きな人(わたしの憧れていた人とは別の人)を見ていたり
> わたしとしては、彼のため時間をさくのも辛い時はありました
> しかし、友人だと思っていたので、なにも負担とは思いませんでした

本当に災難でしたね。
クリスチャンはおとぎ話を信じるような頭の持ち主ですから、
理論的な冷静な判断ができないのです。
貴方がそれだけの被害で済んでよかったですね。
自分から親しげに話しかけてくる人は、クリスチャンでなくとも用心しましょう。

> いずれにしても、クリスチャンと名乗る偽善者とは、関わりたくありませんね
> クリスチャンと名乗る、常識の通じる人とは関わってもなにも問題はありませんが

私も、キリスト教を100.00パーセントまでは否定していません。
あくまでも数多くある宗教の中の一つに過ぎないということです。


2016-07-15 金 21:53:02 | URL | 桃栗 [編集]
Re: 我々クリスチャンの異常性や人格破綻はひとまず置いて‥‥。
> 神はいます。人がてんでんバラバラの事を言っても、聖書のメッセージは一貫して、神は私たちを愛しておられると言う事です。

貴方がおっしゃっていることを一般社会に当てはめてみましょう。
ある法律があり、人によってその法律の解釈が違ったとします。
そんな時、「人がてんでんバラバラの事を言っても、法律のメッセージは一貫している」
と誰かが言ったとします。
そんな考え方、一般社会で通用しますか?

> 「神はじつにそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」ヨハ3:16は有名ですよね。

クリスチャンが頻繁に引用する言葉ですが、
イエスは本当に神の「ひとり子」でしょうか?
創世記6章の冒頭には「神の子ら」が登場します。
つまり、神にはたくさんの子がいたことになります。
そのことをクリスチャンはご存じないのでしょうか?
あのノアの箱舟物語の本当に直前なのですが。
いかにクリスチャンが部分的にしか聖書を読んでいないかが分かります。

> 神は目に見えない存在ですが‥‥。その神が人となって見える形で地上に来て下さいました。私たちの罪をその身に背負い、十字架に架かって死ぬ為に‥‥。苦しみを受け墓に葬られ3日目によみがえられました。我々は信じてただ感謝し、救いを 受け取るだけですよ。
> 僕はこう言う話がしたいな。客観的に見てキリスト教の教理はココがへんだとか聖書のここは他の箇所と矛盾してるとか、そう言う話‥‥‥。
> もし神が本当にいらっしゃれば管理人さんのクリスチャンホームでの生活は決して無駄でなかった事になる訳です。
> 神などいないと言う結論を出したので、「自分の青春はなんだったんだ!なんて無駄な時を過ごしたんだ」と言う嘆きになる訳です。

いいえ、神がいたとしても私の信仰生活は全て無駄でした。
神がいても、信仰に応えてくれないのでは、神がいないのと同じです。

> ですから神はいます。とあえて言わせて頂いてるのです。
> ちょっと長くて大変ですがパウロのことばを新改訳聖書から‥‥。
> 「‥‥‥ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなた方の中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
> もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
> そして、キリストが復活されなかったのなら 、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの 信仰も実質のないものになるのです。
> それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。‥‥中略‥‥
> もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
> しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。1コリ15:12〜20
> パウロのことばに「あなたは嘘を吐いてる。気がおかしくなっている。」と言えるでしょうか?
> 聖書は史実です。神の御子イエス・キリストの目撃情報です。

いいえ、聖書はおとぎ話の世界に過ぎません。
聖書が史実だとクリスチャンは主張しますが、
では、なぜ世界史の教科書に聖書の話を載せるように抗議しないのでしょうか?
なぜ生物の教科書に天地創造の話を載せるように運動しないのでしょうか?
アメリカではごく一部のキリスト教団体がそういう抗議をしているそうですが、
日本やその他の国では聞いたことがありません。
ということは、世界中のクリスチャンは本当は聖書を信じていないのです。
クリスチャンの信仰はその程度のものです。
2016-07-15 金 22:12:39 | URL | 桃栗 [編集]
Re: タイトルなし
> 昔、学生の頃に通っていた教会では、牧師のしゃべる言葉は全て神の言葉だ、
> 牧師の話しは全部神が話していると思って聞け、みたいな事を教えられていました。
> ですから、牧師の言う通りに従っていれば、絶対に間違いが無い、牧師の言うこと
> には全て服従するように、牧師の言葉に逆らうことは神に逆らうことになるとも
> 教えられていたのです。
> 当時、割と純粋に信じていた私もさすがに、牧師が話す言葉イコール神の言葉、
> というのはおかしいと感じていました。

私は、物心がつく前からキリスト教の中にいましたから、
教会で聞く話は全て神の言葉だと信じていました。
疑うとか、疑問を持つとか、幼いころはそういう発想が全くなかったのです。
中学生になった頃から、世間とキリスト教との矛盾を感じそうになりましたが、
それはサタンの誘惑だと思っていたので、
キリスト教への疑問は心の中にギュッと押しこめていました。
しかし、さすがに社会人になる頃にはその疑問を押しこめるのも限界になり、
ある時期を境目にあっという間に宗教観が180度変わってしまいました。
2016-07-15 金 22:20:02 | URL | 桃栗 [編集]
神を口にする盆暗
日本の熱心なクリスチャンは、教会主体の恣意的な教えを丸呑み。そして観念ばかりで凝り固まっていて、ナイーブなお花畑ばかりです。私は長年、カトリックが国教の欧州に住んでましたが、信仰心以前に文化でした。信仰心は、むしろ薄い人が圧倒的多数です。宗教心は、その国の風土や文化から自然と形成生成される側面が強く、それが本来自然で、本来の意味で「宗教的」なのです。

宗教的信仰心とは、何も特定の宗教に帰依しているから内面化されるものではなく、文化・風土・生活習慣から自然にそこに在るものだと思います。イタリア人の宗教心とは、移民を受け入れ大らかに人生を楽しむ。それがカトリックの現在の形を作ったのです。文化が先にあり、それを追認する形でカトリックの方向性が変遷するのです。

それに比べて、日本のクリスチャンは変なのが多いです。私は哲学・宗教含めた人文系諸科学が好きで今まで来ていますが、つい最近知り合ったカトリック教徒(幼児洗礼を受けるも、現在50代で、過去20年教会には行っていないという自己流信徒)も精神的奇形でした。

みんな共通するのは、人の心の機微に疎い。現実にそもそも、あまり関心が無い。それなのに自称博愛であると、臆面なく公言する。何でもかんでも全ては神の導きであると断言する。相手が信者でなくとも、神の導きを頻繁に口にする。そして現実で起きている様々な社会問題には無関心という、偽善ぶり。どうしようもない連中です。

神なるものは、そもそも述語論理では語れないと思います。不完全である人間が完全である神を語る矛盾に気づけない決定的な欺瞞は、脳に悪影響を及ぼし続けるのでしょうかね。


2016-07-16 土 03:44:17 | URL | サマータイム [編集]
Re: 神を口にする盆暗
> 日本の熱心なクリスチャンは、教会主体の恣意的な教えを丸呑み。そして観念ばかりで凝り固まっていて、ナイーブなお花畑ばかりです。私は長年、カトリックが国教の欧州に住んでましたが、信仰心以前に文化でした。信仰心は、むしろ薄い人が圧倒的多数です。宗教心は、その国の風土や文化から自然と形成生成される側面が強く、それが本来自然で、本来の意味で「宗教的」なのです。

私も思っていたのですが、
欧米人のキリスト教への信仰の度合いは、
日本人の神道、仏教への信仰の度合いと大して変わらないと思います。
いくら日本に神社やお寺が多いからといって、
日常的にそこへ通って礼拝?に参加する日本人がどれほどいるでしょうか。
下手したら日本のクリスチャンよりも少ないかもしれません。
せいぜい、ほとんどの日本人がかかわるのは、
お葬式、お墓詣り、初詣、七五三、お祭りの時ぐらいなものでしょう。
同様に、あちらのクリスチャンがキリスト教にかかわるのも、
冠婚葬祭や幼児洗礼、クリスマス、イースターぐらいなものでしょう。
あちらのクリスチャンの信仰なんてその程度のはずです。
おまけに、キリスト教とは全く関係ないハロウィンを楽しむぐらいですから。
また、ヨーロッパのキリスト教の行事には、
ヨーロッパ土着の民族信仰の影響を受けたものが少なくありません。
クリスマスがその最たるものです。
ミトラ教や北欧神話の影響を多大に受けています。


> 宗教的信仰心とは、何も特定の宗教に帰依しているから内面化されるものではなく、文化・風土・生活習慣から自然にそこに在るものだと思います。イタリア人の宗教心とは、移民を受け入れ大らかに人生を楽しむ。それがカトリックの現在の形を作ったのです。文化が先にあり、それを追認する形でカトリックの方向性が変遷するのです。

以前、私はブログで発言したことがありますが、
お墓詣り、初詣、七夕、七五三、お月見などは、
宗教ではなく「文化・風習」だと考えています。
宗教と文化・風習の違いを説明するのは難しいですが、
一つは、それが自然発生的か人工的かということです。
キリスト教は人工的に作られたものにしか見えません。

>
> それに比べて、日本のクリスチャンは変なのが多いです。私は哲学・宗教含めた人文系諸科学が好きで今まで来ていますが、つい最近知り合ったカトリック教徒(幼児洗礼を受けるも、現在50代で、過去20年教会には行っていないという自己流信徒)も精神的奇形でした。

逆に言えば、欧米人で仏教や神道を信仰する人がいるとすれば、
変な人ばかりになると思います。
宗教にはテリトリーというものがあり、
そのテリトリーと違うことをしたがる人というのは、
必然的に変わり者が多くなります。

> みんな共通するのは、人の心の機微に疎い。現実にそもそも、あまり関心が無い。それなのに自称博愛であると、臆面なく公言する。何でもかんでも全ては神の導きであると断言する。相手が信者でなくとも、神の導きを頻繁に口にする。そして現実で起きている様々な社会問題には無関心という、偽善ぶり。どうしようもない連中です。

先日、記事に書いたばかりですが、
クリスチャンは自分が神になったかのように発言する人が多いです。

> 神なるものは、そもそも述語論理では語れないと思います。不完全である人間が完全である神を語る矛盾に気づけない決定的な欺瞞は、脳に悪影響を及ぼし続けるのでしょうかね。

全くその通り。
完全なる神が存在するなら、なぜ不完全な人間を造ったのか?
その矛盾に気付かないのは馬鹿です。
2016-07-19 火 22:54:57 | URL | 桃栗 [編集]
やっと戻ってきました(涙)
覚えておられますでしょうか。神学の先生についていたぴーです。先生はご体調が悪く、以前のようにすぐに質問には答えられないと思いますが、私の体調は少し安定してきたので、少しコメントさせていただきます。

私も教会でタダ飯喰らいの分際でボランティアを任され、一心不乱にやっていたら老人信者の妬みにひっかかり、教会を追放されました。
その後、無償で行政から頂いたものを、あたかも買ったものだけど値引いていやるから金をよこせとゆすりに来られました。
これら一連のことが原因で、私は二度入院しました。

と、いうのがここまでの経緯です。ですので、以前桃栗さまはおっしゃいましたよね。私がクリスチャンだと。上記のようなことをするクリスチャンはいるでしょうが、上記のようなことをクリスチャンにされるクリスチャンはいるとお思いですか?

それからいつも不思議なのですが、何故桃栗さまの周りには、「クズ信者」がいないのでしょう? 私の行っている教会がカトリックだから。そんな理由ではない筈です。カトリックは筋金入りのクズ、キリスト教は人間のクズが辿り着く最後の砦なのではないですか? 大体神父というものは、神父の世界でないと食ってけないような筋金入りの役立たずが成るものであって、他の世界で食ってける人間はならない、と、他ならぬ神父自身たちが言っていますよ。

一体桃栗さまはどのようなキリスト教界にいらっしゃるので???
私はそれが不思議でなりません。確かに地域によっては何故か福音派が多かったり改革派が多かったり浅い歴史の教会が多かったりする謎のジンクスがあるのも確かですが、桃栗さまの行動範囲って、ブログを拝見する限り広いですよね??? 

冒頭の「神は~と思っておられます」というのも、私は聞いたことがありません。少なくともカトリック、正教会、聖公会では聞いたことがありません。
「神よ、うにゃうにゃしてください」ならしょっちゅう聞きます。ええもう、しょっちゅうです。お前ら少しは自力で頑張れよと思うくらい聞きます。
まさか桃栗さまほど博識に、これだけ批判的な文がかけるようなお方が、行った教会の教派が分からない、なんてことはないでしょう? 神への愛の示し方も、同じ改革派でもペンテコステ、ホーリネス、メソジスト、カルヴァンで違います。聖公会もハイチャーチとローチャーチの違いがあります。これがもし、すべてバプテスト諸派であるならば、一教派一牧師ですから、何ら不思議はありませんが、桃栗さまがすべてのキリスト教を非難するときは大抵、どこか特定の教派を般化しているような気がします。非常にもったいないことです。

また日が開くかもしれませんが、今日はこの辺で失礼いたします。
あーめんそーめん冷ソーメンがおいしい季節ですので、ご自愛ください。
2016-07-31 日 00:13:49 | URL | ぴー [編集]
Re: やっと戻ってきました(涙)
> 一体桃栗さまはどのようなキリスト教界にいらっしゃるので???
> 私はそれが不思議でなりません。確かに地域によっては何故か福音派が多かったり改革派が多かったり浅い歴史の教会が多かったりする謎のジンクスがあるのも確かですが、桃栗さまの行動範囲って、ブログを拝見する限り広いですよね??? 

私は、身元の特定につながるようなことは書きたくないので、
どこの教派に通っていたかは明かしたくありません。
ただ、プロテスタントとだけ言っておきます。


> 冒頭の「神は~と思っておられます」というのも、私は聞いたことがありません。少なくともカトリック、正教会、聖公会では聞いたことがありません。

こちらにも私と同じ指摘をしている方がいます。
http://ameblo.jp/pinappo/entry-10071870502.html
また、「神は~と言っておられる」という表現を使わなくても、
まるで自分が神になったかのようにキリスト教の自分流の解釈を説いている人も多いです。


> 「神よ、うにゃうにゃしてください」ならしょっちゅう聞きます。ええもう、しょっちゅうです。お前ら少しは自力で頑張れよと思うくらい聞きます。

ええ、これは私のクリスチャン時代にもよく聞きました。
これこそまさに、キリスト教がご利益宗教であることの何よりの証拠です。
人間が努力することよりも、祈ることの方が大事だと思っているのがキリスト教です。


> まさか桃栗さまほど博識に、これだけ批判的な文がかけるようなお方が、行った教会の教派が分からない、なんてことはないでしょう? 神への愛の示し方も、同じ改革派でもペンテコステ、ホーリネス、メソジスト、カルヴァンで違います。聖公会もハイチャーチとローチャーチの違いがあります。これがもし、すべてバプテスト諸派であるならば、一教派一牧師ですから、何ら不思議はありませんが、桃栗さまがすべてのキリスト教を非難するときは大抵、どこか特定の教派を般化しているような気がします。非常にもったいないことです。

基本的に、私が見てきたキリスト教、主にプロテスタントを批判対象としています。
プロテスタントでも、教派によって解釈が違うのは知っていますが、
まずは私が体験し、見てきたキリスト教が批判対象です。
時としてカトリックを含めたり、
その他国内外すべての「キリスト教」とされる宗派も含めることもあります。
エホバの証人などは、比較対象として扱っています。

> また日が開くかもしれませんが、今日はこの辺で失礼いたします。
> あーめんそーめん冷ソーメンがおいしい季節ですので、ご自愛ください。
2016-09-04 日 23:49:31 | URL | 桃栗 [編集]
神の御言葉
真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
2016-09-10 土 22:05:30 | URL | +イエスキリスト+ [編集]
Re: 神の御言葉
> 真善美の探究【真善美育維】
>
> 【真理と自然観】

無意味なコピペはおやめください。
2016-09-11 日 16:11:47 | URL | 桃栗 [編集]
てめえ!神(イエス)に対して失礼だろ!
ゆるされねえ!神が妄想だああ!ふざけるな!貴様はあくまだ!サタンだ!!

このブログは何だ!?神への侮辱をコメント欄に残すんか??ええ?

神は偉大なり!神に忠誠を!神に忠誠を!!
2016-10-01 土 00:22:07 | URL | Re: 神の御言葉 [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2016-10-01 土 22:45:40 | | [編集]
Re: てめえ!神(イエス)に対して失礼だろ!
> ゆるされねえ!神が妄想だああ!ふざけるな!貴様はあくまだ!サタンだ!!
>
> このブログは何だ!?神への侮辱をコメント欄に残すんか??ええ?
>
> 神は偉大なり!神に忠誠を!神に忠誠を!!

時々、ヘンな人が湧いて出てきますね。
神=イエスなんでしょうか?
2016-10-09 日 11:25:38 | URL | 桃栗 [編集]
ちょっと考えてみた
>これは自分自身の願望や意見を、神の名を使って正当化しているだけではないですか。

そんな韓国人的思考性の人ももちろんいるけど、ほとんどの信者は無意識に自分自身の正義を他人に強要していると思う。神の名を使ってやり込めると言うより、キリスト教のシステムに取り込まれたが故の思考がそう言わせてるんじゃないかな?
逆に信仰心があっても桃栗さんのように罪の意識に囚われる人たち、受け身の人たちの場合は神の名を使って他人に正義を強要しない傾向なのかもしれない。キリスト教でいう羊たち。悪い言い方だけど、羊は羊であって人でない。人でないから神にはならないのかも。人が神に似て創られたとあるけど、形は人でも心が羊だと神の名を使わない気がする。

神の名を使って正当化する人は、伝播する側、リーダー気質な人が多い気がする。こっちは羊飼いだし、人だから神と同化しやすい。自分が話したことを神が自分に言わせてると思う人達。多分、羊から羊飼いに脱皮した人が多いんだろうけど。

神の名を使って正当化した最初の人は、キリスト教に限ればイエスが最初なのかな?ま、イエスは神の子で特別だとしたら、やっぱりパウロが最初の人になるのかな。キリスト教とイスラム教の神はユダヤ教の神より、より人間の思考に近い気がする。イエスとパウロの影響なんだろうけど、人と神の距離が近すぎる。源流であるユダヤ教の恐れる神、理解できない神から、神がほとんど人の想像の範囲に収まってる。人の基準で人が裁かれ、人の基準で神が語られてる気がする。

同化(虎の威を借りる狐)も大まかに分ければ二通りある。人が登りつめて神に同化するのと、人が神を引きずりおろすのと。イエスが目指したのは前者で、人全体を何段階か上に登らせようとした。でも現在の同化現象は後者が多い。これにも理由があって(勝手な推測ですけど)、イエスの天国への基準が厳しすぎて、一般人には無理だったから。だけど教会は信者に天国へ行けると信じ込ませないといけない。イエスの基準を緩和する必要に迫られる。そこでエルサレムに攻め込み聖地を奪還する十字軍に参加すれば、戦死しても天国へ行けるとか教会が言い出した。他にも山ほど神の名を使った例があるけど、多分、教会誕生と同時に教会が神と同化する必要があったんじゃないかな。教会が神と同化して天国行きのチケットを安売りしてきて、神父や牧師も神と同化してきて、現代では一般の信者も神と同化するようになったんだと思う。

このブログにくるクリスチャンで正義を強要する人は、明らかに神を引きずりおろして同化した人が多い。システムに取り込まれて無意識に上から目線で神を語る人もいれば、自らは神に近づく努力すらせずに醜態をさらす人もいる。桃栗さんが言う、「一旦は桃栗さんの説に同意しながら、でも、しかし、と反論する人」はシステムに取り込まれた人に分類できるんじゃないかな。桃栗さんからすれば厄介な人なのかもしれないけど、そこに悪意はないと思う。

でもよくよく考えてみると、神と同化する人ってさ、言い換えれば預言者だよね。
2016-10-28 金 23:54:05 | URL | 異教徒 [編集]
Re: ちょっと考えてみた
> >これは自分自身の願望や意見を、神の名を使って正当化しているだけではないですか。
>
> そんな韓国人的思考性の人ももちろんいるけど、ほとんどの信者は無意識に自分自身の正義を他人に強要していると思う。神の名を使ってやり込めると言うより、キリスト教のシステムに取り込まれたが故の思考がそう言わせてるんじゃないかな?
> 逆に信仰心があっても桃栗さんのように罪の意識に囚われる人たち、受け身の人たちの場合は神の名を使って他人に正義を強要しない傾向なのかもしれない。キリスト教でいう羊たち。悪い言い方だけど、羊は羊であって人でない。人でないから神にはならないのかも。人が神に似て創られたとあるけど、形は人でも心が羊だと神の名を使わない気がする。
>
> 神の名を使って正当化する人は、伝播する側、リーダー気質な人が多い気がする。こっちは羊飼いだし、人だから神と同化しやすい。自分が話したことを神が自分に言わせてると思う人達。多分、羊から羊飼いに脱皮した人が多いんだろうけど。
>
> 神の名を使って正当化した最初の人は、キリスト教に限ればイエスが最初なのかな?ま、イエスは神の子で特別だとしたら、やっぱりパウロが最初の人になるのかな。

間違いなくパウロでしょう。
イエスは、律法学者やパリサイ人のように信仰を押し付ける人を批判しましたから。
パウロなしでは現在のキリスト教は成立しません。
どういわけか、キリスト教の教義の多くがパウロの書簡から採られていますから。
キリスト教ではなくパウロ教と呼ぶべきでしょう。
2016-11-22 火 23:31:49 | URL | 桃栗 [編集]
かみさまは存在する。
こんばんは。
24歳の自称クリスチャンです。

神様が存在しない理由として、クリスチャンの言うことがバラバラである、とお話ししていましたね。僕が思うに、バラバラになってしまうのは聖書に書かれている言葉を自分の都合の良いように解釈し、自分の都合の良いように利用してしまうからだと思います。ただ、この聖書に書かれていることは、世界の始まりから変わらない、かみさまから人間への御言葉だと信じています。
2017-01-06 金 00:51:43 | URL | 24歳の自称クリスチャン [編集]
Re: かみさまは存在する。
> こんばんは。
> 24歳の自称クリスチャンです。
>
> 神様が存在しない理由として、クリスチャンの言うことがバラバラである、とお話ししていましたね。僕が思うに、バラバラになってしまうのは聖書に書かれている言葉を自分の都合の良いように解釈し、自分の都合の良いように利用してしまうからだと思います。

ですから、貴方に言われるまでもなく、
私がこのブログで口酸っぱく散々行ってきたことです。
それぞれに聖書の都合の良い箇所を都合よく解釈しているだけです。

> ただ、この聖書に書かれていることは、世界の始まりから変わらない、かみさまから人間への御言葉だと信じています。

信じているからどうだとおっしゃるのでしょうか。
何いいことでもあるのでしょうか

2017-01-19 木 21:51:46 | URL | 桃栗 [編集]
キリスト教のダメなところは、先在のロゴスを説きながら、ロゴス、言語、に
対して無頓着な人が多すぎるところでしょう。卑近なところでは業界用語、
言葉づかいに対してもあまりにも無頓着すぎる。言語とは社会性のこと
でもあるわけですが、そういうリテラシー能力に欠ける人が実に多い。
はっきり言って気持ち悪い。

神の安易な内面化、すなわち人間による自己の絶対化は聖書が繰り返し
戒めているところでもあるのに、その戒めを破って平気なのも、そこら辺と
必ず関係しています。
2017-02-18 土 09:06:26 | URL | おばったちゃん [編集]
また教会に行ってきました
こんばんは!忙しい中桃栗さんブログの管理お疲れ様です。また前行ってた教会と違う教会に嫁さんと行ったんですけど、そこは女性が説教をしていました。それで何か聞きたいことがあったら聞いてくださいと言われたので、新約聖書では女が男の上にたってはいけないとか女が男に物をおしえてはいけないとか女が教会でしゃべってはいけないとか書いてあるけどこれは守らなくていいんですか?と聞いたら聖書は聖霊に祈って読まないと分からないと言われました。嫁さんの行ってる教会の牧師はそういう事は女の人に言ってはいけないと嫁さんに言ってました。いやー他宗教は地獄行きっていうてるのにえらい身内には甘いですよねー。あんまり公平とかには興味ないんですかね?自分だけえこひいきしてくれー神様‼︎って感じな様な気がします。ストレートに言うと下品だからなんか上品そうな言葉で下品さを隠してると思います。まあ人間は自分だけ助かりたいっていう気持ちは誰でも多少はあると思うんですけど、そこは少しは自覚して欲しいなと思いましたね
2017-06-11 日 21:20:34 | URL | 猫好き [編集]
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